22.甘えてみた
テオと別れ、ちょっぴり軽くなった足取りでまた森に戻る。テオのところでかなり時間をくってしまっていたが、残りの時間はしっかりと狩りに精を出した。ついてしまった小さな嘘を、少しでもなかったことにしたくて。
けれどこういう日に限って、獣の気配すらしなかった。しかも、仕掛けてあった罠も全て空だった。仕方なく、手ぶらで帰る。何も捕れないことも珍しくはないけれど、今日はそのことがやけに悔しかった。
玄関の扉を開けると、いつものようにいい匂いが漂っていた。コンラートがいそいそと姿を現し、満面の笑みで私たちを出迎える。
「お帰り、ゾフィー。今日も君が無事に戻ってきてくれて嬉しい」
彼はいつまで経っても、私が狩りに出ていることが心配なようだった。彼は毎回私の無事を確認しては、ほっとしたように微笑むのだ。
その気持ちは分からなくもない。まだ私が小さかった頃、一人で狩りに出ていた父さんを私は同じように見送り、同じように出迎えていたのだから。
「今日は何も捕れなかった」
後ろめたさを隠しながらそう告げる。コンラートは嬉しそうな笑みを少しも崩すことなく答える。
「君たちが無事に戻ってきたこと、それが何よりのみやげだよ」
それから彼は、猟犬たちの頭を順になで回し始めた。良い子だ、無事でよかった、と一頭ずつに声をかけていた。とても優しく、ていねいに。いいな、うらやましい。
「……私もなでて」
嬉しそうにぶんぶんとしっぽを振っている猟犬たちを見ていたら、ついうっかりそんなことを言ってしまった。次の瞬間はっとして口を押さえたが、もう遅かった。
コンラートは目を輝かせると、感極まったように両手を胸の前で組み合わせた。
「ああ、君からそんな言葉が聞けるなんて、私はなんと果報者なのだろう!」
「……大げさ」
何とかして今の言葉を取り消せないかと、必死に考えをめぐらせる。しかし焦っているのかちっとも考えがまとまらない。そもそも、どうして私はあんなことを口走ってしまったのか。
昼にテオと話した内容がよみがえる。寂しいんなら、素直にそう言ってみろ。テオはそう言っていた。私が妙なことを言ってしまったのは、きっとその助言のせいだ。
うつむいてそんなことを考えていると、不意にぽんと頭の上に何かが置かれた。皮が固くなった大きな手が、優しく私の髪をなでている。
「ゾフィー、君も良い子だ。こうして君と共にいられるだけで、私はとても幸せだ」
コンラートは嬉しそうに目を細めながら、優しく語りかけてくる。彼はいつも、あふれんばかりの言葉を私にくれる。温かくて柔らかい、素敵な毛布みたいな言葉だ。
けれど彼が優しければ優しいほど、私の戸惑いも強くなっていった。心の中にひそんでいたもやもやが、ぷかりと浮かび上がってくる。
「……どうして、私なの」
そんな一言が、口をついて出てしまう。そのことに焦りつつ、必死に次の言葉を探す。
「どうしてあなたは、私を選んだの」
言ってしまってから、ようやく気づけた。私が抱えていたもやもやの正体に。
コンラートが私のことを愛している、そのこと自体に疑いはなかった。けれど彼の思いを強く感じれば感じるほど、分からなくなっていったのだ。どうして私なのか、と。
彼は少々おっちょこちょいだし、思い込みも強いし暴走しがちだ。けれど彼は有能で、たくさんの人に好かれている。新しく教師という仕事を手にした彼は、それはたくさんの笑顔に囲まれるようになった。私が寂しさを覚えてしまうほどに。
「……あなたには、もっと他にお似合いの人がいるんじゃないかって、やっぱりそう思う」
「違うな」
今まで聞いたこともないくらい固い彼の声に、思わず身をすくめる。その拍子に、私の頭から彼の手が離れた。心地良い重みと温かさが、すっと薄れる。
「私には君しかいない。誰にも、そのことを否定されたくはないんだ。たとえそれが、君自身であっても」
きょとんとした次の瞬間、思い切り抱きしめられた。ためらいのかけらもない力強い抱擁に、息ができない。
「一目惚れに、理屈などないのかもしれない。けれど君が望むのなら、私はいくらでも語ってみせよう。私が君のどこに惹かれたのか、君をどれほど愛おしく思っているのか」
いつも穏やかな彼からは想像もつかない熱っぽい声に、鼓動が一気に速くなる。
「君は野を駆ける鹿のようだ。自由で気高く、そして美しい。あふれる生命力が、君を鮮やかに彩っている。きっと私を最初に魅了したのは、君のそんな側面なのだろう」
生まれてこの方聞いたこともないようなきらきらした褒め言葉が、次から次に投げかけられる。私はただ、目を白黒させることしかできなかった。
「そして君は、口数が少ないことや表情があまり豊かでないところを気にしているのだと思う。だが私は、そこもまた君の魅力だと思うのだ」
「そうなの?」
どう考えても、愛想がいいに越したことはない。きちんと言葉で説明できた方がいいに決まっている。
「そんな君といると、私はとてもほっとするのだ。生まれてこの方、私は貴族の社会しか知らなかった。そこではみな互いの心を偽り、うわべだけ美しい言葉や笑顔があふれていた。でも君は、そんな人間たちとはまるで違う」
彼が心からそう思ってくれているのが、声からひしひしと伝わってきた。彼の胸にしっかりと抱きしめられたまま、小さく笑う。
「ありがとう、寂しくなくなった。……少しだけ」
しかしそう答えたとたん、コンラートはびくりと身を震わせる。
「何と、私は君を寂しがらせていたのか。これでは恋人失格だな。どうか許してくれ、ゾフィー。せめてもの埋め合わせに、私は君にもっともっと愛をささやこう」
「……恥ずかしい」
とっさに顔を隠そうとして、既に自分がすっぽりと彼の腕に包まれていることを思い出した。さらに鼓動が速くなる。
彼から離れないと、跳ね回る心臓は落ち着いてくれない。でも彼から離れると、真っ赤になった顔を見られてしまう。
どうにも身動きが取れなくなって、そのまま立ちすくむ。そして私の様子がおかしいことに、彼が気づいてしまったらしい。
「どうしたんだ、ゾフィー。急に黙りこくって」
コンラートはそう言いながら、ぱっと体を放した。とっさに顔を伏せて、なんでもない、と小声で答える。
「なんでもない……ようには見えないな。耳が赤くなっている」
「仕方ない。恥ずかしかったんだから」
もうちょっと気のきいた返しができないものかと思っているのに、私の口からこぼれ落ちるのはそんな無愛想な言葉だけだ。
「恥ずかしがってもらえるのか。それは光栄だ。それだけきちんと、私のことを意識してくれているという証なのだから」
しかしコンラートは、私が思いもしない言葉で答えてくれる。そのことが、とても嬉しい。
「……ありがとう。あなたがいてくれて、嬉しい」
だから、そろそろと顔を上げてもう一度礼の言葉を口にした。せめてこの思いだけでも、きちんと伝えておきたくて。
「ああ、私はこの世で一番の果報者だ」
大げさに感動する彼と一緒に、台所に向かう。今日もいつものように彼と食卓を囲める、そんなささやかな幸せを噛みしめながら。