何もかも、なかったことに。
卒業パーティーの翌日、私はルドウィジア子爵家に戻った。
玄関前には執事が待機し、家の中に入るとそこに両親と兄、妹が揃っていた。
「お帰りなさい」
「只今戻りました」
変わり映えのしない両親と、精悍になった兄。幼かった妹はすっかり淑女の顔だ。
「お風呂を沸かしておいたのよ。先に入っていらっしゃい」
「ありがとうございます」
微笑んだ母の言葉に甘えて風呂に入ることにする。
侍女に入浴の手伝いをしてもらうのは久しぶりだった。
お風呂から上がって髪のセットやマッサージを終わらせた頃には既に夕食の時間になっていた。学院の食事も美味しかったが、懐かしい我が家の味に少し涙が出そうになった。
「そういえば、三年間第一クラスを貫いたそうだな。よく頑張った」
「ありがとうございます。けれど第一クラスでなければモンドリアン伯爵夫人に顔を合わせられませんわ」
そう言うと4人は目配せし合った。だがその理由は分かっている。公爵夫人になるためだと、私がそう言わなかったからだ。
きっと彼が記憶を失う前ならば、私はそう言っていただろう。でも今はそうは言えなかった。
「……そうね」
母はそこに突っ込まなかった。その気遣いは有難いけれど、突っ込んでほしかったとも思う。
私がにこりと微笑んで何も発しなかったため、気まずい沈黙が落ちた。
それを咳払いで破ったのは父だ。
「ユーステス公爵家から先触れが来た。明日婚約について話し合いたいそうだ。リーナやアルベール君には疲れているところ申し訳ないが、うちとしても結局どうするのかを早く決めておきたい」
「分かりました」
実際分かっていたことだ。婚約するなら良いが、しないならばお互いに婚約者を選定しなければならない。
きっと明日彼と二人で話し合うことになる。
だがランスロット様との会話を経て、私の結論は既に出ていた。
⁑*⁑*⁑
「帰ってきてすぐにごめんなさいね」
「いえ、分かっておりますので」
「そうね。それで、まずはお若い二人で話し合いということにしようかと思っているのだけれどどうかしら。その間に私達はお茶でもと」
「そうね。それなら大人はテラスにでも行きましょうか。リーナとアルベール君はこのままここで話し合うといいわ」
例に漏れず母と公爵夫人が話の中心だ。
大人たちが応接室を出て、私は彼と目を合わせた。
「婚約はなかったことに致しませんか?」
彼が口を開く前に私は言い切った。きっと彼は義務感と責任感から婚約の継続を望むと思ったから。
けれど私と彼の婚約にメリットはない。私と彼が恋をしたから決まった婚約だ。
恋がなければ婚約の意味は全くない。
「君は、それでいいのか?」
彼の声が僅かに震えている。私は安心させるように微笑んだ。
「ええ。この婚約は恋愛ありきのものでしたから。お互いにより良い婚約があると思うのです」
「待ってくれ。確かに僕はまだ記憶が戻らないし、君には辛い思いをさせている。でもきっと思い出すから、もう少し時間を貰えないか」
「時間、ですか?……そうできないのはアル様もよく分かっているのではなくて?」
正論に彼がぐっと黙り込んだ。
さっきの彼の言葉でほんの少し揺れていた心が定まった。――ほらやっぱり、私に対して欠片も恋心を持っていない。
「私は三年間第一クラスでした。私は今相手を自分で選べるも同然です。新しい恋をするなり、メリットのある婚約をするなり、私は自由なのです。この婚約に固執する理由はありません」
ああいけない、泣きそうだ。女の涙は武器だから使いどころを間違えてはいけない。そして今は、使ってはいけない場面。
「リーナ、僕は、」
僕は、何?
君と結婚したい、という言葉を期待している自分がいる。
だが彼はそのまま口を噤んでしまった。
分かっていた。分かっていたけれど、やはり辛かった。
「……分かっています。今までありがとうございました。貴方の婚約者でいられて幸せでした」
私は堪えきれずに溢れた涙を拭って最高に綺麗な笑顔を作ってみせた。私は大丈夫だ、と言うように。でも実際は、彼が引き留めたくなるように。
彼はごめんと小さく謝った。拳をきつく握り締めて。唇を噛んで、悔しそうに。
でも結局は引き留めてはくれないのだ。
「行きましょう」
私は彼を先導するように立ち上がり、お互いの両親がいるテラスに出た。
婚約は『なかったこと』になった。『破棄』でも『解消』でも、『白紙』でもなく、『なかったこと』。
誰も知らないし、書類にも残していない、所詮ただの口約束。
9年間の婚約はあっという間に消えてなくなった。海の泡よりも呆気なく。
公爵家の3人はその後すぐにルドウィジア子爵家を発った。流石に気まずいので、有難かった。
部屋にこもってしまった私を、家族は放っておいてくれた。
夕食の時間には涙はすっかり乾いていた。家族は何も尋ねようとしなかったけれど、私は何があったかをきちんと話すことにした。
「学院で彼が階段から落ちたことは聞いていますよね。それについてどの程度ご存じですか?」
「ある程度の経緯は。トルストイ伯爵令嬢が過って植木鉢を階段から落としてしまい、それが運悪くベリティス侯爵令嬢の頭上だった。リーナがそれを庇ってバランスを崩して階段から落下しそうになったところをアルベール君が庇って階段から落ちた。というところだ」
「その通りです。アル様――ユーステス様の怪我については?」
「頭部からの出血と左腕の骨折で、後遺症はないと」
「ええ。ですが実は厳密には後遺症はございました」
「何!?学院は秘匿したというのか!」
父が目を瞠ってがたりと立ち上がった。激昂寸前の様子に私は苦笑した。
「いえ。知っているのは私と彼のみです。そしてその後遺症とは、私に関する記憶を失ってしまったというものです。クラスメイトとしての私については覚えていましたが、恋人としての私についてのみ記憶を失ってしまいました」
「ああ、それで……」
母が納得したように頷く。妹はよく分からなかったようで首を傾げた。妹は再来年に入学するので分からなくても仕方がない。
「はい。学院は恋愛禁止です。私と彼が恋人であったことを知りません。それに私達は正式な婚約者ではありません。申告すれば私と彼以外の三家、ベリティス侯爵家とシュリーレン公爵家、トルストイ伯爵家に関係を知られることになります。そのため学院には申告できませんでした」
くそ、と父がやるせなさそうに俯く。
「こうなるくらいなら幼い頃に会わせるべきではなかった。すまない」
「頭を上げてください、お父様!私は婚約してよかったと思っているのですよ。婚約したからこそ教師を紹介していただけましたし、そのおかげで三年間第一クラスでいることができました。私は今こちらから婚約者を選べる立場なのです。釣り書きが来ているのではなくて?」
「確かにそうだが……それとこれとは別だろう」
「別ではありません。確かに彼と結婚することはできませんでしたが、もっとよい殿方がいらっしゃるかもしれませんから。そもそも記憶を失ったくらいで愛情をなくすような方は嫌ですわ」
おどけてみせると家族が少し笑ってくれた。そうだそうだ、と同意してくれる。
それに私は、ダンスの最中に空気を重くするような男性は嫌なのだ。