16 フリティラリア公爵の誕生祭 7
「なに、この煙……」
四方から迫ってくる紫色の煙を見た途端、理由もなく背筋にぞっとしたものを感じる。
私のつぶやきを拾ったラカーシュは不思議そうに軽く眉根を寄せた。
「煙……?」
まるでこの不自然な紫色の煙が目に入っていないかのような言葉だった。
普段ならば、そんなラカーシュに違和感を覚えるところだけれど、その時の私はそれどころではなかった。
紫色の煙が一方の壁に薄く膜を張り始めるのを、瞬きもせずに見つめていたのだ。
その光景が心底おぞましく感じられ、背中を汗が滴り落ちていく。
「ダイアンサス侯爵令嬢?」
必死な表情で一方の壁を凝視し始めた私を不審に思ったようで、ラカーシュが訝し気な声を掛けてくる。
けれど、私はとても振り返ることなどできなかった。
肉食獣を目の前にして、背中を向けた途端に襲い掛かられるような恐怖を目の前の壁に感じていたからだ。
―――その壁には、緑色の双頭の蛇の絵が描かれていた。
後から聞いた話によると、それはフリティラリア公爵家のいずれかの者が退治した魔物の絵だという。
先祖の武勇を伝えるために、地下の各部屋の壁には、公爵家に連なる者が退治した魔物の絵がそこここと描いてあるとのことだった。
恐怖とともにその絵を見つめていると、蛇の黒い瞳がぎらりと光った気がした。
「え……っ?」
思わず声を上げる。
―――瞬間、轟音とともに蛇の絵が描かれていた壁が崩れ落ちた。
「きゃああああああああああ!!」
セリアの叫び声は、壁が崩れたことによるものか、それとも、壁から現れ出でたモノによるものか。
叫びながら膝から崩れ落ちるセリアに対して、ラカーシュも私も動かなかった。
動けなかった、が正しいのかもしれないけれど、叫び声と轟音が鳴り響く中、ただ崩れ落ちる壁を一心に見つめていた。
―――崩れ落ちた瓦礫の間にいる、見上げる程に大きい双頭の蛇の魔物を。
その双頭の蛇はとぐろをまいて鎌首をもたげていたけれど、もたげられた双頭の頭が私の頭よりも高い位置にあった。
はっはっと不自然な浅い呼吸が、私の口から洩れる。
一言で言うならば、恐怖だった。
ギロリとした魔物特有の黒い瞳が、一番近い距離にいる私をひたりと見つめている。
その無機質な瞳に睨まれると、四肢を縛られたように身動きが取れなくなる。
そして、一瞬にして力関係を悟った。
双頭の蛇が捕食者で、私が被食者だと。
がくがくと体が震え出し、魔術を使って抵抗しようという行為に結びつかない。
指一本動かせないうちに私はこの蛇に食べられるだろうと、最悪の想定しかできないでいた私の耳に、普段通りの冷ややかな声が入った。
「なるほど。壁の絵を媒介に同種の魔物を転移させたか。これは……面白いことを考える」
言いながら、ラカーシュは身に着けていた白い手袋を外して床に打ち捨てた。
それから、まるでオーケストラの指揮でもするかのように、優雅に両手を掲げる。
「魔術陣顕現!」
ラカーシュの言葉とともに、半径2メートルほどの黒い魔術陣が、ラカーシュを中心とした彼の足元に浮かび上がった。
「火魔術 <初の2> 火矢!」
それから、流れるような動作で右手を構えると、双頭の蛇に向かって魔術の矢を放つ。
炎の矢はまっすぐにラカーシュの手から双頭の蛇に向かって飛んでいき、蛇の鱗を焦がした。
「……なるほど。鱗を飛ばしもしないか。さすがに高レベルの双頭緑蛇なだけはある」
ラカーシュは淡々と事実を確認すると、再度、右手を構える。
「火魔術 <修の2> 炎燃槍!」
―――それは、学生にはとても使用できないだろうと思われる中級魔術だった。
魔術は、大きく3つに分類される。
初級魔術の<初>、中級魔術の<修>、上級魔術の<威>だ。
その3分類に区別されたうえで、火、風、土、水といった属性ごとに分けられナンバリングされる。
たとえば、『火魔術<初の1>』といった場合、『火属性の初級魔術、ナンバー1』ということだ。
ナンバリングはその技が魔術として世界と関連付けられ、整理された順に採番されたもので、威力とは無関係だ。
威力は<初>、<修>、<威>の3分類でのみ識別される。
そして、学園で学ぶ魔術はあくまで<初>の範囲であり、それだって卒業までに全てを習得できる生徒などほんの一握りだった。
にもかかわらず、ラカーシュは当然の顔をして中級魔術を発動させた。
ラカーシュの右手から発せられた赤々と燃える炎の槍が、双頭緑蛇の喉元目掛けて突き刺さる。
―――が、その炎の槍は魔物の鱗を幾らか散らしはしたものの、体の反対側から抜けていくことはなかった。
「……固いな。中級魔術で貫通もしないか」
ラカーシュは僅かに目を眇めると、淡々と言葉を発した。
私は喉の奥で恐怖の叫び声を飲み込む。
……ああ、私にはこの魔物のランクは分からないけれど、中級魔術でも歯が立たないなんて、上位の魔物に違いない。
5メートルほどの前方で鎌首をもたげている双頭緑蛇は体が大きく、一つ一つの鱗がてらてらと恐ろしくも美しく輝いている。
それは何十年も生き延びて大きく成長した、狡猾で抜け目のない魔物の証だった。
双頭緑蛇は一つの頭をラカーシュに向けはしたものの、もう一つの頭は変わらず私を見つめ続けていた。
その口が割れ、長い二股の舌が顔を出す。
チロチロと赤い舌を出して私の位置を確認すると、舌を出したまま頭を動かし、私を正面から睨みつけてきた。
その瞬間、私は恐怖でどうしようもなくなり、硬直していたはずの両手を何とか前に突き出すと、唯一使える魔術を行使した。
「ひ、……火魔術 <初の1> 火球!」
後から考えれば、動揺しており、魔術陣の展開もなく行使した魔術にどれほどの威力があるのだろうと冷静に判断できるのだけれど、その時は恐怖のあまり、出来得るべき攻撃を行うことしか頭になかった。
そもそも魔術とは、魔力をエネルギーとして術式を発動させるものである。
そして、私の魔力は上級貴族としては信じられないほど少ない。
私が発動させた火の球は、ゆっくりとしたスピードで魔物に向かっていったけれど、魔物の横を通り過ぎて後ろの壁に当たって弾けた。
「………はぁ、はぁ、はぁ」
けれど、私はその1発で息が上がってしまい、それ以上の魔術を行使できるようには思えなかった。







