花嫁がベールを脱いだ後に
地位も金も持っている発明王がならず者を雇い、商売敵の映画館へ火を放つことは黙認される。だが主人が己の地所で、オレンジの木から実をもごうとして脚立から転げ落ちた従者を助ける素振りを見せるのは許されない。白人様に暴行を加えている野蛮な原住民と勘違いされ、訪問客に殴りかかられてしまう。そんなローリング・トウェンティ(狂騒の1920年代)なる世界に己が生きていると、ガブリエルは鼻面へパンチをお見舞いされるまで久しく忘れていた。
萌える芝生へもんどり打って引っくり返り、目を瞬かせる彼と違い、マリユスは機敏だった。主人と入れ替わるようにして身を跳ね起こすと、差し伸べられる手を叩き除けざま、太鼓腹へ強烈なフックを一発叩き込む。ありゃ痛いぞ、と危うく踏み止まる意識の縁で、ガブリエルは自らへ害を成した男を憐れみ、そして嘲笑った。
「てめえこのクソ野郎、何のつもりだ、ええ?」
どすの利いた濁声が形成する罵倒は、身を丸める男へ更に二言三言、いやソネットまるまる一編ほど浴びせかけられていたのではないだろうか。幸か不幸か、揺れる脳が汚い言葉を上手く認識してくれない。理解できるのは青だけーー仰向けのまま見上げる雲一つ無い空。やがて視界を埋め尽くすものが、この天上よりももっと澄んだヘブンリー・ブルーへ取って代わる。この世の誰もを虜にするマリユスの美しい瞳は、興奮によって普段よりも色を濃くし、極上の酒の中で溶け煌めく氷を思わせた。
「マスター・クロネリー、お怪我は……こりゃ酷いな」
慌てて抱え起こされ、ハンカチを鼻に押し当てられる。20年前、釣りに出かけたサンタ・アナ川の堤から滑り落ちてびしょ濡れになり、鼻水を垂らして泣いていたあの頃と全く同じ。兄貴風を吹かせる8歳の悪ガキが、7歳の坊やへしてやったのと変わらない乱暴な仕草が珍しくて懐かしい。思わず苦笑いを浮かべたら、「何ニヤついてるんですか」と叱られた。
不埒な中年男が10ラウンド戦い抜いたボクサーよろしく、折っていた膝をがくがく持ち上げた頃、ひよこの群れから1羽いなくなったとようやく気付いたらしい。屋敷のエントランスから飛び出してきたサロライネンの様子と言えば、まるでボールが坂道を転がり落ちてくるような勢いだった。
「ミスター、そちらは見学コースではありませんよ」
「とっととつまみ出しちまえ、ミルカ」
骨張った主人の身体を庇うかの如く、肩へ回した腕へ一層力を込め、マリユスはがなり立てた。
「こいつ、頭おかしいのと違うか。いきなりマスターをノックアウトしやがった。」
男が反応したのは、「頭がおかしい」ではなく、繰り返される「マスター」という単語だったらしい。訝しげな表情は、サロライネンが気まずげな咳払いと共に放った「こちらが当館の2代目当主、ガブリエル・クロネリー氏です」との台詞で、もはや隠しきれないものとなる。
慣れた反応だったので、ガブリエルも引ったくったハンカチで鼻を押さえながら、いつも通りの返答を与えてやる。赤い肌はモハーべ族の母から受け継いだものであること。彼女はこの牧師館兼寄宿学校育ちで、赤子を産み落としすぐ身罷ったこと。だから己は物心つく前にクロネリー牧師へ引き取られ、子のいなかった夫妻に養子として育てられたこと。
「こちらのレヴィ氏は、父親の代から我が家に仕えてくれていた人物で……先程は失礼しました。彼のパンチは強烈だったでしょう、軍時代には一角の腕前だったそうですよ」
お互いに手を差し出し、握り合うよう促すことで、無理矢理いざこざにピリオドを打ってしまう。身分をはっきりさせたところで、男の視線がガブリエルの元へ戻ってくることは結局なかった。それでいい。喩え前向きな感情であったとしても、好奇や憐憫が疲弊を呼ぶものであることに変わりはないのだから。
というか、軟弱者は単に、ぎらぎらと激情を湛えたまなこへ射竦められていただけなのかも知れないが。
サロライネンへ伴われた後ろ姿が豆粒ほどの大きさになり、やがて邸宅へ消えても、マリユスは憤懣やるかたないと言わんばかり。いかった肩にガブリエルが触れれば、払い落とすようにして身を捩り、くるっと向き直る。
「何が『先ほどは失礼しました』だ。あんな奴、足腰立たなくなるまでぶちのめして丁度いい」
「田舎者の観光客に、そこまで期待する方が間違ってるさ」
南部からそのまま移築したような白亜のコロニアル形式を見遣り、思わず溜息をついたのは、鼻腔の血がそろそろ固まり始めているからだった。
「どうでもいい。それより鼻が曲がっているような気がするんだけれど……」
「大袈裟な奴め」
自らより華奢な手ごと掴むようにしてハンカチを避けさせ、マリユスはまた主人の顔を覗き込んだ。
「平気さ、これくらい。元々鼻ぺちゃなのが幸いした」
「お前はいつでも、一言多くないと気が済まないんだな」
彼が一歩足を進めるから、思わずこちらも一歩後ずさる。横倒しになった脚立が踵にぶつかり、固く不愉快な音をたてた。
木陰へ逃げ込んだつもりでも、結局更に捕らわれている自らを意識するだけの結果に終わってしまった。日に焼けた浅黒い肌の上で踊る木漏れ日は、瞳の魔力へ力を及ぼすことなど到底出来はしない。「本当に、余計だよ」との呟きが、走り抜ける初夏の風に吹き散らされるほど弱々しい響きとなってしまったのが、心底忌々しかった。
何よりも憎たらしいことに、効能にガブリエルが陥れられると、いつでもマリユスは驚き混じりの喜色を精悍な顔一杯に広げてみせる。ガブリエルが威厳を掻き集めれば掻き集めるほど、その瞳はわくわくと輝いた。自らより低い位置にある目を掬い上げるようにしながら、高い鼻梁はちんまりした相手の鼻先へ触れ合いそうな位置まで迫る。ヘーイ、と低められた咎め立ては、薄く開いたガブリエルの唇から潜り込み、粘膜との境界線を柔らかく撫でんばかりだった。
「ギャビー、切なくさせてくれるな……俺を心配させるのがそんなに楽しいのか」
「分かってる、悪かったよ……」
「いいや、ちっとも分かっちゃいないね」
親指の腹はかさついて、鼻の下から拭い取る血を以て潤そうとしているかのよう。柔らかい肉ごと歯を擦るような仕草へ衝動を読み取り、ガブリエルは微かに肩を反らした。
血は最初、腰からぶら下げるタオルへなすり付けられていたが、途中で面倒になったのだろう。どれだけ擦っても取れない淡い赤は、煩わしげに舌先で舐め取られた。きりなく垂れ溢れる分を何とか堰き止めた後、太い指はそのまま汚れた唇へと伸びる。無意識にガブリエルは、リップスティックでも塗られるように、うっすら口を開いていた。
一際艶やかで紅色の濃いあわいへ触れることを許されたマリユスは、夢でも見ているようなガブリエルの目へひたと視線を合わせたまま、弾けてとろけるように笑った。あまりにも甘ったるい顔つきで迫るものだから、舌先を刺激する鉄の渋さすら忘れてしまう。まるで熟れきったオレンジのような笑顔。
この楽園じみた土地で、頬を撫でる柔らかなそよ風と、そこに乗る甘酸っぱい芳香へ付き合い続ける限り、彼から逃げることは出来ないのだろう。
全く、こんなにも従者へ好き放題を許す主人など、白人だったら絶対にあり得ない。せいぜい感謝して欲しいものだ。この体たらくを、目の前の男にだけは絶対に揶揄されたくない。何せ奴は、爪の付け根へ小粒の前歯を食い込ませる意趣返しにすら、すっかりご満悦なのだから。
本日、懐かしの我が家を訪れた目的は果実の収穫以外にも、パーラー(客室)のマントルピースへメジャーを当て、2階の廊下の突き当たりにある姿見から装飾が欠けていないか確認するなど盛りだくさん。けれど思ったよりも見学者が多かったし、何よりも管理を代行するサロライネンが全力で反対したのだ。家具を運び出してしまえば屋敷はただの入れ物でしかない。この家を構成する全てが、調和を保つ為には不可欠なのだと。
夫を亡くした6年前の時点で、母が学校を畳む準備を始めてくれていたことは幸いだった。世間では逆だと思われていたかも知れないが、生徒の人生へ積極的に介入することを望んでいたのはクロネリー牧師の方。彼女は夫と神から与えられた義務に則り職務をこなしていただけで、この学校そのものを好いていなかったのだろうと、今ならガブリエルも理解できる。
慈悲深い母の遺志に便乗して、埋葬を済ませて幾らもしないうちに荷物をまとめたのが2年前。5、6人いた最後の生徒達と職員、そして「先生とそのご家族」の世話の為に住み込んでいたマリユスの両親へ相応の金を渡し、何処へとでも失せちまえと意思表明したのは、随分昔の話に思えた。けれどそう言えば引導を渡した時、ビスケットに添えられていたマーマレードは、去年仕込まれたものだった。毎年この季節になると、マリユスの母が洗濯籠一杯のオレンジ相手に格闘し、一年間困ることはない。
今日収穫した分もジャムにする。基本的に料理は通いで来ているベティーナに任せているが、このレシピだけはマリユスが母からしっかりと引き継いでいた。
リバーサイドからイースタン・マリブへ、現代における大西部への道。今や管財人の手で名所巡りの要と化している我が家を後にし、青緑色をしたヴォワザンはひた走る。後部座席へ埋まり、隣には麗しいスターレット(女優の卵)ではなく、瑞々しい果実でてんこ盛りになったブリキのバケツ。漫然と窓の外を見やる主人に、運転席のマリユスはヘっと下品な哄笑を吐きつける。
「さっきのカッペ野郎、絶対カンザスかテネシーか、虹の彼方からお越しに決まってら」
「教会主催の団体旅行だとかミルカは言ってなかったっけ」
信念の人、クロネリー牧師。神の御心へ導かれ、崇高な理想を胸に一生を奉仕へ捧げる。マイクロバスを降りてすぐに配られる色刷りチラシの文句が、ぼうっと頭へ浮び上がってきた。
「地下室へは案内してたんだっけ」
「お前の家だろ、俺に聞くなよ……契約ではしないんじゃ無かったか」
父は親としては勿論、聖職者としても厳格な男だった。それでも養子として特別扱いされていたガブリエルが受けた罰と言えば、夕飯を抜きにされ、部屋で誰其の福音書の何章何節を100回書き取るよう言いつけられるのが関の山。最悪でも手のひらを笞で10回程度のものだった。だが翼を広げた鳩のような形の邸宅のうち、寮と呼ばれていた東棟に住む子供達は。確かに級友の物を盗んだり姦淫に耽ったり、脱走してみたり故郷の言葉を用いたり、ガブリエルがしでかしたおいたとは比べ物にならない悪徳を繰り広げていたとは言え。
「ああ言うどぎつい所へ案内した方が人気も出て、見物客も増えるだろうに」
「連中は鉄格子や鞭なんか見慣れてるだろうさ。特にさっきのろくでなし野郎みたいな奴は」
勇ましい活劇が脳裏へ蘇ったのか、マリユスはハンドルから離した手を振り回した。この興奮と陽気だ。脱がれた上着の下、彼の脇はシャツを通り越しジレにまで黒々と汗を染ませていた。
「くそっ、あと5回は殴っとくべきだった。奴もファンダメンタリストなら、右の頬をぶたれりゃ左の頬も喜んで差し出して来たはずだぜ」
「だろうなあ」
お座なりの相槌を唇の先に乗せながら、ガブリエルはハンカチに来るんだ生肉を鼻に当て直した。いつまで経っても浮かない様子の主人に痺れを切らしたマリユスが、先ほど肉屋の前で車を停め、犬用の馬肉を一切れ買って来たのだ。
海岸線を縁取るパシフィック・コースト・ハイウェイは毎日のように往来しているが、近隣の景観は一週間ごとに刷新されていた。また新たなレストランが開店し、建設中だった建売住宅のガレージには早くもぴかぴかのクーペ、多分ランチアの最先端モデルが納められる。
本音を言えば、自らは余り目まぐるしさを歓迎するたちでは無いのだと、ガブリエルはここのところ頓に実感させられていた。変化はいい、必要なものだ。けれど自分のペースを乱されると、途端にまごついてしまう。「坊さんの息子にしてはよくやってるよ」とマリユスは慰めてくれるが、寧ろ心は沈むばかりだった。
だって、マリユスはとてつもなくパワフルな男だから。もしも軍資金さえ十分にあれば、親から受け継ぐ黴の生えた職務などさっさと辞しているに違いない。彼のこの容姿だ。近頃サンタモニカとサンセット・ブールバードの狭間で雨後のきのこの如く現れた撮影所の門を叩いても、諸手を挙げて歓迎されるだろう。愛好する連続活劇を観る側から出演する側になっても全くおかしくはない。
2人でいても時に寂しさへ襲われるのだ。快適な家で一人ぼっちになろうものなら、自らはすっかり参ってしまうに違いない。
依存してはいけない。この国に生まれた人間として、独立心は何よりも大事だと、生前の父は常々言い聞かせてくれたではないか。
揺れる太い棕櫚の幹から外した視線を、正面へと流す。マリユスはやはり騒々しく、勝手に怒っている。他人へ自らの鈍った情動を研ぎ澄ますよう任せ、あまつさえ代弁して貰うことに、ガブリエルはすっかり慣れてしまっていた。日に日に己が人間の形をした無機物になっていくような、漠然とした恐怖。それを押し殺しても、この従者が感情を爆発させているのを見るのは楽しい、わくわくするとさえ言える。まるで入ってはいけない天国や地下牢について想像を巡らすかのように。
「……だから、お前は自分に誇りを持って……おい、聞いてんのか」
「聞いてるよ」
「ほんとかね。腑抜けたツラしやがって」
「だって鼻が痛いんだ」
ああ、せっかくの慰めを自らぶち壊してしまった。沈黙が痛い。綺麗に調髪されている、少し俯けられた太い項を見ながら、ガブリエルは嘆きの吐息を溢した。後部座席にだけ掛けられた幌が直射日光を防いでくれるものの、重く湿った潮風は、運転席との間を仕切るガラス風防を縫い、容赦なく滑り込む。白い麻の上着の下でシャツは肌に張り付くばかりで、気鬱は余計に募った。
喜ぶべきか何なのか、肩越しに振り返るマリユスの顰めっ面は、ハンカチを赤黒く染める生肉へ向けられている。
「帰ったら手当てしてやるから、ちゃんと顔洗えよ」
「僕を何だと思ってるんだ、野蛮なインディアンか?」
「いーえ、旦那。旦那はご立派なお方だ。おらの大事な大事な金蔓でごぜえますだよ」
その気になれば完璧なフランス語を操れるのに、マリユスはわざと母音を伸ばしまくる南部の訛りを作り、笑ってしまうほど図々しい声音で抜かしてみせた。思わず綻んだ口元が、木綿のハンカチ越しにぬるつく肉をたぷんと揺らした。
「またあのおっさん」
微かに目線を路肩へと逸らしたマリユスが呟き、ブレーキを踏んだ時には、既に男を通り過ぎてしまっていた。そいつが身につけるユニオンスーツ(繋ぎの下着)は赤色もすっかり色褪せ、焦げたような色の断崖と殆ど同化している。真上から降り注ぐ太陽で影になり、汗まみれの顔は浮腫んだ輪郭を何とか誤魔化していた。
ツーリング・カーが完全に停止するよりも早く、よたついた歩みがこちらとの距離を縮めてくる。主人の許可も取らずに幌を上げると、マリユスは当惑を押し隠した、不自然なほど明るい声音を作り上げた。
「やあこんちは、ミスター・アコード。散歩中ですか」
アコードは答えるより先に、右手で握りしめたウイスキーの瓶へ目を落とした。中身が殆ど空になっていると理解してから、ようやく無精髭の中で口がもぞつく。
「家で寝てたら、いきなり賊が押し入ってきた。攫われたんだよ。メキシコのクソッタレどもだ」
「それは災難でしたね! ご自宅までお送りしましょうか」
また訪れた黙りは、じりじりとしたアスファルトの照り返しに煽られユラユラと揺れる。男の顔へ途方に暮れた色が一抹、遂に隠しきれなくなった頃、とうとうガブリエルは目の前の肩へ触れた。
「マリユス、ドアを開けて差し上げて」
押し広げられた助手席の扉へ身をぶつけながら腰を下ろしたアコードへ、もう一度行き先を確認する。大義そうな呼吸の合間に「マリブのメイベルのところへ行く」と悪い滑舌が答えるまでには、またしばらくの時間が要される。そういえば、映画館で彼の声を聞いたことがこれまで一度も無いと、ガブリエルは今になって気が付いた。
スクリーンでトーキー華やかなりしここ数年、彼が撮影所からのお呼びが掛かっていないのは周知の事実だった。もっぱら国境の向こうでどさ回りを続けているとか、心無いものだと場末の舞台にすら出られず、鉱山でボーキサイトを掘って糊口を凌いでいるなんて噂すらあった。
この虚勢へ顎まで浸かったほら吹きが、命知らずなロデオ・チャンピオン、先の大戦の英雄、逞しい西部のヒーロー、華やかな銀幕の大スター『弾丸バーナード』だったのか。まだ40へすら手が届いていないだろう。目の前に座る男は、底抜けに勇敢なカウボーイではなく、悪役のインディアンじみた見てくれに成り下がっている。ティピーの中で若い戦士達に幌馬車の襲撃を命じる、老いて皺だらけになった酋長。
そう言えばこの男も先住民の血が混じっていると聞いたことがある。ガブリエルと同じく赤みを帯びているはずの肌には今、明らかな黄疸の兆候が見える。それでも並んだマリユスとの違いは一目瞭然だった。
「そんな恐ろしい出来事、奥さんもさぞ心配なさってることでしょう」
「だが幾らも走らないうちに全員叩きのめしてやった。そのまま猛スピードで走っている車から飛び出したのさ。連中は恐れを為して逃げていった」
ガブリエルがひり出した世間話には、頓珍漢な台詞しか戻ってこない。口の中ではぶつぶつと噛み潰されるのは、かつて自らがこなして来た武勇伝らしい。卑俗な罵倒語にまみれている上に不明瞭が過ぎ、詳細は碌に聞き取れない。
顔を見なくても分かる。それまでと余り変わらない風でハンドルを操りながらも、マリユスは助手席へ意識を傾けていた。彼は連続活劇が好きで、隙になるとちょくちょく映画館へ足を運ぶ。特に好きなのは西部劇、ミックス、ギブソン、グレイ、そしてアコードもお気に入りのスターだった。
そう言えば、ガブリエルの父親が亡くなって間もない頃、気分転換にとマリユスが連れ出してくれた際シアターで掛かっていたプログラムもこの男の映画だったと記憶している。周りの席は子供ばかり。興奮してギャアギャアと騒ぎ立て、ポップコーンをスクリーンに向かって投げつけと狼藉の限りが尽くされていた。
嵐の中心で、マリユスは自身も少年へ戻ってしまったかのように、物語へ食い入っていた。ならず者に拐かされたルイーズ・ロレイン演じる許嫁を救おうと、ハンサムなカウボーイは白馬を駆る。身を乗り出した拍子に、肘掛けへ乗せていたガブリエルの手に手のひらが重ねられた。分厚く太い骨組みの手が汗ばみ、微かに湿っていたのを、昨日のことのように思い出すことができる。
そのままぎゅっと包み込まんばかりに握りしめられれば、守られているように感じた。この安堵は、物語の最後に救われる淑女が覚えるよりも遥かに大きなものだと、当時のガブリエルは確信することが出来た。そう、映画なんてあくまで嘘でしかないのだ。まだ若く、幾らかは純真で、死んだ牧師の影を追い払いきれなかったマリユスが、主人に触れる時用いた建前と同じに。
でも、それでも、助手席の男はかつて、間違いなく男の中の男だったのだ。映画雑誌に載せられた写真の中、屋敷の壁一面を飾るロデオ大会のバックル達には、確かに彼の名前が刻まれていた。
例え先住民の血が半分流れていたとしても、彼には成功するチャンスがあり、一時は間違いなくそれをものにしていた。けれど、失われてしまった。周囲に課せられた眩いばかりの理想によって。己が課した強烈な自負によって。栄光そのものによって。
道沿いに白やピンクの洒落た建物が増え始め、それまでちらほら垣間見えていた深緑の海原と熱い砂浜が姿を消す。植えられたばかりなのだろう棕櫚が気怠げに身を揺すり、魔女の指じみた鋭い葉で走り去る車に光と影を明滅させる。しっしっと犬のように手を振って追い立てられているような気分になった。
「あー、ミスター・アコード。喉が渇いたでしょう。オレンジでも一ついかがです、もぎたてですよ」
普段の闊達さなどどこへやら、マリユスの提案はさながら腫れ物に触るが如しだった。またもや勝手に押し付けられる失望へうんざりしたのか、或いは単に恥じただけだろうか。アコードは唐突に背後を振り返った。血走ってはいるが、その目は昔、と言うほど昔でもない頃、馬上から振り返りざま荒涼と広がる大地へ目を凝らしてみせた姿態と何一つ変わらなかった。
「いいか……籠の中のオレンジは必ず腐る」
遠くを見るような目つきをしてみせる癖、彼は疑いようもなく、ガブリエルに語りかけていた。それが余りに淀みないから、映画の台詞を誦じているのかと勘違いしそうになる。
「木になったままでいたら、いつかは熟し落ちて大地に還るだろう。鳥や獣に食われるかもしれん。何にせよ種は必ず芽吹く。だが愛されれば愛されるほど、無駄になるばかりだ……人間は、全てを駄目にする」
「ですが」
どきまぎとする心臓を両手で押さえ、思い切り顎を引きながら、ガブリエルはおずおず言い募った。
「ですが……神は人間に、叡智と慈しみの心を授けました。例え実が腐り落ちたとしても、種を拾い上げて土に埋め、水を与えることができます」
育ての親と違い、ガブリエルの信仰心と言えば、贔屓目に見ても「平均的」に毛が生えた程度のもの。けれど窮地に見舞われた時、一番に思い出すのは、やはり天なる父の御言葉だった。この父には、今頃天国で趣味の釣りでも楽しんでいるだろうクロネリー牧師と含まれる。今自らが口にした釈明だって、この感じるデジャヴはきっと、日曜の説教か何かへ起因するものに違いない。
一言一言重ねられるにつれ、確信が深まる言葉付きに、アコードは侮辱を覚えたようだった。かさついた唇はむっと捻じ曲げられ、大柄な体躯が再び座席へ押しつけられる。
「男なら、誰かの助けを待つなんて甘えた真似はせず、自分の足で歩いていくべきだと思うがね」
「そうそう、こいつはこの見かけで甘ったれたお坊ちゃまだから」
ようやっと気軽さを取り戻したマリユスが、軽薄に加勢する。
「大体、種そのものが腐ってたら、出るはずの芽も出やしない」
「少なくとも、俺はこれまで、いつでも自分の力で道を切り開いてきた」
そこまで言うならばこの車から放り出して、マリブまで歩かせてやろうかしらん。そんな意地の悪さを発揮するのは流石に憚られる。代わりにガブリエルは鼻を突く男の体臭へ引き攣る頬を、人間業の及ぶ限り柔和な微笑へ変換させた。風呂に入っていないだけではないのだろう。毛穴から染み出すアルコールの甘ったるさは、もうこのスターが取り返しのつかない場所まで堕ちてしまったことをお節介にも教えてくれた。
結局車はすいすいとハイウェイを疾走し、イースタン・マリブへ入る。そろそろ「家に寄って行きますか」と尋ねなければならないのかと、恐れを為していたガブリエルの予想は幸い外れた。
マック・セネットの元水着美女が開いたカフェの前で、アコードは車を停めさせた。アイスクリーム・ブロンドのあの子はガブリエルを表玄関から迎えてくれるほど鷹揚だから、ドレスコードについてとやかく言うことはないだろう。
おぼつかない足取りで降りる際、アコードの手には酒瓶へ代わり、オレンジの身が一つ握られていた。よれた下着の腕へ軽く擦りつけると、皮を剥きもせずに齧りつく。新品のように白く頑丈な歯の間から、柑橘類の爽やかな芳香が弾け、熱い空気へと流れ出した。それは一瞬、馬肉の生臭さを凌駕して刺し貫く。
「お気をつけて、ミスター・アコード……良ければ電話を下さい。お力になれることがあるかも知れません」
ガブリエルが差し出した名刺は存在しないかの如く無視されるし、返事もやはりない。ただヴォワザンが動き始めるまで、アコードはその場で立ち尽くし、こちらを見つめていた。釘付けされたように固定される据わった眼差しは、果てしない狂気へ陥っているようにも、完璧な正気をしっかり握りしめているようにも思えた。
瀟洒と辛うじて言えるようになってきた通りから更に20分、車は脇道へと逸れた。座席へ背中が押し付けられる、粘った土の急勾配を後5分我慢すれば、愛しの我が家へ辿り着ける。高い門柱の前で頭を下げる警備員へ無言で頷いたら、どっと気が抜けた。
幼少期を過ごしたリバーサイドの邸宅と違い、街で一番人気の建築家に設計させた保養所は余計な装飾が一切ない。まるで公金で作った講堂みたいだねと、頻繁に出入りする客から言われたことがある。
煮詰めたオレンジの皮を思わせる壁色の、箱を積み上げたような3階建ての建物は生家と同じく左右対称の構造。西棟が私邸なことも共通している。東は短期滞在者用で殆ど赴くことがないから、客が生きているかどうかも正直なところ分からない。
エントランスに据え付けられた分厚い樫の木の扉は大抵開け放たれている。淡い多色で先住民アート (ディプレッション・モダンがどうとか、最近街では大流行りらしい)の幾何学模様を描くステンドグラスでは、明かり取りとして不十分だと言わんばかりに。幾ら開拓してもし足りない、広々とした庭を弄っていたらしい。出てきたベティーナの白いエプロンは、泥の汚れがうっすら走っている。
「ミスター・クロネリー! まあ、大変なこと!」
「大丈夫だってベティーナ、もう血は止まってる、念の為に氷持ってきてくれ」
重いバケツを逞しい腕の先で揺すり、マリユスは事も無げに手を振ってみせる。誰にとっても、ガブリエルの意見は端から求められていない。だから彼は、親切な主人だと雇われ人から評価されている。
尤も、口を開かなかった所でマリユスの機嫌が良くなることはなかった。ホテルのロビーを思わせる広々としたエントランスでは、この暑さにも関わらずキルティングのガウンで着膨れる、呆けた顔付きの少女と、彼女に付き従う若い看護士がソファで膝を付き合わせている。
「ロージー、そろそろご飯を食べよう。みんなで食べれば美味しいし……そうしないとまた漏斗で流し込まなきゃ。ビスケットをふやかすのはミルクとオレンジジュースどちらが良い?」
「こまどりがいいよって言ってからにするの。あと5分したらきっと鳴くにちがいないわ」
「5分ですね、本当に……」
ボストンで銀行の頭取を務める父親の手配で送り込まれている彼女は比較的重傷な方で、ここの患者は世間と相対的に見て、殆ど正常な人間ばかりだった。ただ少し、目まぐるしい世界で疲れ、息苦しい思いをしているだけ。この保養所には格子も鞭も必要ない。あるのはたっぷりの休息と、自由気ままな生活だけ──臆することなく出入りする労働者風の男が担ぐ木箱へ納められているのは、スコッチだろうか、それともフランス製のシャンパンが? そう言えば2階のスーペリアを借りている映画監督が、今日は誕生日だと言っていたような気がする。
最上階を丸々占めるペントハウスはしっかりとした作りだが、それでも階下でラジオのボリュームを最大まで回し、10人のコーラスガールがテーブルの上でチャールストンを踊れば、多少は音が突き上げてくる。今夜は眠れないかも、何なら混ざりに行くのも手かもしれない。
この機会におろしても許されるだろう、仕立てたばかりなブレザーへ思いを馳せているガブリエルと裏腹、マリユスの足取りは全くがさつだった。そうでなくてもペントハウスへ続くリノリウムの狭い階段は、音を良く響かせる。揺すられるブリキバケツが、クロームチューブの手すりにぶつかり、高い音を反響させた。
部屋の鍵を探そうとポケットを漁る従者に、ガブリエルは「また随分と臍を曲げるんだな」と言った。マリユスが返事をしたのは、扉がばたんと乱暴に扉を閉め、バケツを床へ落とすように置いてからのことだった。
「別に怒ってない」
「嘘つくな。言いたいことがあるなら言えばいいじゃないか」
「怒ってなんかいやしないさ。ただお前、あんまり他人に肩入れし過ぎだぞ」
少し考えてから、ガブリエルはようやくいった合点に、喉の奥で忍び笑いを膨らませた。
「ミスター・アコードのことか。あれは礼を失しないよう振る舞っただけだよ」
「罷り間違って本当に押しかけてきたらどうする」
「お前、彼のファンじゃなかったか。喜んで映画館へ行ってた癖に」
「昔はな」
ドアへ背中を押しつけ、上目を投げかけるガブリエルへ最後の駄目押し。マリユスはその細い体を囲うよう、主人の顔の脇へ両肘をついた。
「今は違う。あんな惨めったらしい男のことなんか」
「警備員がいるし、いざとなったらお前が追い返してくれるだろう」
見つめ合い、時間が過ぎれば過ぎるほど、マリユスの瞳は情欲に色味を増していく。形良い唇が、聖書に登場する天使の名前をゆっくりと紡いだ。ガブリエルが知っている唯一の経典。先程アコードは独白の合間に、聴き慣れない言語を挟んでいた。恐らくは先住民の言葉だろう。生みの母が使っていた言葉も、彼女を育んだ文化も、ガブリエルは何一つとして学んでいない。
貴方は可哀想だと時に人は言う。これまでずっと奪われて来たのだから。けれど、元々空っぽな人間なのだ。それは無垢であると言うことと同一ではない、悲しいことに。
「大体、彼は貧乏だ。ここの滞在費を払えるとは思えない」
「酷い奴め」
お前は本当に酷い奴だな、と頬が触れ合うような位置で囁かれる。耳へ吹き込まれた言葉はどこまでも浅薄だった。空気が動き、望んでいた爽やかさではなく、汗の匂いが鼻をつく。白人のカウボーイが漂わせていたのとさして変わらない、悪寒を伴うようた甘ったるさだ。
足元で忘れ去られそうなバケツへ視線を落とし、ガブリエルは口付けを軽く避けた。
「オレンジ……あまり肥料をやっていないから、今年の実は固くて苦くて、酸いかもしれない。砂糖を多めに入れた方が良いな」
「そうする。お前の好きな作り方で」
全身から立ち上りそうな熱量を湛えているのに、頬へ触れたマリユスの唇は、幼い弟を宥めるものでしかない。転がされるくすぐったけな笑いが触れ合う鼻先から伝わり、満足したのだろう。踵はあっさり返され、よく磨かれた床からバケツが持ち上げられる。
「今から作り始めたら、明日の晩には食えるかもな」
「じゃあ今日のコーヒータイムはストロベリー・ジャムにしよう」
キッチンから聞こえて来た「この野郎」と言う捨て台詞に思わず口元を綻ばせてから、ガブリエルは初めて気が付いた。気に入っていた真っ白な麻のスーツは、今や煮詰めた苺をぶちまけたかの如く酷い惨状に陥っていると。
終