【SIDE】フリティラリア公爵家ラカーシュ 下
「風魔術_風花!」
ダイアンサス侯爵令嬢が魔術らしきものを唱えた瞬間、私は思わず彼女を振り返った。
恐怖で錯乱したのかと、咄嗟に思ったからだ。
魔術は生まれた時からずっと、私たちの身近にある。
その使用方法を間違えるなど、あり得ないことだった。
属性、レベルとナンバリング、魔術名の3つが一致しない限り、魔術が発動しないことなど、幼い子どもでも知っている。
その基本動作すら間違うとはと、彼女の精神状態を心配したのだが……
けれど、驚愕すべきことに、ダイアンサス侯爵令嬢が魔術の発動手順を誤ったにもかかわらず……彼女の発声に従い、風を伴った超自然的な力がその場に発生した。
ほとんど無風状態であった周囲の空気が動き出し、吹き荒れ、大気を揺らす。
―――――――これは、何だ?
突然発生した風の力が、落下しかけた魔物を再び空中に持ち上げるのを目の前にして、私は息を飲んだ。
……この力は、魔術ではない。
ダイアンサス侯爵令嬢は完全に、魔術の発動手順を誤っていた。
だから、魔術でないことは疑いようもないのだけれど。
では、この力は……?
私が必死に常識と知識をかき集め、現状を理解しようと努めている間に、件の魔物は彼女の力によって、湖に沈んでいった。
これまでの経験から、魔物が湖の底から再び這い上がってくるのだろうと暫く身構えていたけれど、2頭ともに浮かんでくることはなかった。
どれだけ湖を見つめていても、湖面が風に揺れるだけで、魔物が再び姿を現すことはなかったのだ。
……どういうことだろう?
ダイアンサス侯爵令嬢が指定した湖の赤い部分に意味があり、どういった偶然か、魔物は戦闘不能状態になったのか?
いや、しかし、その場では回避できたように見える悲劇も、結局は形を変えて襲ってくると言うのが常套で……
浮かび上がってこない魔物を不思議に思いながらも、セリアには別の形で悲劇が襲うのかもしれないと心配になる。
しかし、妹は既に城まで辿り着いているはずだ。今すぐに襲われる心配は薄いだろう。
それよりも、今気になることはダイアンサス侯爵令嬢の能力だった。
彼女が発動させたのは、魔術ではなかった。
彼女は世界と繋がらなかった。
彼女は世界から力を借りていない。
では、……どこから力を得たのだろう?
あり得ないと思いながらも、『魔法』という単語が頭をよぎる。
それは、ほとんどおとぎ話の世界だった。
魔術を使用する際には、必ず世界と接続する必要がある。
解明された原理原則に従って紐付けられた手順に従うことで、術者は世界とつながるし、その力を借りることができる。
けれど、ダイアンサス侯爵令嬢は、その原理原則に従わなかった。だとしたら……
―――可能性は1つだけ。
―――『魔法』だ。
―――魔法とは、世界に今までなかった法則を生み出す御業とされていた。
―――世界と関連付ける必要など一切ない。説明できない不思議なこと。
まさかという思いで彼女を見つめていると、彼女の兄のサフィア殿が丁寧に、『世界樹の魔法使い』の説明を始めた。
けれど、説明をされているダイアンサス侯爵令嬢は、初めて聞く話のように驚いている。
選ばれた存在である者が、己自身が選ばれていることに気付いていないということは、あるのだろうか?
そう不思議に思っていたところで、セリアが駆けてきた。
見たこともないほど泣きじゃくっている。
ああ、怖かったのだろう。多分ここが、自分が殺されるタイミングだと思い、心の底から怖かったのだろう。
抱きとめて慰めようとするが、どうも様子がおかしい。
異常なほどに興奮している。
訝しく思う私に対し、セリアは17歳の自分を視たと言い出した。
「……まさか……」
言いかけた言葉が、喉の奥で詰まる。
『運命は、覆せないものだ』
長年、自分に言い聞かせてきた言葉が蘇る。
―――運命は覆せない、―――そのはずだ。
私自身が長年懸けて証明してきた命題、ではないか。
挑んでも、足掻いても、泣き喚いたとしても、決して運命は変わらないと。
混乱し、現状を上手く把握できない私と異なり、セリアはダイアンサス侯爵令嬢に向き直ると、『先見』を視たと説明を始めた。
―――ダイアンサス侯爵令嬢の先見を視たと。
セリアは言った。
「私が視る先見は、白黒のモノクロームの世界なのです。未来の景色、未来の人々を正しく視るのだけれども、そこに色はなく、灰色の世界でしかありません。けれど、……ルチアーナ様が視えた途端、その景色が極彩色に変わったのです。……私の世界に初めて色が付き、それは、それは美しかった。だからこそ、私は気付いたのです……ああ、これが運命を切り裂く景色なのだと。ルチアーナ様は未来を変えることができるのだと」
その言葉を聞いた瞬間、すとんと答えが胸に落ちた。
……ああ、そうなのか。
やはり、ダイアンサス侯爵令嬢は、『世界樹の魔法使い』なのかと。
本人に自覚がなくとも。
彼女が行使しているのは世界の理の外にある力で、だからこそ変えられない運命に干渉することができるのだ。
たとえ力がなくとも、他者を救おうとした尊ぶべき心根のご令嬢は、真に尊ぶべき力の所有者であったのだ。
『世界樹の魔法使い』
―――それは世界で一人だけの、運命を変えることができる者の呼称だった。