32 フリティラリア公爵の誕生祭 23
ラカーシュからは汚したドレスの代わりを用意すると言われたけれど、丁寧にお断りした。
ほほほ、末席淑女ではありますが、何の関係もない男性から衣服をいただくわけにはいきませんよ。
というよりも、ラカーシュは私の服より自分の足の心配をしてください。
どれだけ我慢強いか知りませんが、その足は絶対折れているでしょう。
そんな気持ちを込めて、ラカーシュの曲がった足を見つめると、「……君は、優しいな」と呟かれた。
いや、怪我した足を心配することは普通ですから。
おかしい、おかしい。私が普通のことをしても素敵に見える、素敵フィルターが私限定でかかりっぱなしですよ。
あまりよろしくない雰囲気を感じた私は、笑顔とともにユーリア様の待つ自室に逃げ込んだ。
待っていてくれたユーリア様には、物凄く心配された。
「ルチアーナ様! わずかな時間目を離しただけで、どうしてドレス全体が泥にまみれているのかしら! まあ、お顔もお髪も手も、全て泥だらけだわ!」
「妹は未だ幼いようだ……少なくとも、恋愛の作法を理解しないほどには。だから、童のように、泥遊びにでも興じていたのだろう」
呆れたような表情で、兄がコメントを差し挟んでくる。
どうやら、先ほどのラカーシュに対する態度に不満があるようだ。
すみませんね、及第点が取れるほど恋愛遊戯に長けていなくって。
ですが、あなたの妹が恋愛にうつつを抜かした場合、お兄様も含めた一家全員が放逐される可能性があるんですよ。
……お兄様の場合は、「それもまた人生」とか言って、楽しみそうですが。
私はユーリア様にお待たせしたことを謝罪すると、急いで手と顔を洗ってから、ドレスについた泥をぱんぱんと手で払い、汚れた髪が隠れるようにと大きなリボンで飾られた帽子を被った。
それから、部屋付きの侍女が荷物の整理をしてくれている間、3人でお茶を飲んで待っていた。
あー、おいしい。というか、私って喉が渇いていたんだわ。
そうよね、魔物と戦ったんだったわね。ああ、全身がくたくたに疲れているわ。
座ったことで疲れを自覚した私が、ゆったりとソファに深く沈み込んでいると、いつの間にかパッキングが終了したようで荷物が運ばれていった。
やっと帰る時間ですね。
私は兄とユーリア様にくっついて、玄関まで歩いて行った。
招待客の多くは既に帰ってしまった後のようで、残り数組の客人にラカーシュが言葉を掛けているところだった。
ラカーシュの立ち姿は先ほどまでと異なり、頭のてっぺんから足先まですらりと調和が取れていた。
どうやら、怪我した足を治療したようだ。
この短時間で完治しているかは怪しいところだけれど、ラカーシュの立ち姿から怪我をしている様子はうかがえなかった。
彼は上下ともに漆黒のシャツとズボンに着替えていた。
シンプルな装いではあるのだけれど、首元と手首に宝石を使ってあり、一見して高級そうな雰囲気が見て取れる。
うん、やっぱり筆頭公爵家って別格だわ、雲の上の相手だわね、と思いながら、兄とともに滞在のお礼を言う。
すると、ラカーシュは兄と握手を交わし、ユーリア様と言葉を交わした後、なぜだか半歩踏み出してきて、私の右手を両手で包み込んだ。
「へ?」
「……ルチアーナ嬢、君が私に近付かないと言うのならば、私が君に近付くことを許してほしい。私は、存外役に立つ。君にそのことを知ってほしい」
別れ際の、ラカーシュからの突然の売り込みに、私は慌てて返事をする。
「も、ももも、もちろんラカーシュ様が有能なことは存じていますわ」
ラカーシュは取った私の右手を少し強めに握りしめると、静かな声を出した。
「気高くも美しい撫子のご令嬢、……我がフリティラリアの城に滞在してくれてありがとう。君の素晴らしさを私に知らしめてくれてありがとう。君の勇気と献身に最大限の称賛をおくる」
その低めの声が、流れるような動作が、うっとりするほど麗しい。
「あの、その……」
一方、私はどうだろう。
悪役令嬢として、数多の男性をひれ伏させる役どころだというのに、あわあわと意味をなさない言葉を呟くだけで、全く洗練されていない。
王子様然としたラカーシュの相手役としては、失格もいいところだろう。
そう思うのに、肝心のラカーシュは、私がまるで彼の唯一のお姫様でもあるかのように、熱心に見つめてくる。
それから彼は、はにかむように小さく微笑むと、胸に染み入る声で囁いた。
「ルチアーナ嬢、学園で君に会えることを楽しみにしている」
……ぐふっ。
な、何か、今、射抜かれたんだけど。
こ、これは、相手が悪いわね。
血肉が通った美貌の彫像様に真っ向勝負で来られたら、多分、ほぼほぼ誰だって太刀打ちできないんじゃないかしら。
いや、もう、本当に、ラカーシュはどうしてしまったのかしら。
今まで一度だって、女性に対して能動的に働きかけたことなんてなかったはずなのに。
なのに、何だこれは。
私が思い込みが激しいタイプだったら、いや、そうでなかったとしても、……口説かれていると誤解してもやむなき言動ですよ!
私が勘違いしないでいられるのは、日本人的な控えめ思考を持っているおかげですからね。
そんな風に頭の中では饒舌な私だったけれど、実際には気の利いたセリフの一つも浮かばなかったため、ありきたりの言葉を返す。
「ごきげんよう、ラカーシュ様」
「……つれないな、君は。だが、そんなところも慎み深さが表れていて素晴らしいね」
それなのに、ラカーシュからはどこか称賛するかのように呟かれる。
……ダメだわ、私素敵フィルターがかかりっぱなしだわ。
いつ取れるのだ、これは。
そう思いながら、私はフリティラリアの城を後にした。