81 カドレア城 2
コンラートが城に触れた、―――と思った瞬間、私たちを取り巻く四方の景色が変化した。
落ち着いた薄緑色の壁だったものが、毒々しい真っ赤な色の壁に変化する。
「ええ!?」
驚いて声を上げると、「転移の術だな」とジョシュア師団長が素早く辺りに目を走らせながら呟いた。
改めて周りを見回すと、兄の部屋が跡形もなく消えてなくなっており、代わりに見慣れない不思議な模様が描き出された深紅の壁が目の前に現れていることに気が付く。
一瞬の間に、私たちは兄の部屋から、見知らぬ建物の長い廊下と思われる場所に移動していたようだ。
「て、て、転移の術!?」
当たり前のように言われても、何が何だか分からない。
私は混乱したまま、ジョシュア師団長が発した言葉を繰り返したのだけれど、師団長は睨むような視線で壁の1点を凝視していた。
「……サフィアめ、私たちが来ることを予見していたな!」
師団長が睨みつけている視線の先には、1枚の扉があった。
私たちが立っている長い廊下の両側には多くの扉が配置されており、師団長が見つめているのはその中の一番近い扉だった。
そして、その扉の全面には、大きな青紫の撫子の紋章が描かれている。
「……………」
私は思わず無言になると、ジョシュア師団長と同じ気持ちで扉を睨みつけた。
青紫の撫子なんて、完全にサフィアお兄様を指すわよね。
けれど、東星のお城に入った途端にお兄様の部屋の前にいるなんて、そんな偶然があるものかしら?
この撫子の紋章は罠で、お兄様がいるのだと思って部屋の中に入ったら、私たちを驚かす何かがいるということなのじゃないかしら?
正解が分からなくなり、どうしたものかと行動を躊躇っていると、ジョシュア師団長が勘弁してくれとばかりに片手で顔を覆った。
「どうやら私は勘違いをしていたようだな。サフィアは東星に連れ去られたと思っていたが、あいつは自分でついて行ったのだ。そうでなければ、こんな風に東星の城で自由に出来るはずがない! 人の身で東星の城に自室を与えられるなんて、あり得るか!? その上、東星の城の中で、私たちを自分の部屋の前に転移させる自由までをも、サフィアは持っているなんて!!」
「いや、まだここがお兄様の部屋だと決まったわけでは……」
「扉に描かれている撫子はサフィアの紋だ! 魔術師は利き手の甲に家紋の花を意匠化した紋章が刻まれるが、その紋章は一人一人異なっている。東星の紋が刻まれる前に見たサフィアの紋は、この扉に描かれている紋と全く同じだった!!」
「そ、そうなんですね」
噛みつくような師団長の言葉に、私はしどろもどろに返事をした。
ジョシュア師団長の言う通りだとするならば、確かにこの部屋はお兄様のものだろう。
なぜなら、魔術師の紋は一意性を保っている。
同じ一族だとしても一人一人の紋は異なっており、同じものは2つとしてないのだ。
「……つまり、カドレア城に入ると同時にサフィア殿の部屋の前に誘導されたことを、サフィア殿の導きだとジョシュア師団長は考えているのだな?」
ラカーシュが確認するかのように言葉を発する。
「ああ」
短く返事をした後、ジョシュア師団長は挑むような表情で皆を見回した。
「恐らく私の推測は間違っていない。どの道、カドレア城に忍び込んでしまったのだから、サフィアを探す必要があるし、この扉ほど怪しいものはないから、開けて部屋の中を確かめてもいいか?」
「「「「どうぞ」」」」
驚くほど全員の声が揃う。
皆の返事を聞いた師団長は、撫子の紋が描かれた扉に手を掛けると、―――それでも僅かに緊張した様子で一呼吸置いた後、勢いよく扉を開いた。
それから、何か危険があった時には対応するつもりだったのだろう。
一番初めに師団長が部屋に飛び込んでいったのだけれど、数歩進んだところで、衝撃を受けたかのように立ち止まった。
後に続いたラカーシュやルイスも同様の仕草を取ったので、何事かが起こったのかもしれないと心配になり、慌てて皆の後ろまで駆けよると中を覗き込む。
「………はっ!?」
けれど、部屋の中が目に入った瞬間、私も他の者たちと同様、ぎくりと体が硬直して動かなくなった。
動きを止めた私の視線の先には、サフィアお兄様がいた。
部屋の真ん中に洒落た形のバスタブが置いてあり、どういうわけかお兄様は着衣のまま、お湯の張ってあるバスタブに体を沈めていた。
目を瞑った状態で、頭をバスタブの縁にあずけて足をのばしている。
状況が把握できず、硬直したまま見つめていると、兄はゆっくりと瞼を開いた。
それから、黙したまま私たちを見回すと、物憂げな表情で見つめてきた。
「やー、思ったよりも遅かったな。風呂の湯が冷えて、風邪をひくところだった」
困ったように言いながら、兄は長い指先で、ぽたぽたと雫がしたたっている前髪をかき上げた。
そんな兄を見ていたジョシュア師団長は、やっと硬直状態から解除されたようで、わなわなと震えながら大声を上げる。
「サ、サフィア、お、お前は何を呑気に風呂になど入っているのだ!!」
……分かります、とてもよく分かりますよ!
お兄様に何かあったかもしれないと心配した分だけ、安心して感情が逆側に振り切れてしまうこの状態は、とてもよく理解できます。
「サフィアお兄様、一体何をやっているのですか!?」
ジョシュア師団長の言葉の繰り返しだ、と思いながらも、続けて口を開かずにはいられない。
私は叫ぶかのような声で、兄を糾弾した。