40 コンラート 6
「お、お兄様? どうなさったんですか?」
普段と異なる兄の様子に、何度目かの同じ問いを重ねる。
けれど、兄は返事をすることなく、無言のまま馬車の外を眺めるだけだった。
「……サ、サフィアお兄様!?」
我慢できずに再度兄を呼ぶと、兄は小さく溜息をついた。
「……聞こえている。……そうだな、侯爵邸とはだいぶ距離が離れた。少しはましか」
言いながら、兄は力が抜けたかのように、馬車の背もたれに背中をあずけた。
その仕草を見て、あれ、兄は緊張していたのかしら、と思う。
窓の外をずっと見ていたのも、何かを警戒していたのかもしれない。
では、何からかしらと考えた時、先ほどのコンラートの部屋でのやり取り時に感じた違和感を思い出す。
「……お兄様、私と話す余裕はありますか?」
「そうだな。私もお前に話がある」
兄が頷いたので、微妙な話題だなと思いながらもおずおずと口を開く。
「ええと、お兄様は先ほど、自分に弟はいないと発言されましたけれど、コンラートは弟ですよ。3歳の子どもにはお兄様の高度な冗談は分かりにくいので、ああいう言い方は止めた方がいいように思うのですが……」
改めて面と向かうと、兄の冗談が下手だとストレートに言うことは躊躇われた。
ので、できるだけ優しい言い方になるよう気を付けたけれど、まだ、不十分だったのか、兄から無言で見つめられる。
「え、ええと、お兄様……」
「……そうだな。お前の言う通り、私には弟がいた。私が7歳、お前が4歳の時に生まれた弟だ。コンラートと名付けられた、紫紺の髪の男児だった」
沈黙が続いたため、耐えられなくなった私が口を開くと、私の言葉に被せてくるように、兄が口を開いた。
「は、はい、その通りです! コンラートは弟ですよ」
年齢のくだりが一部理解できなかったけれど、兄がやっとコンラートの存在を認めたので、安心して繰り返す。
けれど、兄は探るかのような目で、私を至近距離から見つめてきた。
「……が、コンラートは3歳の時、病が元で亡くなった。お前は酷く泣きじゃくっていたが……忘れてしまったのか?」
「…………え?」
兄は何を言っているのだろう。
先ほど、コンラートは元気だったじゃあないか。しかも、今がちょうど3歳だ。
兄の発言の真意が分からず、眉根を寄せて考えていると、ほっと溜息をつかれる。
「悪かった、ルチアーナ。私のミスだ。まさか家の中に危険があるとは思わず、お前を放置しておいた私の責任だ。……お前は、長い時間をかけて、『魅了』の魔術をかけられている。『コンラート』の存在について」
「…………え? 『魅了』……ですか?」
聞いたことはあった。
『魅了』という、特殊な魔術について。
非常に希少で、まず滅多にお目にかかれない稀有な魔術という話だった。
どれくらい稀有かと言うと、扱える者は王国中を探しても、1つの家柄しかないくらいに。
そして、希少性が高い分強力で、術者の魔力が強ければ強いほど、相手の心を動かせるという。
その『魅了』の魔術を、コンラートについてかけられている? 私が?
兄の言葉を胸の中で反芻した私は、困惑して兄を見つめた。
兄はそんな私を正面から見返すと、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「思い出せ、ルチアーナ。コンラートはお前が7歳の時に、3歳で亡くなった。……それからしばらくして、お前が丸一日行方不明になったことがあった。家中の者がお前を探したが、何の手掛かりもない。突然消えてしまったかのように、お前はいなくなったのだ。……そして、消えた時と同様、突然、お前は戻って来た。腕の中に青紫色の四足獣を抱いて」
「青紫色の四足獣……」
兄の言葉が、何かの記憶に触れる。
……確かに、私は幼い頃、とても綺麗な色の動物を飼っていたような気がする。
そうだ、あの動物はどうしたのだっけ……?
ずきずきと痛みだした頭を押さえて、記憶を辿っている私を慎重そうに見つめると、兄は話を続けた。
「丸まっていたので、獣の種類はよくは分からなかったが、その四足獣を飼うとお前は宣言した。……獣の1匹くらい増えたからと言って、我が侯爵家が困ることなどない。弟を亡くして悲しいのだろうと好きにさせていたら、お前はその獣に『コンラート』と名付け、弟の部屋だった場所を与えていた。あまりいい趣味だとは思えなかったが、お前の気が済むまではと自由にさせていたところだ」
「コンラートが、……獣の名前……?」
兄の言葉を聞いていると、どくどくと心臓が高鳴りだす。
聞いてはいけないものを聞いているような、そんな心苦しさすら覚え始める。
兄は私から目を逸らさずに、言葉を続けた。
「お前が拾ってきた『コンラート』は、不思議な気配をしていた。邪なものは感じられなかったためにお前の側に置いてはいたが、非常に独特の気配を持ち、その存在を離れていても感じ取れたほどだ。侍女たちの話によると、『コンラート』は窓から自由に出入りしており、ほとんど部屋には寄り付かないし、お前の前以外には姿を現さないとのことだった。実際、お前が館にいない時には、『コンラート』の気配を感じたことは1度もない」
兄の話が進むにつれて、どんどんと気分が悪くなってくる。
頭のどこかで、兄の言葉は真実だと理解し始めているのかもしれない。
……でも、そうしたら、あの可愛い可愛いコンラートを、どう理解したらいいのだろう?
「ただし、お前が館にいる時は、いつだって館の中に『コンラート』の気配があった。お前が気まぐれに訪れるのを待っているのだとしたら、健気な獣だと思ったものだ。時々、ちらりと獣の姿を見かけることがあったが、いつまでたっても小型のままで、おかしな気配もなかったので、お前に怪我をさせることもないだろうとそのままにしておいた。そして、実際、今まで何の問題もなかった」
兄の言葉を理解しようと、私は一生懸命記憶を辿る。
……そうだ、コンラートはいつから私と一緒にいたのだっけ?
3歳だから、3年前?
……いいえ、もっと前から一緒だった気がする。
「だが、先ほど突然、『コンラート』の部屋から尋常ではないほど強力な気配がした。なかなかお目にかかれないレベルのエネルギーだ。発生源を突き止めようと来てみれば、お前は見知らぬ子どもと一緒にいた。……ああ、偶然にも、私たちの亡くなった弟と非常にそっくりな造作をした子どもと」
「そう……コンラートは、薄い青紫の髪に緑の瞳で……」
「そして、更に不思議なことに、その子どもからはお前が『コンラート』と名付けていた獣と同じ気配がした。身に収めているエネルギーは、天と地ほども違うが。さて、これをどう考えたものだろうな? ……獣から人間に変態する存在など、私は知らない」
兄はそう口にすると、正面から私を見つめてきた。