10.春が、きた
そうして私は、また一人になった。前にコンラートを宿場町に置き去りにした時のような怒りや絶望のようなものは感じなかったが、ただひんやりとした寂しさが常に付きまとうようになった。
「……寂しいね。お前たちもそう思う?」
コンラートの軽やかな話し声が聞こえなくなった家の中を、猟犬たちを引き連れながら掃除する。気がつけば、猟犬たちに話しかけるのがすっかり癖になってしまっていた。家の中に満ちている静けさを、少しでも追い払おうとして。
「この家って、こんなに静かだったんだね」
自分の部屋を掃除し終えた後は、彼が使っていた部屋に足を向ける。彼が本当に戻ってくるのか分からない。彼はああ言っていたけれど、実際に貴族としての生活に戻ってしまったら、もうこんなつましい暮らしをしたいなどとは思わないだろう。
「貴族の屋敷って、きっとこんな風に隙間風が吹いたりしないんだろうね」
そう思いながらも、彼の部屋を掃除することをやめられなかった。彼がいつ戻ってきてもいいように、窓を開けて風を通し、埃をはたいて寝具を洗濯する。
けれど同時に、そうすることで彼の残り香が消えてしまうように思えて、寂しさが余計につのっていった。自分の中にこんなに複雑な感情があったことに驚きながらも、私は毎日部屋を掃除し続けた。
けれど、居間のサイドテーブルの上だけはどうしても片づけられなかった。そこには、彼が作ったあのゲーム盤が置かれているのだ。彼と別れることになったあの日、後で決着をつけようと笑い合っていたあの時のままだ。
一つ一つ駒を持ち上げて埃をはたいては、また元の位置に置く。もうこの勝負が再開されることはないと思いながらも、どうしてもゲーム盤をしまい込む気にはなれなかった。
コンラートのことを信じていなかったのではない。信じられなかったのは、自分自身だ。彼が豊かでにぎやかな貴族の生活を捨ててまで私を選んでくれるとは、私にそれだけの価値があるとは、到底思えなかったのだ。
だから、彼が戻ってくることがなくてもそれでいいと思えた。もし戻ってこないのであれば、彼はどこか遠くの屋敷で幸せに暮らしているのだと、そう思えたから。
一つだけ心残りがあったけれど、それはもう今の私にはどうしようもないことだった。
ひどく長く感じられた春もいつしか終わり、夏が過ぎていった。四頭だった猟犬は子供を産んで、今は六頭になっていた。いつもなら生まれた子犬は全て里子に出すのだが、今回はつい二頭も手元に残してしまった。やっぱり、私は寂しかったのだろう。
あっという間に秋になって、冬が来た。去年の冬は、コンラートとゲームをして過ごしていた。それより前の冬はどんな風に暮らしていたのか、全く思い出せなかった。
なんとも不思議なことに、私は暇を持て余していた。かつて彼が言っていた、暇で暇で仕方がないという気持ち、それをようやく知ることができた。今なら、彼とこの気持ちについて語り合えるのに。
そうしてまた、春がやって来た。雪も解けたので、畑の様子を見ようと玄関の扉を開けた。
「ただいま、ゾフィー。遅くなって済まなかった」
そこにはコンラートが立っていた。日に焼けていた肌は元の白さを取り戻していたし、着ているものもこざっぱりとした上等な服だった。けれどその笑顔は、一年前と何一つ変わっていなかった。
突然の事態にぽかんと立ち尽くす私と、すぐに彼に駆け寄る四頭の猟犬たち。去年生まれた若い二頭は、これは誰だろうという顔で彼を見ていた。
もう二度と見ることもないだろうと思っていた明るい水色の目を見つめ、恐る恐る口を開く。
「戻って……きたの?」
「約束しただろう。私はここへ戻ってくると。私が変わったのだということを証明してみせると」
「でも、縁談があって、家を継ぐって」
「縁談は丁重にお断りした。ありがたいことに、まだ本決まりになる前だったんだ。家は、従弟に押しつけてきたよ。その辺りのことを調整するのに、手間取ってしまったんだ。だからこんなに遅くなってしまった。本当に、済まない」
「だって、ここの暮らしは貧しくて、大変で」
「君といられるならどんな暮らしだって構わない。それに貴族の暮らしなんて、豪華なこと以外に何の取り柄もないからな。ここの暮らしの方が、よほど刺激的で楽しい」
しどろもどろになりながら尋ねる私に、彼は朗らかに笑いながら次々と答えを返してくる。ついに質問が尽きて黙り込む私を、彼はとても優しい目で見ていた。
「……結局、君のもとに戻るまでに一年もかかってしまった。もし君が、私を受け入れられないというのなら、正直に言って欲しい。けれどもしそうでないのなら」
静かに言葉を紡いでいた彼の目が、まっすぐに私を貫く。ひどく真剣で、心の奥まで見透かしてくるような目つきだった。
「私は、もう一度君とここで暮らしたい」
心臓が喉まで出かかっているんじゃないかというくらい、激しく乱れ打っている。かつて私は、彼のことを思って身を引いた。そして彼がいない寂しさを、嫌というほど味わった。
でもこうして、彼は再び戻ってきた。頭の中では様々な思いが飛び交っていたけれど、私の答えは既に決まっていた。
「……私、一つだけ心残りがあった」
去年彼がいなくなってしまってから、伝えておきたい言葉があったことに気がついた。そのことがずっと、心に引っかかっていた。
「あなたは私のことを愛してるって言ってくれた。でも私は、あなたのことをどう思っているのか、言ったことがなかった」
ずっと彼への返事を保留し続けて、そしてついにその返事を言うことができなかったのだ。今なら、その言葉を告げることができる。そう思いながらも、思わずしり込みしてしまう自分がいた。
コンラートはそんな私を優しく見守ってくれていたが、やがて一歩こちらに近づくと、そっと私の手を取った。大きく柔らかな両手で私の小さな手を包み込む。
じわりと伝わる温かさが、私に勇気を与えてくれるように思えた。一年前に失くした、何よりも愛しいぬくもりがここにあった。
「コンラート、私……私も、あなたのことが好き」
どうにかそれだけをしぼりだすと、彼は感極まったように思いきり抱きしめてきた。
「苦しい。手加減して」
「そう言われても、私は今嬉しくてたまらないのだ。君にも聞いて欲しいんだ、この胸の高鳴りを。……あ痛っ」
私の照れ隠しの抗議にはお構いなしで、彼はさらに力強く抱きしめ続けてきた。恥ずかしさにいたたまれなくなったその時、彼は小さく叫び声を上げた。そのまま私から離れる。
なんとも驚いたことに、彼の両足にそれぞれ猟犬が食いついていた。彼とは初対面の若い二頭だ。どうやら彼が私に危害を加えようとしていると勘違いして、私を助けようとしてくれたのだろう。
「彼は敵じゃない。大丈夫。離してあげて」
かがみこんでなだめてやると、猟犬たちは渋々ながらも彼の足から離れた。ついでに彼のズボンをめくって傷の確認をする。ちょっぴり牙がかすめたのか、うっすらと血がにじんでいる。ハンカチを取り出してそっとぬぐうと、すぐに血は止まった。
「ちょっと切れただけ。こっちも大丈夫」
「ま、まあここで暮らしていた間は、これくらいの傷はよくあることだったからな」
そう言うと彼はかがみ込み、今しがた自分に噛みついた二頭の猟犬に話しかけた。
「君たちは見たことのない顔だね。私はコンラート、今日からここで暮らす君たちの仲間だ」
彼はやっぱり変わり者だ。相変わらず猟犬に律義に話しかけているし、貴族の暮らしを捨てて狩人の家で暮らすことを選んだ。
でも、誰より大切な、愛しい変わり者だ。彼がいれば、もう寂しさなんて感じることはないだろう。
お詫びとばかりに彼の手をなめている猟犬の頭を、コンラートは優しくなで返している。そんな彼らを見ながら、私は自然な、そして幸せに満ちた笑顔を浮かべた。