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23.思いがけない休息

「こっちの草が薬草で、こっちの草は毒草。よく似てるけど、匂いが違う。悩んだら、もんで匂いをかぐといい。触るだけなら大丈夫だから」


 ある日、私は子供たちと森の中にいた。猟犬たちと、それにコンラートも一緒だ。今日はここで、青空教室を開くことになったのだ。


 そもそもの始まりは、子供たちのおねだりだった。ゾフィー先生も何か授業をしてよと、彼らはきらきらした目でそう言いだしたのだ。


 でも私は読み書きが多少できるだけで、子供たちに教えられるようなことなど何もない。そう言ってどうにか子供たちをなだめて、その話はそこで終わりになった。少なくとも私は、そう思っていた。


 しかしその夜、コンラートが唐突にこんなことを言い出したのだ。


「昼間の話なのだが、君は森の中で生き抜くための知識や技術をたくさん持っているだろう? それを少しばかり、教えてやるというのはどうだろうか」


「……でも、村の人たちはあなたの授業にお金を払っているのに」


「君は狩人として、村の者たちから一目置かれている。問題ないと思うが……どうしても気になるというのなら、通常の授業とは別に行う、特別な課外授業ということにすればいい」


「やけに乗り気なのは、気のせい?」


「おや、やっぱり君には分かってしまうか。実は、君が教師役をこなすところを、どうしてもそばで見たいのだ」


「私、そういうの向いてない」


「いいや、きっと向いているさ。私には見えるんだ、凛とした君が、見事に子供たちを導いている姿が。ああ、素晴らしい……」


 コンラートはうっとりと両手を組み合わせながら、どこか遠くを眺めている。その顔には、とても幸せそうな笑みが浮かんでいた。


 彼をがっかりさせるのも何だし、一度真剣に考えてみようか。でも、いったい何を教えればいいのだろう。


 私が一番得意なのは、獣を狩ることだ。でも、弓矢や山刀で獣を倒せるようになるには、かなり練習しなくてはならない。罠を使えばもっと楽になるけれど、罠を仕掛ける場所を見極めるのはとても難しい。私ですら、いまだにあれこれと試しているくらいなのだから。


 だったら、獣の処理の仕方を教えるというのはどうだろう。そう考えて、すぐに首を横に振る。それは駄目だ。よく切れる刃物がたくさん必要になるし、そもそもそんな授業には、コンラートが耐えられない。彼は今でも、血なまぐさいのは苦手なのだ。


 うんうんと静かにうなり続けている私に、コンラートがまた声をかけてくる。


「ただ森の中を歩くだけでも、子供たちはたくさんのことを学べるのではないだろうか」


「歩くだけ?」


 拍子抜けする私に、彼は自信たっぷりにうなずきかけてきた。


「そうとも。村の子供たちは、危ないから子供だけで森に入るなと、きつく言われているのだそうだ。きっと彼らにとって、森の散策はとても楽しいものになるだろう」


「でも、ただ遊ぶだけっていうのも……」


「ならば、木の実や薬草などを集めるのはどうだろう。……前に君と野ブドウを食べた時は、とても楽しかった。ぜひ子供たちにも、あのときめきを与えてやってくれ」


 彼が私の家に転がり込んできた最初の秋に、一緒に森を歩いた時のことが思い出される。コンラートはあの時と同じ無邪気な笑顔で、こちらを見つめていた。


「……うん」


 そう答えると、彼はぱあっと顔を輝かせた。子供たちの笑顔に、よく似ているなと思った。




 そんなやり取りがあってから数日後、私たちはみんなでカシアスの森を歩いていた。私にとっては庭も同然の場所だが、子供たちは初めての遠出に目を輝かせている。そしてコンラートまでもが、同じように満面の笑みを浮かべていた。


「この先の、柔らかい新芽だけを摘んで。そうすればまた、伸びてくるから」


 獣道のすぐそばに生えていた薬草の枝を引き寄せて、ぽつぽつと説明する。見分け方、採取の仕方、摘んだ後の取り扱い、などなど。子供たちは薬草をもっと近くで見たいと言って、ぎゅうぎゅうと押し合いへし合いしていた。


 寄り集まって地面にかがみこむ私たちと、それを優しく見守るコンラート。猟犬たちはその周囲で、危険な獣たちが近づいていないか見張ってくれている。


 それはとても穏やかで、温かな時間だった。後ろのほうから、子供の小さな悲鳴が聞こえるまでは。


「先生、今、何かいた!」


 その声に、みながそちらを振り向く。後ろの方にいた子供の一人が、近くの茂みを指さして叫んでいた。その茂みが、かさりと動く。いけない、あの動きはおそらく蛇だろう。


 子供たちを遠ざけなければ。そう思って、とっさに叫び返す。


「危ない、下がって!」


 けれどそれが良くなかった。それでなくてもおびえていた子供たちが、逃げようとしてぶつかり合い、足をもつれさせて転ぶ。その動きが気にさわったのか、茂みから蛇がはい出てきた。


 なんということだろう。あの模様は、毒蛇だ。私と猟犬たちが、いっせいにそちらに向かう。毒蛇はこちらを脅すように大きく口を開け、身構えた。


 その時、コンラートが思わぬ動きをした。彼は転んだ子供の横にひざをつくと、しっかりと子供を胸に抱え込んだのだ。


 おそらく彼は、子供を抱えて逃げようとしたのだろう。しかし彼が立ち上がるより早く、蛇が彼の腕に食いついていた。


「コンラート先生!」


 子供たちの悲鳴が上がる。私も叫びたかったが、ぐっとこらえて彼のそばに駆け寄った。


 それからはもう、無我夢中だった。蛇を仕留めて傷の手当をし、猟犬たちを付き添わせてコンラートを先に帰宅させた。私一人で子供たちを村に送り届けて、それから大急ぎで家に戻る。村から家まで、ひたすらに走り続けた。


 死ぬほどの毒ではないと知っていたけれど、それでもやはり、コンラートのことが心配だった。少しでも早く、彼の顔を見たかった。


 全速力で家に飛び込んだ私を、コンラートの柔らかな声が出迎えた。


「おかえり、ゾフィー」


 彼は居間の椅子に座ったまま、こちらを向いて微笑んでいる。かまれた腕が痛むのか、そちらの腕をかばっている。けれど今のところは、それほどひどいことにはなっていないようだった。


「安静にしててって言ったでしょう!! どうして起きてるの!」


 ほっとした拍子に、コンラートを怒鳴りつけてしまった。我に返って口を押さえたがもう遅い。


「あ、あの、ごめん」


「いいのだ。君は私の身を案じてくれたのだろう? そんなに息を切らせて」


 腕に包帯を巻いたコンラートが、そう言って嬉しそうに微笑む。本当に彼は、私のことをよく見てくれている。でもそのせいで、ついつい彼に甘えてしまう。


 無口で口下手な私だけれど、ちゃんと伝えるべきことは言葉にしなければ。彼に甘えっぱなしではいけない。


「うん。……あなたのことが心配だったから、つい言い方がきつくなった。ごめんなさい」


 ちょっと恥ずかしいけれど、頑張ってそう答える。コンラートの笑みが、さらに深くなった。


 その時、ふと違和感を覚えた。気のせいか、彼の目つきはどことなくぼんやりとしている。呼吸もいつもより荒く、浅い。


 考えるより先に手が動き、彼の額に触れる。


「コンラート、熱が出てる。家事は全部私がやるから、あなたは休んでて。今日はもう、寝台から出たら駄目」


「熱といっても、これくらいなら大したことはないと思うのだが」


「駄目なものは駄目」


 無事な方の腕をつかんで、ぐいぐいと引っ張る。コンラートを引きずるようにして部屋に連れていき、力ずくで寝台に押し込む。濡らした布を額に乗せて、ついでに脈を測る。


「今のところは大丈夫そうだけど……痛みがひどくなったり寒気がしたりするようなら、すぐに教えて」


 コンラートはおとなしく寝台に横たわり、私の顔をじっと見ていた。どういう訳か、彼はずっと笑顔のままだ。苦しそうなのに、なぜか笑っている。


「さっきから、どうして笑ったままなの?」


 彼の表情が気になって、そう尋ねる。コンラートは笑顔のまま、目を閉じてしみじみとつぶやいた。


「……君にこうやって看病されるのは久しぶりだな、と思っていたのだ。あの頃の私は、本当に愚かだったな、とも」


 あれは、彼がこの家に来た次の日の朝だった。勝手に薪割りをしようとして腰を痛めた彼を、大騒ぎしながらこの寝台に運び込んでやった。


 あの朝の騒動を思い出すと、今でも笑いそうになる。精いっぱい真面目な顔を心掛けながら、そっと言葉を返した。


「別に、愚かじゃなかったと思う。恩返しをするつもりだったんでしょう」


「ありがとう、ゾフィー。だが、やはり愚かだったのだ。あの頃の私は、君たちの暮らしを、その仕事を、甘く見ていた。あれくらいなら私にもできると、そう思い上がっていたのだよ」


 そう言いながらも、彼の口元にはおかしくてたまらないといった笑みが浮かびっぱなしだ。不意に愛おしさのようなものがこみあげてきて、そっと彼の手に触れる。


「でも、今は愚かじゃない。とにかく、今日はもう休んで。たぶん明日になれば、熱も引くから」


「ああ、分かった。……一つだけ、頼んでもいいだろうか」


 彼の声が、ゆるやかになっていく。熱のせいなのか、頭がぼんやりしているらしい。


「なに?」


「私が眠りにつくまで、手を握っていてくれないか。子供のようだということは承知しているが、今は君に甘えたい気分なのだ」


「……うん」


 普段は、私が彼の気遣いに甘えてしまっている。そんな私が、彼を甘やかすことができる。そう思ったとたん、不思議なくらいに胸が温かくなるのを感じた。


 手を伸ばし、コンラートの手をぎゅっと握る。彼が実家に戻っていた間に柔らかくなってしまっていたその手には、またうっすらとたこができていた。かつては柔らかな手の貴族だった彼は、今は固い手の教師になった。


 彼と出会ってから二年とちょっと、たったそれだけの間に、色々なものが大きく変わった。彼は身分を捨てて私を選び、新たな仕事を得た。私は相変わらず狩人として生きているけれど、人と関わる時間がずいぶんと増えた。


 コンラートの呼吸が、ゆっくりと深いものになっていく。熱のせいなのか、どうやら彼はあっさりと眠ってしまったらしい。


 それでも私は彼の手に触れたまま、彼の寝顔を眺めていた。くすぐったいような嬉しいような感覚に、自然と笑顔になってしまう。


 蛇が出た時はどうなるかと思ったけれど、彼のおかげで子供たちは全員無事だった。本当に、彼は頼りになる。


「ありがとう、コンラート。あなたがいてくれて、本当に嬉しい。ずっと、ここにいてね」


 幸せそうに眠る彼の口元が、かすかに動いたように見えた。けれど目覚めることはなく、安らかな寝息を立てている。


 結局それからしばらくの間、私はこの静かな時間をこっそりと楽しんでいた。いつかさっきの言葉を、きちんとコンラートに伝えよう。そう決意しながら。

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