89 カドレア城 10
「………はぁ」
思わずと言った風に兄から漏れた苦し気なため息に驚き、食い入るように見つめると、兄の額から首から汗が滴り落ちていた。
「お、お兄様!?」
思わず呼び掛けた声は大きく、兄に聞こえていると思われたけれど、兄は何かに耐えるかのようにぎゅっと唇を噛み締めると、そのまま返事をすることなく眉根を寄せた。
その苦し気な様子を見て、ああ、声も出せないほど辛いのだなとこちらまで苦しくなる。
けれど、兄はすぐに小さく息を吐くと、安心させるかのように微笑んだ。
「心配するな、ルチアーナ。体の中で魔力が暴れているだけだ」
「え?」
意味が分からずに問いかけると、話すだけでも苦しそうな兄を気遣うように、ラカーシュが説明してくれた。
「サフィア殿は東星から魔力を一気に取り込んだため、体内で魔力が暴走しているのだ。他人の魔力を取り込んだ場合、誰であってもしばらくは、その魔力が体に適合せずに拒絶反応を示す。発熱し、酔ったような気持の悪さを覚え、魔力をコントロールすることができない状態が数時間から数日の間継続するのだ。今のサフィア殿は戦うことはおろか、立っていることも難しいだろう」
確かに兄は一人で直立していることも辛そうで、背を柱に預けるような態勢で、荒い息を繰り返していた。
「お、お兄様、私に出来ることがあれば……」
私が兄を助けることが出来ると、先ほどラカーシュは言っていた。
それがどのようなことなのか想像もつかないけれど、私に出来ることであれば何だってやろうと思いながら口を開く。
兄はわずかの間、荒い息を吐きながら私を見つめていたけれど、観念したかのように軽く目を瞑った。
「悪いな、ルチアーナ。自分で何とか出来ると思っていたのだが、想定以上にたちの悪い魔力だった。……酷い願いであることは理解しているが、お前の魔力を貰えないか?」
「え?」
「取り込んだ魔力の持ち主が強大であるほどに、そして、取り込んだ魔力量が多いほどに、適合させるのに時間がかかる。私の体内に残っていた魔力は数%程度だから、90数%のカドレア色が付いた魔力が私の体内にある計算になる。元は私の魔力であるというのに、カドレアの体に慣らされていて、全く言うことを聞かない、……正確には、体内から私を攻撃していると言うべきか」
兄はたったそれだけの言葉を口にすることが一苦労とでもいうように、一旦言葉を切ると、浅い呼吸を繰り返していた。
ぽたりぽたりと汗が滴り落ち、その髪は見て分かるほどに汗で濡れている。
急かすべきではないと思い、黙って次の言葉を待っていると、兄は僅かに頬を紅潮させて目を眇めた。
「お前の魔力だけは、完全に私のものと一致する。だから、……お前の魔力を取り込めれば、それは自分の魔力を取り込むのと同義で、私は楽になれるはずだ」
その言葉を聞いた瞬間、ラカーシュが驚いたように目を見開いた。
それから、確認するかのように私の手の甲を見つめてきたけど、……手袋を嵌めているのを確認すると、考えるかのように目を細めた。
……いや、ラカーシュは何を驚いているのかしら。
兄妹だから、魔力が適合するのは当然の話じゃないの。
魔術陣ですら、血のつながりを辿って影響を与えられるくらいなのだから。
そして、だからこそ、ラカーシュは『兄を助けることが出来るこの場で唯一の者』と判断して、私を呼びに来たのでしょう?
そう思いながら、私は急いで嵌めていた手袋を外した。
それから、右手の甲を―――利き手であり、魔術師の紋が刻まれている方の手の甲を、同じく紋が刻まれている兄の左手に重ね……ようとした瞬間、兄に角度をずらされて、斜めに重なる形で、手の甲同士を合わせられる。
兄は自由な方の右手で、空いていた私の左手を掴むと、こつりと額を合わせてきた。
「ありがとう、ルチ」
そう小さな声で呟くと、ぐっと握っていた手に力を込める。
「同調魔術 <ダイアンサス> 魔力吸収!」
兄が言葉を発したと同時に、すうっと血の気が引くような感覚が全身を襲った。
力が、気力が、重ね合わせた手の甲から一気に兄に移っていくような喪失感を覚える。
魔術師にとって、力の源であるはずの魔力を奪われる感覚は恐怖であるはずなのに、不思議と恐ろしさは感じなかった。
強く感じたのは、握られた左手の温かさ、至近距離から見つめてくる兄の眼差しの穏やかさだった。
「……上手いな。初めて魔力を吸収される者は、例外なく不安と恐怖でパニックになるものだが」
後ろで、ラカーシュが感心したように呟く声が聞こえた。
けれど、私は発言された言葉の意味を考えることなく、兄をぼんやりと見つめていた。
魔力を吸収されるほどに、まるで酔ったかのような酩酊感に襲われ、体はふわりふわりと波間を漂っているような心地よさを感じ、何事かを考えることが面倒に思われたからだ。
「……悪いな、ルチアーナ。お前はしばらく、動くことも難しいだろう」
暫くの後、兄はそう言って握っていた手を離すと、素早く羽織っていた上着を脱いだ。
その上着を柱の陰になるような位置に敷くと、私の手を取ってその上に座らせる。
「少しの間一人にするが、待っていられるか? 私はお前が見える場所にいるから、何も怖いことはない」
気遣うように言葉を紡ぐ兄を心配させたくなくて、こくりと頷くと、兄は褒めるかのように小さく微笑んだ。
「いい子だ」
そうして、私の頭を優しく撫でると、立ち上がった。
その立ち姿は堂々としており、先ほどまでの苦し気な様子は微塵も感じられなかった。
―――もちろん、兄のその態度を全て信じられるはずもなかったけれど。
なぜなら、私の魔力量なんて大したことはないはずだから、たとえ私の魔力のほとんどを兄が取り込んだとしても、兄の魔力総量からしたら僅かなもので、体調が完全に回復することはないはずだから。
けれど、はったりであるにしても、自立できるほどには回復したのだろう。
そう思って、少しだけ安心している私の前で、兄はラカーシュを振り返った。
「さて、それでは、反撃開始といこうか?」
そう言って微笑んだ兄は、今までで一番美しかった。
いつも読んでいただきありがとうございます!
今年の更新は今回が最後になります。
(前回分で今年最後にするつもりでしたが、年をまたがせるにはサフィア兄の状態が酷かったため、考えを改めました)
今年一年間、お付き合いいただきありがとうございました。
来年もよろしくお願いします✧*。٩(ˊᗜˋ*)و✧*。
(といいながら、書籍化作業が入ってきましたので、少し更新が滞るかもしれません)