164 聖山 1
「はあ、はあ、はあ、さ、さすが聖山。思っていた以上に険しいわね。こ、これは私の体力の方が先に尽きそうだわ」
私は足を止め、目の前にそびえ立つ聖山を見上げると、ぜえぜえと荒い息を吐きながら独り言ちた。
そんな私の後ろでは、ラカーシュが心配そうに私を見つめていた。
―――ラカーシュとともに聖山を登ろうと決意したところまではよかったけれど、実際に登ってみると、聖山は思っていた以上に険しい山だった。
見た目よりも傾斜がきつかったので、ほんのわずかの距離を歩いただけで息が切れてしまう。
聖獣である不死鳥は山の頂上に棲んでいるので、辿り着くまで何日もかかるわねと絶望的な気持ちになりながら、私はラカーシュを振り返った。
「ラカーシュ様、思っていた以上に険しい山道ですが、もう少しだけ登ってもいいですか?」
私が貴族令嬢であるように、ラカーシュも貴族令息であることに気を遣っての、「大丈夫ですか?」的な質問だったけれど、彼は全く平気な様子で頷いた。
「構わないが……私は十分新鮮な空気を吸い込んだから、気分はすっきりしていると言っておく」
それは、私がラカーシュをこの聖山に誘った時のセリフの引用だった。
つまり、ラカーシュは新鮮な空気を吸うという目的を果たしたから、すぐに下山しても問題はないと暗に言っているのだ。
あれあれ、私が彼の体調に気を遣ったつもりだったのに、逆に気を遣われてしまったわよ。
私はそれほど疲れているように見えるのかしら、と考える側から、自分のぜーぜーとした荒い呼吸が聞こえてくる。
……ええ、自分自身でも疲れて見えるわね。
そう思いながらも、悪役令嬢としてこれしきのことで弱音は吐けないわと考え、「ラカーシュ様が大丈夫のようでしたら、もう少し登りますね!」と空元気を発揮し、再び聖山を登り始める。
兄の腕を治してもらうためにわざわざ聖山まで来たのだから、少しでも聖獣に近付くヒントを探すことが私の役割だわ、と思いながら。
けれど、そんな意気込みも空しく、黙々と山を登り続けて1時間後、少し開けた場所に出たのをきっかけに、もう限界だと私は足を止めた。
突然立ち止まったのが悪かったのか、ふらりとよろけてしまったけれど、咄嗟に2本の腕が伸びてきて、しっかりと支えられる。ラカーシュだ。
全身汗びっしょりだったため、こんな体に接近されるのはいかがなものかと思ったけれど、山に登った時点で今さらよねと開き直る。
「あ、ありがとうございます」
振り返ってお礼を言ったけれど、私を支えてくれたラカーシュは、私と違って全く息が切れておらず、疲労しているようには見えなかった。
それどころか、接近されたことで、ラカーシュが身に付けている清々しいパルファンの香りが漂ってきて、こんな山の中でまで優雅でいられることを不思議に思う。
ううう、私は息も絶え絶えだと言うのに、一方のラカーシュは爽やかな状態だなんて、一体どうなっているのかしら。
「くっ、これが基礎体力の違いなのね……」
現実は残酷だわと思いながら、そう口にしたけれど、ラカーシュはそうではないと首を横に振った。
「いや、基礎体力を比較するならば、私と君との間にはもっと大きな開きがあるはずだ。君の体力で、このペースでここまで登ってきたのだから、大したものだと驚いていたところだ」
「え、そ、そうですか? あ、ありがとうございます」
褒められているのかは不明だったけれど、はーはーと荒い呼吸の合間にお礼を言うと、ラカーシュは小さく頷いた。
それから、ボディバックの中から布製のシートを取り出して木陰に敷くと、その上に座るよう促してくる。
さすが、ラカーシュ。素晴らしい準備のよさね。
私はもう1度お礼を言うと、よろよろとよろめきながらシートに座り込んだ。
それから、小さなハンカチーフでしたたる汗を拭っていると、ラカーシュがタオルを差し出してきた。
「ルチアーナ嬢、よかったら使ってくれ」
「あ、ありがとうございます」
ラカーシュの準備の良さに感心すると同時に、手ぶらで来た自分の準備の悪さを情けなく思う。
ちょっと試しに登ってみるつもりだったにしても、ポケットに最低限のものを詰め込んだだけで来たのは間違いだったわ。
ラカーシュが付いてきてくれて、本当に助かった。
そう考えている間に、今度は冷たい水が差し出される。
「うう……ラカーシュ様は本当に準備がいいですね。何から何までありがとうございます」
情けない思いでお礼を言うと、なぜだかラカーシュはふっと微笑んだ。
「君は侯爵令嬢だよ。世話をされて当然という顔をしておくべき立場なのに、1つ1つ丁寧にお礼を言うなんて」
「それを言うならば、ラカーシュ様こそ公爵令息ではないですか。しかも筆頭公爵家の令息なのですから、どちらかと言うと、私の方がお世話をする立場ですわ」
大真面目にそう返すと、なぜだか楽しそうに噴き出された。
「ふはっ、……と、失礼」
けれど、ラカーシュはすぐに笑いを収めると、誤魔化すように咳払いをした。
それから、楽しそうな表情のまま言葉を続ける。
「ルチアーナ嬢は本当に斬新な考え方を持っているね。侯爵令嬢が誰かの世話をしようなどと、どんな状況になったとしても、普通であれば、そんな発想は浮かびもしないよ」
確かにラカーシュの言う通りかもしれないけれど、私は前世が庶民だった侯爵令嬢だからね。
むしろお世話をされる立場の方に、未だに慣れないのよね。
「そんなものですかね。いえ、そんなことより……ラカーシュ様は声を上げて笑うんですね! びっくりしました」
私にとっては、ラカーシュの笑い声の方が一大事だったため、そのことを話題にすると、彼自身も素直に肯定した。
「そうだな。声を上げて笑ったことに、私自身も驚いた。そして、これまでの自分を思い返してみて、笑い声すら上げない生活を送っていたことに初めて気が付いた。なるほど、私は非常に無味乾燥な生活を送っていたのだと理解したよ」
「えっ」
そう言われてみれば、ゲームの中でも、声を上げて笑うラカーシュは見たことがなかった。
ストイックだとは思っていたけれど、人前だけではなく、プライベートな時間ですら、笑い声を上げない生活を送っているのだろうか。
そこまでとは思わなかったため、びっくりして目を丸くすると、ラカーシュは自嘲の笑みを浮かべた。
「これまでの私は、綺麗に整えられた環境の中で、問題のない生活を送ってきた。それはとても快適で効率的だが……面白くもなければ、趣もないものだった」
「そうかもしれないですね」
ラカーシュの言葉が納得できるものだったので、うんうんと頷く。
彼は筆頭公爵家の嫡子なのだ。いつだって全てのものが、彼のために最上級の状態で整えられているはずだ。
ラカーシュは唇を歪めたまま言葉を続ける。
「感情が表れない私の無表情を指して、『彫像』と呼ばれていることは知っている。だが、そもそも私の感情は動きにくいのだ。稀に動いたとしても、表情に表れることはほとんどない」
今度の言葉も納得できるものだったので、うんうんうんと頷く。
「それは分かる気がします。ラカーシュ様は全てが整えられた環境で生活していたうえ、能力が高くて何でもさらりとできてしまうので、感情が波打つことがあまりなかったのかもしれませんね。さらに、高位貴族として感情をそのまま表情に表さない教育を受けてきたため、その影響もあったでしょうし。でも……」
私はラカーシュを見上げると、にこりと笑いかけた。
「笑うと楽しいですよね! それから、涙を流すとすっきりしますよ! それに、ラカーシュ様の周りにいる人たちは、あなたが何を感じているのかを知りたいはずなので、感情を表したら嬉しくなるはずです。私だって、先ほどラカーシュ様が笑われた時は、嬉しかったですから」
ラカーシュはしばらく私の顔を無言で見つめた後、ぐっと拳を握りしめた。
「君は……本当に、全てが無自覚だな。いくばくかの付き合いがあるからこそ、何の底意もなく発言したことを理解できているが、よくそんな生活を送ってきて、今まで無事だったものだ」
「えっ?」
ラカーシュの言葉の意味が理解できなかったため、尋ねるように彼を見つめる。
けれど、ラカーシュはそれ以上説明してくれなかったため、自分で自分の言動を思い返してみた。
……私は今、何か危険が及ぶような行動をしたかしら?
ラカーシュと話をしていただけなので、もちろん何もしていない。
そのため、彼は何か誤解しているのかもしれないと考えていると、ラカーシュは小声でぼそりと呟いた。
「いや、無事だったかどうかは分からないな」
「はい?」
自分の考えに夢中になっていて、ラカーシュの言葉を聞き取れなかったので聞き返すと、彼は真剣な表情を浮かべていた。
「ねえ、ルチアーナ嬢、私はずっと収穫祭のイベントについて、1つ尋ねたいことがあったのだ」
その表情を見た途端、『あっ、これはよくない質問だわ』と悟ったけれど、……人が滅多に足を踏み入れない山の中、ラカーシュと向かい合って座っている私に、逃げるすべがあるようには思われなかった。