26.王子様とお姫様
「緊張してきた……」
今日何度目になるのか分からないそんな言葉をつぶやきながら、両手を組み合わせる。ここは広場の一角に作られた舞台の、そのすぐ裏側だ。私は今ここで、椅子に座ってじっと出番を待っている。いよいよこれから、私たちは劇に出るのだ。
周囲には幕が幾重にも張り巡らされていて、周りからは見えないようになっている。幕が音を吸い込んでいるのか、ここは祭りのさなかとは思えないくらい静かなように感じられた。
お祭りを一通り楽しんだ私とコンラートは、二人一緒にここにやってきた。それから別々に、支度を整えていったのだ。
村の女たちに手伝ってもらいながら衣装に着替え、髪と化粧を華やかなものに改める。こんな風に装ったのなんて、生まれて初めてだ。
普通の娘であれば、お祭りやら何やらの機会に着飾ることもあるのだろう。しかし私はずっと父さんと二人暮らしだったし、外の人間との付き合いはほとんどなかった。コンラートが転がり込んでこなかったら、たぶん一生おしゃれには縁がなかったのだろうなと思う。
それにしても、と自分がまとっているドレスに目をやる。お姫様らしく優しい桃色のそれは、いつもの服と比べるとずっとひらひらして、たいそう動きにくかった。
「……こんな格好で、ちゃんと踊れるのかな」
「大丈夫だとも」
独り言に返事があったことに驚きながら、顔を上げて声がしたほうを見る。
コンラートが優雅なしぐさで、幕の切れ目をくぐってこちらに近づいてくる。いつもの素朴な服ではなく、きらきらとした飾りのついた、華やかな衣装をまとって。それは初めて会った時に彼が着ていた、ぼろぼろになったあの服をどことなく思い出させるものだった。
思わず見とれてぽかんとする私に、彼は困ったように眉をひそめながら近づいてきた。
「どうしたのだ、ゾフィー? どこか具合でも悪いのだろうか」
「……ううん。少し、驚いただけ」
言えない。彼があまりにも素敵で、本当に王子様のように見えただなんて。
子供の頃に父さんと見た旅芸人の劇、そこに出てきた王子様に、私は長いこと憧れていた。けれど目の前のコンラートは、その王子様よりもずっと華やかで、ずっと高貴で、ずっとずっと魅力的だった。
ほうとため息をつきながら口ごもる私に、彼は安心したように言葉をかけてくる。
「そうか。それなら良かった」
彼はこちらに手を差し伸べて、私を椅子から立たせる。桃色の長いスカートが、ふわりと揺れた。まるで花みたいだな、と頭の片隅でそんなことを考えた。
「ゾフィー、君なら問題なく踊れるさ。いつも練習に付き合っていた私が言うのだ、間違いない」
「……そう、かな」
「ああ。緊張しなくてもいい。私がついている」
力強くうなずくコンラートを見ながら、私は別のことを考えていた。
踊りの腕前を認められたのは嬉しいけれど、見た目のことにも触れて欲しかった。生まれて初めて着飾ったのだし、どうせならこちらも褒めてもらいたかった。つい、そんなことを思ってしまったのだ。
自分はコンラートへの褒め言葉を飲み込んでしまったくせに、ずうずうしい。今度はそう思えてしまって、こっそりとため息をつく。
すると、彼はいきなりその場にひざまずいた。上目遣いにこちらを見ながら、うっとりと微笑んでいる。
「それにしても、君はすっかり見違えたな。普段の君も生き生きとしていてとても美しいけれど、そんな格好をしていると、まるで本当にどこぞの令嬢のように見える」
「さすがに、令嬢は無理がある」
「無理なものか。凛とした君は、本当に気高い姫君のようだよ」
「今度は姫君なのね」
「それくらいに、君は美しいということだ。こんな麗しい姫君と舞台に立てるとは、私は本当に果報者だな」
コンラートから褒め言葉をたっぷりともらって、いつも通りの他愛ないお喋りをして。そうしているうちに、さっきまで感じていた緊張はすっかり消えてしまっていた。
「……ありがとう。コンラートも、王子様みたい。素敵」
勇気を出して、言い慣れない言葉を口にする。コンラートは目を真ん丸にして、それから頬を真っ赤に染めた。
「……あ、ああ、ありがとう。……君にそう言われると、照れるものだな。いかん、今度は私が緊張してきた」
明るい水色の目をぱちぱちとまたたいて、彼は視線をさまよわせている。そんな彼を見ていると、自然と笑いがこぼれ出た。戸惑っていたコンラートも、やがてつられるように笑いだす。
「考えてみれば、ここまで緊張したのはあの青空教室を始めたとき以来だな。あの時も、君がそばにいてくれた。私の隣で、支えていてくれた。そうして今も、君が共にいる。……なんだ、ならば問題はないな。緊張することなど、何もない」
そう言って、彼は一人で納得している。私は特に何もしていないのだけれど、彼が嬉しそうなので口ははさまない。
ちょうどその時、私たちを呼ぶ声がした。いよいよ、劇が始まるらしい。
「さあ、行こうかゾフィー。私たちで、みなを夢の世界に連れて行こう」
「大げさ」
小声でささやき合いながら、私たちは舞台に向かって歩き出した。
舞台に上がると、既に客席はいっぱいだった。座りきれなかった人たちが、ずらりと客席の周囲に立ち並んでいる。
駄目だ、また緊張してきた。こちらに向いている視線が多すぎて、頭が真っ白になりそうだ。元々人込みは苦手で、人付き合いのろくにない私が、どうしてこんな目に。
心の中でぼやきながら、覚えたせりふを一生懸命に口にしていく。時折、客席から声援が飛んでくる。そのせいで、余計に身がすくむ。
何とか最初の場面を演じ終えて、舞台の上に置かれた寝台に横たわり目を閉じる。ここからはコンラートの出番だ。観客の視線が直接見えなくなったので、ようやく一息つける。
そうしていると、コンラートの声が聞こえてきた。
「ああ、なんと古びて、朽ちた城なのだろうか。このようなところに、本当に眠れる姫君がおられるのだろうか」
この劇の筋書きはこうだ。遥かな昔に魔法で眠らされた姫の話を聞いた王子が、王宮を飛び出してただ一人噂を確かめに行く。彼は古城で姫と出会い、恋に落ちる。そして二人は姫に魔法をかけた悪魔を倒し、結ばれるのだ。
緊張をほぐそうとそんなことを思い出している間にも、コンラートの気配が近づいてくる。
「これは……なんとも麗しい姫君だ。きっと彼女の瞳は、宝石のようにきらめくのだろう。その薔薇のつぼみのような唇からは、どんなに美しい声がこぼれ出るのだろうか」
それにしても、聞いているだけでこそばゆくなるせりふだ。初めて聞いた時は、こらえきれずに吹き出した。今もちょっとだけ、口元が引きつっている。
「姫よ、どうか私の声にこたえてくれ。その目を開けて、私を見てくれ」
その言葉を合図に、舞台の背景が切り替わる。古城の部屋を描いた板の上に、様々な色がちりばめられた大きな布がばさりとかけられるのだ。
「ここは姫の夢の中だよ」
「あなたは何をしにきたの」
「早く帰らないと、悪魔がくるよ」
そんな子供たちの声が、舞台の上にかけこんでくる。彼らは、姫を守っている心優しき精霊たちの役だ。
実はこの場面は、今回新たに付け加えられたものだ。村の子供たちも劇に参加できるようにという、コンラートの気遣いだ。彼は本当に、そういった細かなところに気が回る。
さて、そろそろ私の出番だ。ゆっくりと身を起こし、戸惑い顔のコンラートに声をかける。
「あなたは、どなたでしょうか」
彼の表情が、ゆっくりと変わっていく。驚きから優しい笑みへ、そして陶酔のまなざしへ。
練習の時とはまるで違うその表情に、ここが舞台の上だということも忘れて彼に見とれてしまった。演技のはずなのに、胸が高鳴る。
練習の時は照れてしまって、私はつい仏頂面になってしまっていた。でも今の私は、きっと最高に良い演技ができているのだろう。だって私が演じている姫君は、一目で王子と恋に落ちる、そんな役柄なのだから。
私が姫だなんて、がらじゃない。今でも、その考えは変わらない。けれど、この役を引き受けて良かったとも思う。コンラートは、私の王子様だ。他の女性が姫を務めるなんて、絶対に嫌だ。
自然と笑顔になるのを感じながら、私は姫の役を演じ続けた。緊張は、もう感じなかった。