38 コンラート 4
「ええと、コンラートという呼び方だけど……」
弟の名前の後に『様』を付けるべきだと続けようと思ったけれど、あれ、本当にそれで合っているのかしらと自信がなくなって、言葉を途切れさせる。
よく考えたら、ここにいる全員が侯爵邸に仕えているのよね。
メインスキルは料理だとしても、言葉遣いが悪ければ、とっくの昔に誰かから注意されているはずだよね。
ということは、侯爵邸の子息と言えど、幼児は敬称なしで呼ぶのが正解だったかしら?
答えが分からなくて考え込んでいると、鍋で沸かしていた油がぱちりとはねた。
「あっ、油が高温になったのかしら?」
……答えが分からないわ。
だったら、コンラートの呼び方は保留にして、料理に集中しよう。
そう思った私は薄くスライスした野菜を次々に油の中に落とし込んだ。
大事なのは揚げすぎないことよね、とタイミングを見ながら野菜を取り出していく。
そして、揚げたての野菜の上に、パラパラと塩を振りかけた。
出来上がったとばかりに皿に盛っていると、料理長からおずおずとした声が掛けられた。
「お、お嬢様、もう出来上がりですか? そんな薄さではぱりぱりするだけで、ちっともほくほく感がないし、美味しくないと思われるのですが……」
どうやら料理長は私の後ろについて、ずっと見守っていたようだ。
長と名が付くだけあって、面倒見がいいな。そう思いながら、聞かれたことに答える。
「あー、確かにその通りね。天ぷら……ってこっちにあるのかしら? まあ、つまり、厚切りにした野菜を切って揚げる料理とは、全く異なる料理と思ってちょうだい。これは、ほくほく感を求めるのではなくて、ぱりぱり感を楽しむ料理だから」
「ぱ、ぱりぱり感……??」
料理長には全く理解ができないようで、ちらちらと私の手元の皿を覗き込む。
あー、そう言われてみたら、この世界ではチップスを1度も食べたことないわね。
体験したことがない料理を理解しろというのは、無理な話かもしれないわ。
そう思った私は、「手を出して」と言うと、素直に手を出してきた料理長の手の平にチップスを数枚乗せた。
料理長は興味深げに色々な角度からチップスを眺めた後、手に取って口に運ぶ。
そして、一口齧り、驚いたような声を上げた。
「ぱりぱりとしている! 不思議な食感だ! 口の中で砕けて、音がする。面白いなあ!!」
「そうでしょう、そうでしょう。お菓子だから、食感が面白いってのは大事よね」
「食感! お嬢様の発想は、独創的ですね! 味以外の楽しみ方に着目するなんて!!」
「へ? い、いや、それほど大層な話では……」
興奮し始めた料理長を前に、私は思わず1歩後ずさる。
あれあれ、これは先ほどまでむっつりと黙り込んでいた料理長と同一人物なのかしら?
突然、饒舌になったのだけれど。
ぱちぱちと瞬きを繰り返す私に構うことなく、料理長は流れるように言葉を続ける。
「お嬢様、こういった食べ物なのだと先入観なしで食すると、味もすごく美味しいですね!!」
「そ、それはよかったわ。でも、素揚げしただけだし、料理というほどでは……」
「いや、新発想の立派な料理ですよ! お嬢様は貴族のご令嬢として多くの物を見聞されているので、私とは異なり発想が豊かで、閃く力に溢れているんですなあ。ああ、素晴らしい……」
突然、私を手放しでほめ始めた料理長の変わりように、私は驚きを隠せなかった。
……そ、そうね。専門家って自分の専門に貪欲よね。
あんなに距離を置こうとしていた私相手ですら、こんな一気に近寄ってくるなんて。
私は作り笑いをすると、チップスを入れた大皿を手に持った。
「わ、私の頭の中には、色々と新しい料理の構想があるから、また、厨房を借りると思うわ。その時にでも話しましょう」
「はい!! お待ちしております、お嬢様!!」
「……ええと、ごきげんよう」
料理長のあまりの興奮ぶりに恐れをなした私は、早々に厨房を退散した。
それから、気持ちを切り替えると、温かいうちにコンラートに食べてもらうため、一直線に弟の部屋まで向かう。
足早に廊下を歩きながら、窓越しに見える外の景色が茜色に染まっており、陽が落ちてきていることに気付かされた。
あら、もう夕暮れだわ。
明日は月の曜日だから、今日中に学園に戻らないといけないのに、いつもより遅くなったわねと考える。
コンラートの部屋に入ると、ちょうど夕食が終わったところのようで、私が手に抱えた皿を見ると、弟はきらきらと目を輝かせた。
「お姉さま、それはなあに? コンちゃんにみーせーて!」
言いながら、私が胸のあたりに抱えた皿の中身を見ようとして、ぴょんぴょんと飛び上がる。
「ふふふ、コンちゃんお待ちかねのおやつよ」
私がそう言うと、コンラートはさらにぴょこりと飛び上がる。
「やったあ! コンちゃんは、ずっと前からこれが食べたかったのよ」
「ええ、ずっと前って……。さっきこの部屋を出てから、まだ1時間も過ぎていないのに」
なんて可愛いことを言うのだろうと思いながら、コンラートと並んでソファに座る。
コンラートはさっとテーブルの上に置いた皿に手を伸ばすと、まずはカボチャのチップスを手に取り、口の中に1枚全てを詰め込んだ。
「コ、コンちゃん、そんな1度に口に入れなくても……!」
「ぱり、ぽり。……すごい、美味しい」
コンラートが両手で口を押さえながら、真顔でつぶやく。
「ええ、本当に、コンちゃん? 嬉しい! こんなおやつでいいなら、お姉さまはいつだって作るからね!」
「やっはあ」
口一杯に詰め込んでいるコンラートの滑舌がおかしい。
にもかかわらず、コンラートは次から次にチップスを口に詰め込み始めた。
リスのように頬が膨らみ、元々下膨れだった顔がさらに膨らんでいく。
「コ、コンちゃん、のどに詰まるわよ。これは全部コンちゃんのものだから、ゆっくり食べてちょうだい」
心配する私を尻目に、コンラートはどんどんとチップスに手を伸ばして、口の中に収めていった。
そして、見る見るうちに、皿に山盛りあったチップスが、半分にまで減ってしまった。
……い、いや、嬉しいけれど。
もちろん、コンちゃんのために作ったけれど、食べすぎじゃないかしら?
取り敢えず作った分を全て持っては来たものの、コンラートが一人で食べる量だとは思ってなかったし、食べすぎるのは体に良くないわよね。
そう思いながら、コンラートを制止させようと口を開きかけたところ、突然、バンと勢いよく扉が開いた。
派手な音に、思わずびくりとして振り返る。
ノックもしないなんて何事かしらと驚いて見ると、サフィアお兄様が扉に寄り掛かるようにして立っていた。
「え? お、お兄様? どうしたんですか?」
驚いて尋ねたけれど、兄は無言で私とコンラートを交互に見つめただけで、返事をしなかった。
というよりも、乱暴な扉の開き方から急ぎの用事があったように思われたのだけど、兄は部屋の入り口に留まったままで、中に入ってこようともしない。
どうしたのかしら、と不思議に思っている私に向かって、兄は探るような視線を向けてきた。
「……それは誰だ?」
質問の意味が分からない。
「へ? コ、コンちゃんのことを尋ねているんですか? もちろん、お兄様の弟のコンラートですよ!」
兄は何を言っているのだと思いながらも、私は勢い込んで返事をした。
そういえば、最近、兄とコンラートは顔を合わせていなかったなと記憶を辿る。
子どもの成長は早いというけれど。
でも、実の弟が見分けられないというのは、さすがにどうなのかしら?
そう思い、兄の情のなさを非難する気持ちになっていると、兄は更なる不人情な発言をしてきた。
「私に弟はいない」
「へ?」
サフィアお兄様の言葉を聞いた私は、ぽかんと口を開けるしかなかった。