5 新生ルチアーナ 3
私は正に今、絶対に近付くまいと心の中で名前を読み上げていた人物を間近で見上げる形となり、あんぐりと口を開けた。
ラカーシュ・フリティラリア―――筆頭公爵家の嫡男にして、エルネスト王太子の1歳年上の従兄だ。
つまり、貴族の頂点に位置する公爵家の中でも1番の家柄で、さらにその後継ぎの立場にある者ということだ。
加えて、文句ない美貌と頭脳。強力な魔力。
全ての能力を備え持ったラカーシュは、正に「選ばれし者」だった。
そのため、超上位者の陥りやすい悪質を受け継いだラカーシュのプライドは、世界最高峰の山よりも高かった。
自分より下の者は―――つまり、王族と両親以外は―――1段下等な生物だと思っている節が見受けられる。ルチアーナの記憶の中の彼も、前世でプレイしたゲームの中の彼も、どちらもともに。
「ダイアンサス侯爵令嬢、一つ忠告をしよう。君のようなタイプは、学園に婚姻相手を探しにきているのだろうが、この学び舎はそのような目的のためにあるのではない。疾く去られるがよかろう」
今日の天気を話すかのような気安さで、非常に辛辣なことを口にされたのだけれど、言葉の意味はほとんど頭に入らなかった。
なぜなら、攻略対象者という美形必至の相手から、至近距離で覗き込まれていたのだから。
私は驚きのあまり硬直し、硬直したまま目の前の貌を凝視する。
ラカーシュは黒髪黒瞳の、彫像のように整った美貌の持ち主だった。
その美貌を至近で見つめながら、ああ、そういえばラカーシュのあだ名は「歩く彫像」だったなと思い出す。
もちろんこれは、その整った美貌からつけられたあだ名ではあるのだが……裏の意味は「彫像のように表情が変わらない」ということだ。
つまり、我々のような(筆頭公爵家より)下の人間相手に感情が動くことはなく、能面のように表情が変わらないということだろう。
「ダイアンサス侯爵令嬢?」
至近距離で見つめ合ったまま、瞬きもせずに呼吸まで忘れた私に対し、訝し気な声が掛けられる。
けれど、それでも私は微動だにすることができなかった。
も、も、元喪女ですから!
どうしよう。記憶を総動員しても、男子とこんなに至近で見つめ合った覚えがないんだけど!
(※注:前世の記憶が戻る前のルチアーナの行動は除かれています)
えええええ、なんなの? 人間の目ってこんなにきらきらして綺麗なものなの!?
あ、多分これ、種族が違う。貌が整いすぎていて怖い。声も素敵で怖い。近付かれると息が止まるとか、悪い魔術師だろ。怖い、美形怖い。
そんな風に頭の中では取りとめのない思考がぐるぐると回っているのだけれど、体は硬直したまま息もできない状態だった。
あ、これは窒息すると思った瞬間、「ご令嬢?」と言いながらラカーシュが手を伸ばしてきた。
まさにその手が私の一部に触れようとした瞬間、私の体は硬直状態から解除され、「ひぃぃ」と言いながら椅子から飛び上がった。そして、がたたんっと派手な音を立てて、床の上に尻餅をつく。
ラカーシュは―――上級貴族の中の上級貴族であるラカーシュ・フリティラリアは、紳士の心得として床にへたりこんでいるご令嬢の手を取るでもなく、わずかに眉根を寄せると口を開いた。
「何だい、その対応は? 私に乱暴されそうになったとでも言って、何かを勝ち取るつもりかい? ……君みたいなご令嬢の思考を理解することはできないので、私の想像が当たっているとも思わないが」
言いながらわずかに目を眇めると、冷ややかな言葉を続けた。
「ダイアンサス侯爵令嬢、学園を休んでいた間に、傍迷惑なたくらみを思いついたようだね。廊下を歩いていると、君が教科書を開いているなんて初めての光景に当たってしまった。何事だろうかと思って観察してみたら、これ見よがしに『機密文書』と書かれた書類を読み始める。もちろん、興味をそそられて近付いてしまった私にも問題はあるのだけれど。でも、『魔術王国のシンデレラ☆学園内攻略対象者一覧』とは何の遊びだ? 私はもちろん、エルネストを君の遊びに巻き込むのは止めた方がいい」
言われた言葉は頭に入っていた。
けれど、その時私は別のことに気を取られていた。
つまり、『おお、これがあの有名な「エルネスト呼び」!』と興奮していたのだ。
エルネスト王太子を呼び捨てできる人間など、王国広しといえど国王夫妻以外には、このラカーシュしかいなかった。だから、王太子の敬称を省いたその呼び方は、「エルネスト呼び」と前世では尊ばれていたのだ。
「さすがですわ、ラカーシュ様! 王太子殿下を呼び捨てるなんて、ぞくぞくします!!」
私は「生エルネスト呼び」を見ることができた興奮で、思わずラカーシュに話しかけてしまった。
はっとした時はすでに遅く、若干引き気味のラカーシュがそこにはいた。
「………ぞくぞく、……ぞくぞくするのか? 全く申し訳ないが、それが風邪の前兆であることを祈っているよ」
「え? あ、ああ、そ、そうですわね。昨日まで休んでいたんですもの。そう、風邪がまだ治りきっていないようですわ」
「風邪? 倒れた時に足を捻って、歩行に問題があるから休んだと聞いていたが?」
「そ、そそそうです! 捻挫のような風邪だったんです!」
「………新種だな」
ラカーシュは諦めた様なため息をつくと、もうこれ以上会話を交わすのが面倒だと思ったのか、ちらりと横目に見てきた。
「忠告はしたよ?」
それだけ言うと、教室から出て行った。ラカーシュは隣の教室だから、自分のクラスに帰ったのだろう。
ラカーシュの後ろ姿を見ながら、私はぱちぱちと瞬きをした。
……あれあれ、案外優しいじゃないの?
ラカーシュはもっと、『疑わしきは全て罰する』みたいな、怪しいと少しでも思った者は問答無用で排除するタイプかと思っていた。ゲーム内でも、はっきり明示はしてなかったけれど、そういうことを仄めかしていたし。
なのに、怪しいと思った私に自ら近付いてきたし、何をやっているのか確認したわよ。
確認した上で怪しいと判断したにもかかわらず、忠告までしてくれた。『止めた方がいい』って。
……優しくないか、これ?
それとも、私が元喪女だから、男性の前に立つと判断基準が上手く働かず、結果として判断が恐ろしく甘くなっているのかしら?
そう考えながら、見極めるようにラカーシュの後ろ姿を眺めていると、ふと違和感を覚える。
……あれ、何かラカーシュの印象が違うわね。なんだっけ。
う――んと考えていたけれど、そのうちにラカーシュは視界から消えてしまい、授業開始の鐘が鳴った。