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1.ある日、森の中

 森の中の小道を、家に向かって歩く。いつもと同じ、のどかな帰り道。けれど、今日だけは違っていた。驚いたことに、ぼろぼろの行き倒れが落ちていたのだ。


 この出会いが私の人生をまるごと変えてしまうだなんて、この時はこれっぽっちも思っていなかった。




 それは、あるさわやかな初夏の夕方のことだった。私はいつものように狩りを終え、猟犬たちと家に戻ろうとしていた。


 ふと、猟犬たちがそろって足を止めた。行く先を見すえたまま、短く吠えている。どうやらそちらに、何かあるらしい。いつでも抜けるように腰の山刀に手をかけ、警戒しながらそろそろと進む。角を曲がった向こうに、何か大きなものが落ちているようだった。


「……あれって、人……?」


 うつぶせに倒れたその誰かは、さっきからぴくりとも動かない。生きているなら介抱してやらないといけないだろうし、死んでいるのなら近くの村に葬ってやるべきだろう。


 この道の先にあるのは私の家だけで、ここを私以外の者が通ることはめったにない。私が放っておいたら、あの誰かはずっとあのままだろう。


 困ったことになったなと思いながら、そろそろと行き倒れに近づく。何があってもいいように距離をとったまま、じっと行き倒れを観察した。


 あの誰かは私よりも背が高い。体格から見て、おそらく男性だ。あれだけ大きな人間を一人で助け起こしたり運んだりするのは、ちょっと難しそうだった。狩った獣であれば、引きずったり切り分けたりできるから簡単なのに。これはもう、近くの村まで人を呼びに行くしかないのだろうか。


 一方の猟犬たちは私のそばで座ってはいたが、もぞもぞと身じろぎしていた。どうやら猟犬たちは、あの行き倒れのことが大いに気になっているらしい。


「……ちょっと、調べてみる? よし、行って」


 そう声をかけると、四頭の猟犬たちは一斉に駆け出した。そのまま行き倒れを取り囲み、心ゆくまで匂いをかいでから、熱心になめ回している。行き倒れの髪があっという間に犬の唾液でべとべとになっていくのが、遠目からでもはっきりと見えた。


 それが引き金になったのか、死んでいるようにしか見えなかったその誰かは、ぴくりと動くとうめき声を上げた。思ったよりも若い、男性の声だった。


「うう……ここは……?」


 良かった、生きていた。様子をうかがいながら、慎重に近づく。彼は弱っているように見えたが、不審者であることに変わりはない。


「ここはカシアスの森ですが、どうしたんですか」


 警戒を隠すことなく声をかけると、その誰かはさらにうめきながらゆっくりと寝返りを打った。今まで隠れていた顔があらわになる。彼は思ったよりも若く、私とそう変わらない年頃のようだった。


 そしてその面差しは、私が知っている男性の中では間違いなく一番美しいものだった。美しいだけでなく、妙に品がある。昔一度だけ遠くから見かけた、貴族の令息のようですらあった。ただ残念なことに、彼は少々線が細すぎる。私はもう少したくましい男性のほうが好みだ。


 彼はこの辺りでは見ない豪華な服をまとっている。もっともそれはあちこち破れていたし、上から下まで土埃にまみれていて、ぱっと見はほぼぼろきれのようだった。何をどうしたら、ここまでぼろぼろになってしまうのだろうか。


「み、水を……」


 目を閉じたまま、彼が力なくつぶやく。水なら、まだちょっとだけ残っていたはずだ。背負った荷物をさぐり、革の水筒を取り出した。


「水でしたら、一応ありますけど」


 そう答えると、彼はのろのろと目を開けてこちらを見た。その明るい水色の目は、彼の淡い金髪とよく合っていた。


 彼の手は、力なく震えている。その手に水筒を持たせてやると、彼はぎこちない動きでそれに口をつけ、一気に飲み干した。見ていて気持ちが良くなるような飲みっぷりだった。


 それでようやく人心地がついたのか、彼はゆっくりと身を起こし座り込んだ。そのまま頭を下げ、水筒をこちらに返してくる。


「ありがとう、お嬢さん。君がいなかったら、私は死んでいたかもしれない」


「そうですか、それでは。森の出口はあちらです。一本道ですし、迷うことはないと思います」


 彼はもう大丈夫だろう。そう思った私は、猟犬たちを連れてさっさと家に戻ろうとした。


 しかしその足が、ぐんと引っ張られる。目線を下に落とすと、なぜか彼が私の足首をつかんでいた。その拍子に倒れこんだのか、地面にべたりと伏せてしまっている。猟犬たちが喉の奥で小さくうなり声を上げたが、それでも彼は手を放そうとしなかった。


「ここで出会ったのも何かの縁、君に折り入って頼みがある」


「……何でしょうか?」


 礼儀正しいがどことなく偉そうな口調に、嫌な予感がした。たぶん、いや間違いなく面倒なことになる。私は間違いなくしかめ面をしていただろうが、彼は空気が読めていないのかにっこりと笑いかけてきた。


「良かった、話を聞いてくれるのだな。実は私は、行く当てがないのだ」


 そんなことだろうと思っていた。そうすると、この次にくる言葉も想像がつく。


「君さえ良ければ、今晩だけでも泊めてくれないだろうか」


 予想通りの、そして初対面の若い女性に頼むにはあまりにも図々しい内容に、あんぐりと口を開けそうになった。すんでのところで無表情を保ち、もう一度森の出口を指さす。


「……森を出てすぐのところに、村があります。そこに宿屋がありますが」


「恥ずかしながら、路銀が底をついてしまったのだ」


 彼は無念そうに唇をかみしめている。よくよく見ると、彼は荷物らしきものを何も持っていなかった。元は豪華だったのだろう服には、装飾をむしり取ったらしい跡があちこちにある。金に換えるものすら、彼はろくに持っていないのだろう。


 その悲惨な様子に少しだけ同情してしまった。彼から目をそらして、じっくりと考えてみる。


 彼は私より大きい。けれど腕が立つようには見えないし、私には頼れる猟犬たちがいる。もしも彼が良からぬ行いに出るようだったら、その時は遠慮なく猟犬たちの餌食になってもらえばいい。


「……一晩だけなら、どうぞ」


 渋々ながら、そう答えた。しかし、それを聞いた彼の表情の変わりようといったらなかった。さっきまで悔しそうにうつむいていた彼は、ぱっと顔を上げると底抜けに嬉しそうな笑顔を浮かべたのだ。なんて無邪気な笑顔なんだろうと、そんなことを思う。


「ありがたい、恩に着る。ああそうだ、名乗るのが遅れたな。私はコンラートだ」


「……ゾフィーです」


「ゾフィーか、いい名だな。それでは君の家に案内してくれないか、ご両親にあいさつをしなくては」


「親はいません。私はこの子たちと暮らしています」


 私のすぐそばに整列している猟犬たちを、手で指し示す。ついでに頭をなでてやると、猟犬たちは嬉しそうにしっぽを振った。けれど彼らの目はずっとコンラートにすえられたままだ。もし彼が少しでも不審な動きをすれば、私の指示を待たずに飛びかかっていくだろう。


 私の答えを聞いたコンラートは、はっとした後申し訳なさそうに眉をひそめ、また頭を下げた。目まぐるしく表情が変わっていくのが、ちょっと面白い。


「それは、失礼した。しかし女性の一人暮らしとは、少しばかり物騒ではないだろうか? 君のように若く美しい女性ならなおさらだ」


「心配ありません。自分の身は自分で守れますし、この子たちもいますから」


 その言葉を理解したかのように、猟犬たちが一斉に頭を低くして身構える。コンラートは猟犬たちの視線にたじろいだようだったが、すぐに姿勢を正す。それから彼は猟犬たちに頭を下げた。それも、とても礼儀正しく。


「立派な猟犬なのだな、君たちは。私は今晩、君たちの家にお世話になるコンラートだ。どうか、よろしく頼む」


 犬相手にこんなに丁寧に話しかけている人間は初めて見た。彼は悪い人間ではなさそうだったが、どうにもつかみどころがない。しっぽを振り回した猟犬たちになめ回されてぐちゃぐちゃになっているコンラートの髪の毛を眺めながら、ぼんやりとそんなことを思った。




 そんなやり取りを経て、コンラートを連れて帰路につく。ついさっきまで行き倒れていたこともあって彼の足取りはおぼつかないものだったが、どうにか転ばずに自分の足で歩いていた。見ず知らずの相手に肩を貸すのはちょっとためらわれたので、その点はありがたかった。


 そうやって森の小道を進んでいくと、じきに私の家が見えてきた。一面の森をほんのちょっとだけ切り開いて作られた空き地に立っている、小さな、でも一人で住むには少しばかり広すぎる家。


 ごくありふれた木の家を見て、なぜかコンラートは目を輝かせていた。物珍しそうに、辺りを見渡している。


「何も面白いものはないと思いますが」


「そんなことはない。目新しいものばかりで、実に興味深いのだ。質素でありながら重厚な家、あの向こうに見えるのは畑か? おや、こちらは」


 ずっときょろきょろしていたコンラートが、家の近くに立っている物置小屋に目を留めた。その外に積み上げてある毛皮の山が気になったのか、無防備にそちらに近づいていく。しかし彼は、すぐに回れ右をして駆け戻ってきた。見事に青ざめている。


「あの小屋には獣の皮などを保管してますから、慣れない人には臭いがきついですよ」


「ああ、本当に驚かされた。……もしかしてあの毛皮は、君が?」


「はい。私は狩人ですので」


 そう答えながら、腰に下げた山刀の柄と、背負った小型の弓を指し示す。彼は目を真ん丸にして私を見ていたが、ふと目線が私の背後で止まった。


 どうやらようやく、私が背負っている荷物から獣の足が飛び出していることに気づいたようだった。びくりと身を震わせつつも、感心したようにため息をついている。


「そうだったのか。君は強いのだな。こんな森の中で一人、獣を狩って暮らしている……なんと力強く、気高い暮らしだろうか」


「……ほめても何も出ませんよ」


 コンラートの言葉はやたら仰々しく、大げさで暑苦しいものだった。しかしどういう訳なのか、私はそんな彼にそれほど不快感を抱いてはいなかった。軽やかな声と、くるくると良く動く表情のせいだろうか。少々偉そうなところはあるが、それはどうも無自覚らしいし、いらだたしくなるほどのものではない。


「それより夕食の準備、手伝ってください。一人だと時間がかかってしまうので」


「ああ、もちろんだとも。……しかし実は、私は厨房に立ったことがなくてな。済まないが、何をどうすればいいのか教えてくれ」


 これは手のかかる客人を招いてしまったなと思いながら、私は猟犬たちと一緒に家の中に入っていった。すぐ後をついてくるコンラートの足音に、何とも言えない落ち着かなさを覚えながら。

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