【SIDE】ウィステリア公爵家ダリル 6
よく見ると、大きな樹の下にガーデンテーブルが置いてあり、その周りに配置された椅子の一つに、僕と同じくらいの少女が座っていた。
とは言っても、僕は人間の体を捨ててしまっていたので、正確に言うと、人間であった頃の僕と同い歳くらいと言うべきだろうけれど。
少女は僕を見ると、ぴょいっと椅子から降りて近付いてきて、目の前でしゃがみ込んだ。
「はじめまして、私はルチアーナです。あなたのお名前は?」
そう真剣な表情で問いかけてきた。
尋ねられて気付いたけれど、それは獣になって初めての経験だった。
僕が獣になって以来、僕に食べ物を与えようとしたり、追い払おうとした人間はいたけれど、話しかけてきた者は誰もいなかったから。
それも当然ではあるのだけれど―――なぜなら、僕は既に人間ではなく、獣の姿になっていたので、そんな僕に話しかけようなどとは誰も思わないだろうから。
だというのに、ルチアーナは大きな瞳で僕をじっと見つめ、我慢強く答えを待っていた。
……この少女は頭が弱いのかな? 僕は獣であるのだから、人の言葉なんて話せるはずもないのに、答えが返ってくるものと信じて疑ってもいないなんて。
そう考えながらも獣であることに専念して沈黙を守っていると、―――ルチアーナはぐっと唇を噛みしめ、突然、ぽろぽろと涙を流し始めた。
「……もしかして、コンラートなの?」
コンラート? 誰だそれは?
そう心の中で呟いた声が聞こえたかのように、ルチアーナは僕に説明を始める。
「コンラートは私の弟よ。最近、天の国へ旅立ってしまった………」
けれど、ルチアーナは言葉の途中で声を詰まらせると、ぼろぼろと涙を零して泣き始めた。
「コンラートは薄い青紫色の髪をしていたわ。あなた、同じ色をしているもの。コンラート……なのでしょう?」
言いながらルチアーナは僕の首元にぎゅっとしがみ付いてきた。
それから、声を押し殺して涙を流し始める。
縋るように僕を抱きしめてくるルチアーナを見て、それもいいかなと思う。
この少女の望むまま、『コンラート』の身代わりになるのもいいかなと思う。
僕はずっと、ルイスや兄上たちが貰う分の愛情までも独り占めしてきた。
そんな僕にとって、僕自身ではなく誰かの身代わりとしてしか見られない境遇は、正しい罰のように思われたのだ。
だから、僕は請われるままルチアーナに付いて行った。
不思議なことに、ルチアーナに抱き上げられて進んでいくとすぐに、緑の木々が生い茂る普通の森に僕らはいた。
というか、森というほど広くはない。どこかの貴族の館の庭だと思われた。
すぐに館で働く侍女らしき者たちがわらわらと現れ、僕たちは取り囲まれた。
声高に何ごとかを話し続ける大人たちに背を向けたルチアーナが、困ったように僕を抱きしめて俯いていると、10歳くらいのとても綺麗な少年が慌てた様子で現れた。
少年はルチアーナの前に屈み込むと、慎重そうに彼女の顔を覗き込んできた。
「ルチ、突然いなくなるから心配したよ。どこにいたのか覚えている? 怖いことはなかった? 体のどこかに痛いところは?」
少年はルチアーナが1つ答える毎に、1つの質問をしていった。
全ての質問にルチアーナが首を横に振って否定するのを確認すると、少年はやっと安心したかのようにルチアーナの片手を取って、ぽんぽんと軽く叩いてきた。
「お前が無事でよかった。体が冷えただろう? 準備が出来ているから、まずは湯あみをしておいで」
それから、少年は僕に視線を移すと、目を細めた。
「君がルチアーナを家に戻してくれたのかな?」
その言葉を聞くと、ルチアーナは少年の袖をつかみ、つんと引っ張った。
「サフィアお兄様、……私、この子と一緒に暮らしたい」
どうやらこの青紫の髪をした美しい少年は、ルチアーナの兄らしい。
どちらも綺麗な顔をしているけれど、あまり似ていない兄妹だなと思いながら、話の成り行きを見守る。
サフィアは考えるかのようにルチアーナを見ると、口を開いた。
「……やー、それは難しい要望だな。この獣は魔物ではなさそうだから、従魔にするという訳にもいかないし、どういった名目でお前の側に置いたものか」
「お兄様……」
少しだけ泣きそうになったルチアーナを見て、サフィアがしかつめらしい表情をつくる。
「それに最大の問題は、拾ってきた初日ですらこんなに大事にしている獣を家に置いたりしたら、たちまちお前はこの獣に夢中になってしまい、私の相手をしてくれなくなるのではと懸念されることなのだが……」
「え?」
ぽかんとして兄を見上げるルチアーナに対し、サフィアは楽しそうな笑い声を上げた。
「ははは、お前のお兄様は存外、お前にまとわりつかれることが好きなのだよ。そして、よく考えてみろ。私がお前の願いを拒絶したことが、1度でもあったか? ……むう、そう考えると、妹の願いを何だって聞き入れる、典型的な馬鹿兄が私か?」
考えるかのように首をひねるサフィアだったけれど、ルチアーナを見つめる瞳は優しかった。
「勿論いいよ、ルチアーナ。その獣はお前を家に連れ戻してくれたようだし、私としても恩ある者を無下にするつもりはない。さあ、まずは風呂に入って冷えた体を温めておいで。その獣はだいぶ薄汚れているから、一緒に洗ってもらうといい」
「お、兄様! ありがとうございます!」
嬉しそうな笑顔を作るルチアーナと、それを優し気に見守るサフィア。そんな仲の良い兄妹の姿がそこにはあった。
……ように見えたけれど、その時の僕は、生まれて初めて鳥肌が立つような感覚を味わっていた。
僕は元々、ダリルの体であった時から魔力が強く、獣になってからは更に魔術を感知する感覚が上がったように思っていたけれど、………その僕が初めて感じるほどに、サフィアの魔力は強大だった。
通常、魔術を発動させるためには物凄い集中力が必要で、何かをやりながら片手間に発動できるものではないのだけれど。
だけれど、サフィアは妹と何でもないような会話を交わしながら、非常に滑らかに魔術を発動させていた。それはもう強大で、しかも術式不明の魔術を。
僕の全身をべったりと、くまなく探られたような感覚があったけれど、術式が不明なため、どこまで深く探られたのかが分からない。
……何てことだ。ルチアーナには既に守護者がいたのか。
恐ろしく強大で、抜け目がなくて、ルチアーナを大事にしている守護者が。
サフィアの魔術は見たこともないほど凄いけれど、そのサフィアに一心に守られているルチアーナは、もっと凄い存在ではないのかと思った。
そして、そう考えてルチアーナを見つめ直してみると、先ほど迷い込んだ紫の森はルチアーナが関与しているのではないかと思い至った。
ああ、そうだ。多分、ここにいる鈍感で泣き虫の少女も普通ではないのだ。
……貴族の家なんて、どこもかしこも魔窟だ。
色々な闇が沈んでいたり、見たこともないような化け物がいたりするものなのだ。
―――そんな風に本気で考えた僕だったけれど、意外にもルチアーナの側は居心地が良かった。
加えて、ルチアーナの側にいるという理由だけで、いつの間にか僕はサフィアの庇護下に入れられ、守られていた。
そして、快適な生活の中、あっという間に9年もの年月が流れたのだった。