18.始まりの一日
次の日も、私たちは一緒に出かけていた。コンラートの仕事のめどが立ったので、必要な物を買いそろえるために、また宿場町にやって来たのだ。ここにはたくさんの商人が出入りしているから、買い物にはもってこいなのだ。
昨日と同じように、まずはテオが働いている店を訪ねていった。今日は店先にテオが立っていて、さわやかな笑みを浮かべながら客に対応している。客が途切れたのを見計らって、テオに近づき、声をかける。
「よっ、今日も来たのか」
「ああ。……正式に、仕事をすることになったんだ。今日は、授業に必要なものを買いに来た」
誇らしげに、しかし少しはにかみながら答えるコンラートに、テオはひときわ嬉しそうに笑った。
「そうか、順調でなによりだ。だったらこれ、いるんじゃないか?」
テオはかがみ込むと、近くの木箱から何かを手に戻ってきた。私の中指くらいの長さの白っぽい石の棒と、コンラートの顔くらいの大きさの平べったい石の板。
「ほら、蝋石と石板。文字を書くならいるだろう? 何組必要だ? 安くしとくぞ」
貴族ならともかく、私たち平民はよほどのことがない限り紙なんて使わない。紙は高級品だから、安く手に入って繰り返し使える蝋石と石板をペンと紙の代わりに使うことが多い。昨日相談した時に、既にテオはこれらが必要になるだろうと踏んでいたようだった。
生徒たちの家にも蝋石や石板はあるかもしれないが、もしかしたらないかもしれない。一家そろって読み書きのできない家であれば、これらの道具は必要ないからだ。
だから、こちらで必要な数の蝋石と石板を用意して、授業のたびに貸し出すことにしたのだ。それくらいの蓄えはあるし、しばらく生徒が通ってくれれば、十分にもとは取れる。
「ああ、ありがたい。そうだな、予備も含めて……」
コンラートが必要な個数を告げると、テオはちょっと驚いたようだった。そんなにたくさん生徒が集まったのか、と言いながらも、しっかりと必要な数の蝋石と石板を用意してくれた。うちの在庫はこれでほぼ空だぞ、と笑っている。
支払いはコンラートがした。これはテオが私に課した試練なのだから、私が支払うべきなのだとかたくなに主張していた。
そしてその支払いに使われたのは、かつて私が彼に渡したお金だった。初めて彼と宿場町に来た時、毛皮を売った代金の一部を彼の取り分だと言って渡した。あのお金だ。
「あなたが屋敷から持ってきたお金は使わないの?」
そう尋ねると、コンラートはきっぱりと首を横に振った。
「あの金は、私の家から持ち出したもの、つまり何一つ苦労せず手にしたものだ。試練に用いるにはふさわしくない。それにあれは、君のために使うと決めているからね」
お金に違いがあるとは思えなかったけれど、おそらくこれは彼なりのこだわりなのだろう。そう考えて、無言でうなずく。コンラートは小さく笑って、さらにテオと話し込み始めた。どうやら、買い物における交渉の仕方を学んでいるらしい。
確かに、買い物の仕方を学んでおいて損はない。きっと蝋石や石板以外にも、必要なものはどんどん出てくるだろうから。
熱心に話し込む二人を、少し離れて眺める。やっぱりあの二人は仲がいいと思う。けれどそのことをうっかり口にしたら、きっと二人そろって大騒ぎを始めるのだろう。
今まで二人が繰り広げてきた、妙に息の合った掛け合いを思い出しながら、私はこっそりと笑いをかみ殺していた。
そうやって準備に追われること数日、いよいよコンラートの初仕事の日がやってきた。
約束の時間よりもずっと早く、コンラートは村の広場に向かっていた。家にいても、家事が手につかないのだそうだ。
かくいう私も、人のことが言える立場ではなかった。昨夜からそわそわしてしまって、あまり眠れなかった。なので狩りはお休みにして、コンラートに付き添って村に行くことにした。
落ち着かなさげに辺りを見渡すコンラートの足元には、真新しい木の板が立てられている。そこには彼の字で『青空教室』と書かれていた。青空の下、教師と生徒とが勉強するから、青空教室なのだそうだ。初めて聞く言葉だけれど、悪くないように思える。
二人一緒にそわそわしているうちに、約束の時間になった。朝の農作業と昼食を終えた後、ほとんどの子供は自由に遊んでいる。その時間を狙って、青空教室を開くことにしたのだ。
息をのんで待ち続ける私たちの前に、一人また一人と子供がやってきた。七歳くらいのまだ小さな子供から、十を少し超えた大きな子まで。
先日この村を訪ねた際に、彼らにも一通りあいさつは済ませてある。そんなこともあって、子供たちに緊張の色は見られない。どちらかというと、珍しい出し物を冷やかしに来たような顔をしていた。
「よく来てくれた、ありがとう」
コンラートは明らかに、子供たちが来てくれたことでほっとしていた。いつも通りのさわやかな笑みを浮かべているが、その声は緊張でわずかにこわばっていた。それが面白かったのか、子供たちがきゃあきゃあと笑い声を上げる。
そんな彼らを微笑ましく思いながら、用意してあった蝋石と石板の山を子供たちに指し示した。
「勉強の道具を配るから、みんな並んで」
その呼びかけに応じて、私の顔なじみの子が率先して近づいてきた。それにつられるように、子供たちがのんびりと列を作る。
蝋石と石板を手にした子供たちは、好奇心をむき出しにしながらはしゃぎ始めた。子供らしくていいとは思うが、このままではいつまでたっても授業が始められない。
コンラートはこの事態をどう仕切るのだろうかとそちらを見ると、なんと彼はとても嬉しそうな顔で子供たちを見守ってしまっていた。気持ちは分からなくもないけれど、こんなことで今後大丈夫なのだろうか。
「はい、みんな座って。授業を始めるよ」
見るに見かねてそう声を張り上げると、子供たちは笑いながらてんでに草の上に腰を下ろした。何が始まるのか楽しみで仕方ないという様子で、コンラートに注目している。
「……ほら、コンラート」
子供たちの目線を一身に浴びたことで、コンラートはさらに緊張してしまったらしい。いつも騒がしい彼にしては珍しく、黙りこくったまま立ちすくんでいた。そんな彼の背中を、ぽんと叩く。彼は弾かれたように目を見張ると、小さく咳払いをして話し始めた。
この仕事を始めると決めてから、彼は毎晩練習を重ねていた。どんな風に子供たちをまとめていくのか、何をどう教えていくのか、どうやって授業を進めていくのか。私と猟犬たちは生徒役として、何度も彼の話を聞いていた。
頑張って、コンラート。練習の通りにやれば、うまくいくから。心の中で、そんな声援を送る。
私の言葉が届いたはずもないのに、彼はちらりとこちらを見て微笑んだ。いつもの優雅な笑みを浮かべながら、いつもより少しだけゆっくりと話している。どうにか緊張もほぐれてきたようだった。
彼はもともと人好きのする人間だ。昔は少々偉そうな物言いをするところもあったが、今ではもうすっかりそれも薄れていて、本来の誠実さと人懐っこさが表れていた。
だから、難しい言葉を使わないように心がければ、きっと子供たちも彼の話を聞いてくれる。そう助言したけれど、実のところ自信はなかった。それは彼に惹かれている私のひいき目なのかもしれないと、そう思えたから。
けれど、心配はいらなかったようだ。子供たちはすぐに彼の言葉に引き込まれ、楽しげに聞き入っている。その様を、涙が出そうなくらいに誇らしい思いでただ見つめていた。
慣れない仕事を無事にやり遂げたコンラートは、これまでにないくらい疲れ果てていた。どうにか自分の足で家までたどり着くことはできたものの、玄関の扉をくぐるなりそこに座り込んでしまった。
「ああ、さすがに疲れた……ゾフィー、私はうまくやれただろうか」
お帰りのあいさつ代わりに顔中をなめまわしている猟犬たちをなでてやりながら、コンラートが弱々しい声で尋ねてくる。
「うん、ちゃんとできてた。……うまくいって、私も嬉しい」
そう答えて笑いかけると、コンラートが泣き笑いのような顔をした。その表情に驚いて彼のそばにかがみこむと、彼はいきなり腕を伸ばして私を引き寄せてきた。猟犬たちの間に割り込むようにして、彼の上に倒れかかる。
「今日は君に助けられた。ありがとう」
彼にしては短い言葉の後、彼は私の頭を胸元に抱え込み、頬を寄せた。いったん押しのけられた形になった猟犬たちが、私の体にぴったりと寄り添ってくる。私たちは二人と六頭で、ひとかたまりの団子のようになっていた。
温かい感触に包み込まれながら、心からの幸せをかみしめる。一つ、大きな山を乗り越えた。そう思えることが、とても嬉しかった。