24 フリティラリア公爵の誕生祭 15
「お、お、おにいじゃま―――、おにいざま―――!! ざま―――!!」
涙でぐちゃぐちゃの顔をしたセリアは、転びそうな勢いで走ってきた。
つい先ほど、魔物から逃げるために必死で走って行った同じ道を、逃げた時と同じくらいの速さで戻ってくる。
普段はつんと取り澄ましていた表情も、眉がへにょりと下がり、困り切ったような表情になっていた。
セリアは走ってきた勢いのまま、どしんとラカーシュに体当たりする。
「……っ」
ラカーシュは僅かに顔を歪めると、喉の奥で声を噛み殺した。
そこで初めて思い出したけれど、戦闘中にラカーシュの足は、不自然に曲がっていたのだった。
そして、現時点のラカーシュは姿勢よく直立してはいるものの、よく見ると片足がおかしな方向にねじ曲がっている。
……え、まって。まさか、これは足が折れているんじゃないんでしょうね?
だって、あの後もラカーシュは全力で走ったりしていたわよね。少なくとも、私が走るよりもずっと早く走れていたわ。
えええ、人間って酷い怪我をしたまま走れるものかしら?
そう思ってまじまじと見ていると、横から兄が陽気な声を上げた。
「やあ、やっと痛覚が戻ってきたようだな。先ほどまでのラカーシュ殿は、鬼気迫る勢いがあった。公爵家の嫡子ともあろう者が、勝算の低い戦いに正面から挑むなんて普通じゃない。挑むべきやんごとなき理由があったのだろう。そして、その理由は、骨折の痛みを麻痺させるくらいには、深刻だったのだろうなぁ」
まるで他人事のように言っているけれども、お兄様、あなたも由緒正しき侯爵家の嫡男ですからね。
公爵家には劣りますが、十分、誰もが認める上位貴族ですから。
そして、お兄様にはやんごとなき理由など一切、ありませんでしたからね。
……偽悪的なところがある兄なので、こんなことを言ったら不愉快そうな表情をされるだろうけれど、お兄様こそが「正義の味方」なのじゃないかしら。
心の中でこそりとそう考える。
そして、それぞれ理由は異なるものの、呆れた思いでラカーシュと兄を交互に眺めやった。
そんな私の目の前で、セリアはまるで幼子のように声を上げて泣き始めた。
「ふあああああああ、おにいじゃまああああ―――!!」
ぎゅうぎゅうとラカーシュの胸元に顔を押し付けると、わあわあと大声を上げる。
ラカーシュは庇護すべき幼い子どもを見るような表情で妹を見つめると、低い声で話しかけた。
「怖かったな、セリア。だが、安心しろ。あの魔物は湖の底に沈んで、2度と浮上してはこない。お前があの魔物に襲われることは2度とないのだ。同様に、どんな魔物が襲ってきたとしても、私が必ず退けよう。……お前は無事だ」
「ちが、ちが、ちが……」
「うん? 違わないよ。必ず私が守るから、お前は大丈夫だ」
こんな優しい声が出せるのかと思うような声で、ラカーシュは妹に語り掛けていた。
けれど、一方のセリアは兄の腕の中でぶんぶんと激しく首を横に振った。
「ちが、ちが、ちが……ち、違うんです。おにいじゃま……」
「何が違うんだ?」
セリアは落ち着こうと大きく数回深呼吸を繰り返した後、途切れ途切れながらも一生懸命といった様子で語り出した。
「先ほど……魔物から逃げようと、城に向かって走っている時、慌てていたため足がもつれて、転んだんです。そうしたら、そのタイミングで『先見』の力が発動して……おに、おにいじゃまが、転んでいる私に手を差し伸べてくれた未来が視えたのです!」
「……そうか。もちろん、転んでいる妹を前にしたら、手を差し伸べるだろうな」
淡々とそう答えるラカーシュに対して、セリアは否定するかのようにぶんぶんと首を横に振った。
「そうではなくて! それから、おにいざまは言ったのです。……『信じられないな。自分の卒園式で転ぶなんて』って……!」
セリアの言葉を聞いたラカーシュは、瞬間的に氷漬けにでもなったかのように固まった。
かと思うと、数瞬後には、セリアの肩に置いていた手が小刻みに震え出す。
「……まさか……」
それだけつぶやくと、ラカーシュは絶句した。
セリアの目からは新たな涙が次々に零れ始め、号泣し始める。
「わあああああん。おにいじゃまあああ。私、学園をそづえんできるんですわああああ」
本格的に泣き出したセリアを前に、私はそっと目を逸らした。
ラカーシュとセリアが他人には分からない会話を交わし始めたので、聞いてはいけないものを聞いているような居心地の悪さを感じたのだ。
特に、先見うんぬんの話については、完全に秘匿情報だと思う。
兄が先日さらりと話していたので、ラカーシュの一族にその稀有な能力が引き継がれていることは開示情報だろうけれども、セリアがその稀なる能力の担い手であることは聞いたことがなかった。
多分、こちらは外に出していない情報だと思われる。
けれど、兄は全く平気なようで、興味深げな表情で堂々と2人を見つめていた。
私はそんな兄に躙り寄ると、こそこそと小さな声で話しかける。
「お兄様、ラカーシュ様たちはお取込み中のようですから、ここら辺りでお暇するのはどうでしょう? ユーリア様をあまりお待たせするわけにもいきませんし」
「む、その通りだな」
私の言葉に軽く目を見張った兄を見て、ほっと胸を撫でおろす。
……よ、よかった。
兄が何よりも女性を優先するタイプで。
私のことを追及したい気持ちはあるのだろうけど、お兄様はきっとユーリア様への礼儀を優先するわ。
果たしてそう考える私の予想通り、兄はラカーシュとセリアに向き直ると声を掛けた。
「ラカーシュ殿、セリア嬢、滞在中は色々とおもてなしいただき感謝する。我々はこれにてお暇する。では、また学園にて」
兄の声にはっとしたように振り向いたセリアに対して、私は可能な限り優し気な表情を作ると、軽く頭を下げた。
どさくさに紛れて、これにて解放してもらおうと思った私の浅知恵だ。
けれど、浅知恵というのはどこまでも浅知恵で。
結局、上手くいくことはないのだ。
実際、全く想定外なことに、これで逃げられると思った私の予想を裏切って、セリアはラカーシュをあっさり振り切ると、私の腕の中に飛び込んできた。
「へ?」
それこそ意味が分からない。
セリアは私を邪魔者だと思っていたのではなかったか。
けれど、セリアはぎゅうぎゅうと今度は私に縋りつくと、泣きながらお礼を言ってきた。
「ルチアーナさまあああああ! ありがとうございます! ありがとうございます! ありがとうございますうううう!!」
「え……と、セリア様?」
「ルチアーナ様のおかげで、私は定められていた死の運命から逃れることができたんですううう!!」
セリアの言っている意味が分からない。
けれど、ぽかんとしている私に向かって、今度はラカーシュまでもがお礼を言ってきた。
「ダイアンサス侯爵令嬢、あなたの行為に心から感謝する」
……一体、何についてでしょうか??
私は思いっきり首を傾げた。
あまりに理解できなさすぎて、理解している表情を繕うことを放棄する。
そして、私の表情通り、頭の中では多くの?マークが飛び交っていた。