2.行き倒れの事情
コンラートは家事において、まったくの役立たずだった。
どうやらまともに小刀を握ったことすらないらしく、野菜や肉を切らせてみたところ、恐ろしくいびつでふぞろいな切り方しかできなかった。怪我こそしなかったものの、おっかなびっくり食材を切っているのでひどく時間がかかっている。
それだけではなく彼は、火のおこし方も、煮炊きの仕方も知らなかった。最初に彼を見た時、まるで貴族のようだと思ったけれど、もしかすると本当に貴族なのかもしれない。そうでなければ、彼が今まで生きてこられたはずがない。それくらい、彼は何もできなかった。
しかし彼が貴族だとすると、今度はあんなに薄汚れた姿であんなところに行き倒れていた理由が分からない。何か、訳があるのだとは思うけれど。
ふと彼に興味を持ちそうになったが、すぐに思いとどまった。彼の事情なんて、別に知る必要もない。彼と過ごすのは、今夜一晩限りだ。うっかり余計なことを知ってしまえば、厄介なことに巻き込まれないとも限らない。
好奇心を一生懸命に追いやりながら、二人がかりでどうにかシチューを作り上げた。ついつい考え事をしてしまって上の空になっていた私と、絶望的にどんくさいコンラートの二人で作ったにしてはまずまずの仕上がりだった。
「ああ、こんなに立派な食事にありついたのは何日ぶりだろうか……」
ありあわせの野菜と肉を切って煮込み、塩と香草で味付けしただけの質素なシチューを、コンラートは最高のごちそうであるかのような顔で口に運んでいた。
「神よ、ゾフィーに出会えたことを感謝いたします……!」
時折そんな大げさな言葉をつぶやきながら、彼はせっせと平らげ続けていた。まるで、何日も絶食していたのではないかと思えるほどの勢いだった。
食後のお茶を出してやると、コンラートは杯を両手で包むようにして持ち、満足げなため息をもらした。それもそうだろう、彼は私の倍以上は食べたのだから。どうやらずっと空腹だったようだが、それにしても見事な食べっぷりだった。
「温かい食事に、しかも茶まで……こんなに素晴らしい食卓は久しぶりだ。家を追い出されてから、色々なことがあったものだ……」
しみじみとそう言いながらも、彼は期待に満ちた表情でちらちらとこちらを見ている。どうやら、自分の事情を話したくて仕方ないらしい。
深入りするのは避けたいところだったけれど、ちょっと話を聞いてやるくらいなら大丈夫だろう。そう考えて、口を開く。
「……何が、あったんですか?」
次の瞬間、彼はぐいと身を乗り出してきた。顔が輝いている。思わずのけぞっている私に構わず、彼は感動しているかのように身を震わせた。なんというか、いちいち大げさだ。
「ああ、聞いてくれるか。すべては私の、愚かさが招いたことだったのだ……」
そうして彼が語り始めた話は、私のような狩人には全く縁のない世界の出来事だった。
コンラートは伯爵家の令息だったそうだ。それがどれくらい偉いものなのか分からないけれど、とりあえず雲の上の人だということで間違ってはいないだろう。
そして彼には、親が決めた婚約者がいた。しかし彼は舞踏会で知り合った別の令嬢に一目惚れして、一方的に婚約を破棄してしまったのだそうだ。
私も、婚約という言葉だけなら知っている。裕福な商人の娘などには、婚約者がいたりするからだ。しかし婚約とは、そんなに簡単に破棄できるものだったろうか。首をかしげそうになるのをこらえて、彼の話を聞き続けた。
そうして彼は令嬢に改めて求婚したのだが、令嬢の側はちょっとした火遊びのつもりでしかなかったらしく、あっさりと彼は振られてしまった。
そこでようやっと自分の過ちに気がついた彼は、元婚約者のところに謝罪に向かうことにした。私が悪かった、もう一度君とやり直したい、そう告げるつもりで。
「ところが彼女は、既に隣国の王子に見初められていたのだ。私は門前払いをくらってしまった。『私は今、幸せに暮らしています。だからどうか、もう二度と顔を見せないで』という別れの言葉を投げつけられて」
「……何から何まで自業自得ですよね」
ついつい本音がこぼれ出てしまった。しかしその声はコンラートには届いていなかったのか、彼は悲しそうな顔のまま説明を続けていた。
「失意のうちに屋敷に戻ったところ、今度は父上に叱られてしまったんだ。お前のような愚かな人間は我が家には置いておけない、少し頭を冷やしてこい、と」
「……もしかして、そうして家を追い出されて、さまよい続けたあげくに行き倒れた、そういうことですか」
「その通りだ。私はもう家には、貴族の世界には戻れない。だからどうにかして平民たちの中で生きる術を探していたのだが……うまくいかないものだ」
「当然でしょうね」
彼の手元にちらりと目を落としながら、静かに答える。長い間さまよっていたにも関わらず彼の手は柔らかく、明らかに力仕事をし慣れていない者の手のままだった。農民や大工といった仕事は、彼には向いていないだろう。
かといって商売に向いているようにも思えない。コンラートは頭そのものは悪くなさそうだったが、商人たちのような抜け目のなさは全く持ち合わせていないように見えた。むしろ、どちらかというと間が抜けているような気がする。そのくせ、時々妙に偉そうな態度をとっていたりもする。たぶんこれは、貴族として生きていた頃の名残だろう。これではとても、商人として生きることなどできない。
しいて言うなら役者だろうか。子供の頃に父さんと見た、旅芸人の劇を思い出す。この大仰な物言いとすらりと美しい姿は、きらきらした劇ではきっと映えるだろう。彼に演技ができれば、だけれど。
「ところでゾフィー、君はどうしてこんな森の中で一人暮らしをしているのだろうか。すぐ近くに村があるのなら、そちらで暮らした方が寂しくないのではないか?」
また物思いにふけっていた私に、コンラートが少々ぶしつけな質問をぶつけてくる。顔を上げると、真剣な顔でこちらを見つめている彼と目が合った。どうやら純粋に、私のことを心配してくれているだけらしい。
不審そうな目を向けてしまったことを少しだけ反省して、素直に答える。
「……私はここで生まれ育ちました。父さんも狩人だったので、私も狩人になった、それだけです。ここでなら、周囲を気にせずに獣の解体ができますし」
二年前に父さんを亡くしてから、私はずっと一人で暮らしていた。その家の中に他の人間が泊まり込み、茶を飲みながら他愛のないお喋りをしている。その状況に戸惑いながら、私はぽつぽつとコンラートと語り合っていた。
次の朝、猟犬たちの吠える声で目を覚ました。
寝室を出て居間に足を踏み入れると、そこにいるはずの猟犬たちの姿がなかった。昔父さんが使っていた部屋をのぞいてみたが、昨夜そこに泊まっていたはずのコンラートの姿もない。
耳を澄ませると、どうやら猟犬の声は外から聞こえているようだった。開けっ放しになっていた玄関を通り、外に出る。まだ夜が明けたばかりで、木々の隙間から朝日が細く差し込んでいる。
家の裏手に回り込むと、そこに集まっていた猟犬たちが同時にこちらを見てくる。その中心の地面に、コンラートが倒れていた。彼のすぐ近くには、斧が刺さったままの薪が転がっている。
彼のそばに歩み寄ってかがみ込む。彼は苦笑したまま、明るい空色の目でこちらを見てきた。横たわったまま少しも動かないが、その表情を見る限り緊急事態ではないらしい。
ほっと気が抜けたのをごまかすように、短く尋ねる。
「……いったい何をしているんですか?」
「おはよう、ゾフィー。つい早く目が覚めてしまってね、一宿一飯の恩を返そうと、何かできることがないか探していたのだ。そうしたら、これを見つけた」
そういって斧と薪のほうを指そうとしたコンラートが、ぴたりと動きを止めた。どうも、どこかが痛んだらしい。
「薪の割り方なら知っている。屋敷にいた頃、使用人がやっているのを見たことがあるんだ。だから試しにやってみようとしたんだが、中々うまくいかないものだな」
「もしかして、転びました?」
「恥ずかしながらそうなんだ。その拍子に腰を強く打ってしまって、一人では立てそうにない。済まないが、手を貸してくれないだろうか」
恐縮している彼に手を貸して助け起こしながら、私はひっそりとため息をついていた。この手のかかる客人と、どうやらもう少し付き合うことになりそうだった。