29.子猫の名前
「おはよう、ゾフィー」
私の朝は、コンラートのあいさつで始まる。彼の温かくて優しい笑顔を見ると、今日もいい一日になるだろうなと思える。
コンラートが青空教室を始めてからは、家事は二人で分担している。今日は、私が食事当番だ。
私は手の込んだ料理は得意ではない。今日の朝食は、買い置きのパンと、ありあわせの野菜をたっぷりと使ったスープだ。三日前にイノシシを仕留めたので、固くない新鮮な肉もふんだんに放り込んである。脂の乗った、いい肉だ。
「おはよう。もう少しで、スープができる」
「ああ、ありがとう。楽しみだな」
無邪気な笑顔でそう言って、彼は私の足元に勢ぞろいしている猟犬たちと子猫に声をかけた。
「おはよう、みんな。今日も元気そうでなによりだ」
その声に、子猫がにゃあと鳴いて彼の足に飛びつく。そのままどんどんよじ登っていき、あっという間に肩に乗ってしまった。
「こら、おてんばが過ぎるぞアーデルハイト」
アーデルハイトというのは、子猫の名前だ。昨夜、コンラートが命名した。その時のことを思い出すと、自然と口元に笑みが浮かんでいた。
昨夜、子猫を飼うと決めた時、コンラートは張り切ってこう言った。
「それでは、この新しい家族に名前を付けなくてはな。ゾフィー、何かいい案はないか?」
「特にない。あなたが好きに決めて」
私は六頭の猟犬を飼っていて、彼らの名前はアインス、ツヴァイ、ドライ、フィーア、フュンフ、ゼクス。古い言葉で一、二、三、四、五、六という意味だ。
初めて彼らの名前を聞いた時、コンラートはそれはもう微妙な顔をしていた。そんな安直な名前でいいのかと、そう言いたげな顔だった。
しかしこういった名前の付け方は、狩人の家ではよくあることなのだ。猟犬は私たちよりずっと寿命が短いし、狩りの中で命を落とすこともある。そうして猟犬が死んだ時は、新しくやってきた子犬がその名前を継ぐ。
私たち狩人にとって猟犬とは、普通に飼われている犬とは違うものなのだ。頼れる相棒であり、家族であり、それでいて、人間とは違う存在。
熊に襲われた時などは、猟犬を見殺しにして逃げなくてはならないこともある。猟犬たちを信頼するのはいい。だが、心を寄せすぎてはいけない。別れが悲しくなるからな。父さんはそう言っていた。
そんな複雑な思いを、口下手な私はコンラートにうまく説明できていなかった。というより、私自身がこの思いについてはっきりと理解できていないのだ。
ただ一つはっきりしているのは、のんびりと穏やかに暮らしを共にする動物につけてやるための名前を、私は持ちあわせていないということだけだった。
だから、子猫の名づけはコンラートに任せることにした。すると彼は、嬉々としながら名前の候補を次々と挙げ始めたのだ。それはもう、よどみなく。
「ブリュンヒルト、コンスタンツェ、……ジークリンデというのも捨てがたいな」
拾った子猫は雌だった。そんなこともあって、コンラートはきらきらしい女性名ばかりを口にしていた。長くて豪華で、聞いているだけでこそばゆくなるような名前たち。
「……長い。呼びにくい」
「だが、名前というのは私たちがこの子に贈ってやれる最初のものだろう? 良い名をつけてやりたいのだ」
まるで子供の名づけだ、とあきれた次の瞬間、ふっと考えが明後日の方向に向かう。いつか私たちの間に子供ができたら、彼はこんな風に名づけに悩むのだろうか。平民の子供とは思えないほどきらびやかな名前の数々に、私は眉をひそめるのだろうか。
うっかりそんなことを考えたのが悪かったのか、耳がかっと熱くなる。私たちはこうやって一緒に暮らしているし、一応互いの思いを確かめ合ってはいる。が、まだそういった関係ではない。私が逃げ回っているせいで、口づけひとつ交わしたことがないのだ。
ああ、しまった。余計に恥ずかしくなってきた。頬から耳にかけて、まるで燃えているように熱い。どうにかコンラートに気づかれないように、このほてりを冷まさなくては。ちょうど雪が降っているし、一度外に出てしまおう。
まだうなっているコンラートに気づかれないように、そろそろと玄関に向かう。その時、足元を走る小さな黒い影が見えた。
みゃっ、という小さな声がしたと思ったら、その黒い影が飛びついてくる。そのままするすると体を上ってきて、私の耳元でまた鳴いた。
コンラートはこちらを見て、目を丸くしている。
「子猫というものは、実に元気だな。……ゾフィー、どうした? 顔が赤いぞ」
「……暑い。のぼせただけ」
子猫のせいで、彼に赤い顔を見られてしまった。家を出るまで、あとちょっとだったのに。
「そうなのか? それだけにしては、やけに赤いが……もしかして、熱でもあるのではないか?」
心配そうな顔で、コンラートが近づいてくる。肩に座ったまま私の髪をかじる子猫に気を取られていたせいで、彼に思いきり近づかれてしまった。
彼は私の肩をつかむと、そっと顔を近づけてくる。ついさっき、うっかり口づけのことを考えてしまった私には、この光景は刺激が強すぎた。
おそらく彼は、私が熱を出していないか確かめようとしているだけなのだろう。それは分かっている。けれど顔が近すぎる。
「だ、大丈夫、本当に大丈夫だから! ほら、それよりこの子の名前でしょう!」
肩の子猫をひっつかんで、彼の顔面に押し当てる。
「いや、しかし……」
彼は片手で子猫を受け取り、もう片手で私の額に触れた。
「確かに、熱はないようだな。良かった」
そう言って微笑むコンラートの顔は、いつも通りに穏やかだった。自分だけあたふたしているのが、ちょっと悔しくなってしまうくらいに。
そんな騒動を経て、子猫の名前はアーデルハイトに決まった。私は短くアデルと呼ぶことにした。
「ご飯、できたよ」
スープを皿によそい、パンと一緒に食卓に並べる。壁際で待っていた猟犬たちにも、餌を乗せた皿を差し出した。
アデルは相変わらずコンラートによじ上ったままだ。どうやらこの子は、人の肩が好きらしい。
「降りなさい。あなたのご飯はこっち」
肉と乳を混ぜた小さな皿を見せると、アデルはコンラートの肩にしっかりと爪を立てて、みゃあ、とひときわ大きな声で鳴いた。その皿をこちらに持ってこい、と言いたいようだ。昨日この家にきたばかりなのに、中々に態度が大きい。
背後から、わふ、という小さな声がした。ご飯の皿を前にお預けをくっている猟犬たちの、精いっぱいの抗議の声だ。
「アーデルハイトは可愛らしいな。まだ小さいし、机の上で一緒に食べるか?」
「だめ、コンラート。小さいうちだからこそ、しっかりとしつけるの」
どうもアデルのこととなると、コンラートと意見が食い違ってしまう。これでは、本当に子供を育てるとなったら大変だ。ついそんなことを考えてしまい、びっくりして思考が止まる。また、耳が熱くなった。
どんどん熱くなる頬と耳に手を当てて冷ましている間に、コンラートは食卓の端の方にアデルを座らせ、その前に彼女の餌皿を置いている。
「……癖になったら、直すのが大変」
「まあまあ。今日だけだ」
そう答えるコンラートがとても幸せそうな顔をしていたので、今日くらいならまあいいかな、という気分になる。
たぶんこのまま押し切られ続けて、アデルはずっと食卓の上に乗るようになるんだろうなという気もする。まあいいか、猫はそもそも人のいうことを聞かない生き物らしいし。あきらめよう。
気を取り直して私も席に着き、食前の祈りの文句を二人一緒に唱える。それが終わったと同時に、猟犬たちがいっせいに餌に食いついた。ちなみにアデルは、お祈りの間一足先にもぐもぐやっていた。
「さあ、私たちもいただこう。ゾフィーのスープを朝から食べられるのは、私だけの特権だ」
「特権って、そんなにいいものでもない」
「いいや、とても素晴らしい権利だよ。この森で君と暮らし、君と家事を分け合い、支え合って生きる……そんな幸せが、そうあるだろうか」
コンラートはスプーンを片手に、誇らしげにそう言い放った。餌皿に顔を突っ込んでいたアデルが顔を上げ、にゃ、と鳴いた。同意しているようにも聞こえる。
「おや、アーデルハイト、顔が汚れているぞ」
すかさずコンラートが、布でアデルの顔を拭いていく。猫は自分の顔を自分で洗えるというのに、やっぱり彼は過保護だ。
けれど、彼のこんな一面を見られたこと自体はとても嬉しい。その点については、アデルに感謝しなくては。
くすりと笑った私を見て、アデルが少し不満げに、みゃっ、と鳴いた。