愛称で呼んでいいのは恋人だけ。
記憶がないと告げた彼は至って真面目で、私は彼の言葉を冗談扱いすることはもうできなかった。
「ほんとのほんとに、記憶がないの?」
「ああ。だが入学前にランスロットと友人になった記憶はあるんだ。だから多分、君の言うことが本当ならば君に関する記憶だけが抜け落ちてるんだろう」
「私の家に来た記憶もないってこと?」
「それも含めて君に関する記憶がクラスメイトとしてしかない。だが僕は頭を打っているし、重要な記憶だからこそ抜け落ちているとも考えられる。おそらく一時的なものだろう。卒業までには取り戻せると思う」
「そうね。1年以上あるのだからきっと思い出せるわ。これまで通りただのクラスメイトという関係でいる以上お手伝いはできないけれど……」
「大丈夫だ、ありがとう。こちらこそ疑って悪かった、第一クラスの君がこんな嘘をついて良いことなんて何もないことくらい分からない筈ないのにな」
微笑む彼に先程までの冷たい色はない。だが恋人だった頃に見せてくれた甘さもそこにはなかった。
「でも君が僕の恋人だったなら納得はできるんだ。僕は公爵家の跡取りだから簡単に怪我をするわけにはいかない。ただのクラスメイトのために代わりに階段を落ちるなんておかしいとは思っていたんだよ。きっと愛する恋人のために咄嗟に手を伸ばしてしまったんだろうね。僕は余程君が好きだったようだ」
少し照れたように彼が笑う。私は嬉しそうな顔を作って、気分はどん底だった。
好きだった。過去形。
私との記憶を失っているのだから私への気持ちも失われているのは当然だ。けれど直接言葉にされるとやはりきつかった。
最終下校時刻のチャイムが鳴るまで馴れ初めから入学前までのことを話したが、彼はそれらを思い出すことができなかった。
泣きそうなのを隠して作り続けた笑顔で、表情筋が攣りそうだった。
寮の自分の部屋に戻って私は着替えもせずにベッドにダイブした。
「なんで……っ」
一人になって気が抜けて、彼の前で堪えていた涙が一気に溢れ出た。
「なんで!なんでなんでなんで!なんでなのよ……っ」
ばんばんと枕を叩く。
私のことだけ記憶を失っているとは思わなかった。
彼の言う通り、重要なことだからこそ忘れてしまったという可能性もある。でも、そうではなかったら?
私への気持ちが薄れていたのだとしたら?私との婚約が嫌なのだったとしたら?嫌だからこそ忘れたのだとしたら?
彼が自分を犠牲にして私を助けたという事実がある以上、私を嫌いになったというわけではなかったのだと思う。しかしその熱量が入学前と同じくらいだとは断言できない。
だって、一目惚れだったと彼は言ったのだ。でも記憶を失った今、彼は私に一目惚れをしなかった。私なら何度だって一目惚れする自信があるのに。
「私を思い出さなくてもいいから。もう一度私を好きになって」
泣き疲れた私にはそんな後ろ向きの願いをかけるくらいしかできなかった。
⁑*⁑*⁑
月日が経つのは想像以上に早いものだ。
いつの間にか私は3年生になって、そして卒業の時期がやってきた。
結局彼は私との記憶を取り戻すことはできなかった。そして私を好きになることもなかった。そのくらい彼を見ていれば分かる。8年も彼に恋をしているのだから。
卒業パーティーは卒業生と教師しか来ないが、それが社交界へのデビューとされる。パートナーはクラス内でくじ引きだ。例え婚約者がいてもくじ引きだ。ファーストダンスもパートナーと踊る。婚約者がいてもファーストダンスは婚約者ではなくパートナーだ。
私のパートナーはユリウス・フォン・アストレア侯爵令息だ。それほど話したことはないが、寡黙で紳士的な印象の男性である。
「ルドウィジア嬢、君をエスコートできて光栄です。どうぞユリウスとお呼び下さい」
「私こそパートナーになって頂けて光栄ですわ、ユリウス様。私のこともカルメリーナと」
「ありがとうございます、カルメリーナ嬢」
決まり切った会話である。
だがそれは相手を名前で呼び合う間柄になったということであり、ゆえに卒業パーティーのパートナーはかなり重要となる。つまり、くじ運がとても大事。
私は子爵令嬢だから侯爵令息である彼はアンラッキーだったかというと、そうではない。三年間第一クラスである私は子爵令嬢とはいえ高位貴族に嫁ぐ可能性が高く、もし相手が関わりの薄い家であればパイプとなるからだ。第一クラスのメンバーは三年間変わらなかったため、第一クラスの生徒にアンラッキーはない。
彼の相手はリーシャだった。お互いに姓で呼び合う関係だったが、今回パートナーとなったことで彼らはこれから名前で呼び合うことになる。リーシャ嬢、アルベール様、と呼び合っているのを聞くのはなかなか辛かった。
嫉妬だが、単なる嫉妬ではない。勿論彼がリーシャを名前で呼んでいるのもリーシャが彼を名前で呼んでいるのも嫌だ。でも私がユリウス様を名前で呼び、ユリウス様が私を名前で呼んでいても、もう彼は嫉妬してくれないのだ。それが無性に苦しかった。
卒業パーティーのドレスを贈るのは男性である。女性は送られてきたドレスに合わせた靴やアクセサリーを選ばなければならない。学院の必須行事であるからという名目で、ドレスやタキシード、アクセサリーは無料である。卒業祝いの意味合いもあるそうだ。
業者は学院が複数指定しているところから選択することになっている。全てオーダーメイドで、生徒は放課後に打ち合わせを行う。
届いたドレスは彼の瞳の色である菫色だった。アクセサリーに私の瞳の色でもあるローズピンクのトルマリンを用いて明るい印象に仕上げた。
化粧やヘアメイクは王城で働く侍女が来て施す。聞いたときは驚いたが、正式に貴族として社交界デビューする卒業生への王からのプレゼントで、毎年そうなのだとか。
「よくお似合いです。こんなにも美しい人をエスコートできる私は幸せ者ですね」
「まあ、お上手ですこと。けれど嬉しいですわ。ユリウス様もとても素敵ですわね」
「ありがとうございます。さあ、行きましょう」
ユリウス様の差し出した腕に手を添える。私が緊張で小さく手が震えてしまったことに気付いたようで、ユリウス様は私を安心させるようににこりと微笑んだ。
「皆初めてです。それに貴女は三年間第一クラスだったのですから」
その一言で十分だった。
貴族として完璧なのだから自信を持てと、ユリウス様はそう言ったのだ。
「そうですね。ありがとうございます」
それに私に教育を施してくれたのはモンドリアン伯爵夫人だ。そう思うと緊張は一気に解れた。
自信のある足取りで会場に入る。生徒は卒業生しか入れない、卒業パーティーのためだけの建物。
「わ……すごいですわね」
煌びやか、という言葉がこれほどまでに似合う光景があるだろうか。
天井からは巨大なシャンデリアがいくつもぶら下げられて会場全体を煌々と照らしている。壁際には見映えの良い軽食とノンアルコールのジュースがずらりと並んでいる。
「通常のパーティー、特に王城で開催される夜会は遥かにすごいそうですよ」
「そうなのですか?卒業パーティーは肩慣らしのような意味もありそうですね」
「そうですね。確かに耐性をつけるのにはこれくらいが丁度いいかもしれません」
ユリウス様がノンアルコールのシャンパンを手渡してくれた。
「ありがとうございます。……美味しいです」
「そうですね、美味しいです」
ユリウス様もシャンパンを傾け、微笑んで頷く。
卒業生全員の入場が告げられ、会場のドアが閉められた。ボーイにシャンパンのグラスを渡す。
学院長である国王陛下が舞台に登壇した。勿論国王陛下は普段は王城におり、庶務を行うのは学院長代理である。卒業パーティーは陛下主催という扱いであるため陛下が参加するのだ。
「卒業おめでとう。今日を以て君たちは学院の課程を修了し、正式に社交界にデビューすることになる。これからの君たちの活躍を楽しみにしている」
初めて対面した国王陛下は威厳に溢れ、意識せずとも膝をついてしまいそうだった。
お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、登場人物の名前は全部某RPGのSSRからとっています。
名前以外はキャラとは全く関係ありませんので、容姿などはご想像にお任せします。
もしご不快になられるようでしたら回れ右でお願いします。
因みに推しは光シャルロッテと水アグロヴァル。