107 虹樹海 9
私の声を聞いた瞬間、ルイスははっとしたように私を見た。
なぜなら彼だけが私が口にした和歌を耳にしており、『藤波』という単語に聞き覚えがあったからだ。
魔術を発動するためには、従うべきルールがある。
属性、レベルとナンバリング、魔術名の3つが一致しなければならず、1つでも間違うと魔術は発動しない。
なぜなら、その3つは強固に魔術の技と結び付いているからだ。
だから、恐らく、魔法にも似たようなルールがあるのではないかと私は考えた。
魔法名はその現象と結びついており、そのつながりが強いほど強力な魔法が発動するのではないか、……と。あくまで私の推測だけれど。
だから、ウィステリア公爵家の藤を思った時、ルイスを考えた時に浮かぶ情景と、最も強く結びついているであろう単語を口にした。
できるだけコンラートと―――ダリルと強く結びつくことができるように。
果たして、私の願いが通じたのか、私の手のひらから発生した風は、ルイスの魔術陣に絡みついていた藤の花をさらりと優しく揺らした。
発生したのは頬にゆるやかな空気の動きを感じる程度の軽風であったけれど、その風に触れた途端、藤が一斉にその花を散らし始める。
はらはらと藤の花は次々に散っていき、風に舞い上がり、あっという間に世界樹の元まで運ばれると、その大きな一枝にびっしりと張り付いた。
―――あたかも、世界樹に紫の花が咲いたかのように。
けれど、真に幻想的なのはそこからだった。
濃淡のある紫の光が、きらきらと世界樹に咲いた藤の花の周りで輝き始めたのだから。
―――濃い霧がかかる白一面の世界の中、神々しさすら感じさせる威容をうっすらと露にしている巨樹。
そして、その巨樹の一枝に美しい紫の花がびっしりと咲き、きらきらとした光がその花を輝かせているのだ。
それはまるで、右も左も分からない混沌とした空間で、ただ1つだけの正しさを示す選ばれた存在のように思われた。
誰もが言葉を失って見とれていると、そのきらきらとした輝きは、世界樹に咲いた藤の花とともに風に運ばれ、再び私の元へ戻ってきた。
そして、光り輝く花々は、ひらりひらりと私の上に舞い落ちた。私が抱いていたコンラートの上にも。
―――瞬間、コンラートはふわりと浮き上がり、体が膨れ上がったかと思うと、―――まるで魔法にでもかかったかのように、うさぎの様な姿から人間の姿に変化した。
同時に意識もはっきりと戻ったようで、しっかりと自分の足で私の前に立つ。
その際、コンラートの片眼から赤色の塊が零れ、もう用は成したとばかりに地面に落ちた。
何が零れ落ちたのかしらと気になったけれど、コンラートの姿を見た途端、違和感を覚えて意識を持っていかれる。
「あ、あれ、……コンちゃん、だよね?」
なぜなら明らかにコンラートの背が伸びていて、顔立ちからも幼さが少し失われていたからだ。
「お姉様、僕のことを忘れちゃったの?」
発せられた声からも、3歳児の幼さが消えている。
何が起こったのか分からず、ぱちぱちと瞬きを繰り返す私の前に立っているのは―――どうみても3歳児ではなく、5~6歳の男の子に見えた。
「「ダリル!!」」
そして、コンラートを目にした瞬間、ジョシュア師団長とルイスが驚きの声を上げた。
「え?」
コンラートが不思議そうな声を上げるのと、師団長とルイスが彼の目の前で地面に膝をつき、コンラートにがばりと抱き着いたのは同時だった。
「え? え? えええ??」
何が起こったか分からずに目を白黒させるコンラートに対して、ルイスはぼろぼろと涙を零し始めた。
「おとぎ……話は…………、ウィステリア公爵家のおとぎ話は、……本当だったんだ」
「えっ? あの………」
助けを求めるかのようにジョシュア師団長を見上げたコンラートだったけれど、―――どういうわけか、師団長の頬にも一筋の涙が流れていた。
「ふふ、ふ……ダリル、ああ、ダリルだ。再びお前に会えるとは、信じられないな」
ジョシュア師団長は血のつながった兄弟を相手にするかのように、遠慮のない態度でコンラートの両頬を掴むと、存在を確かめるかのようにその頬を撫でた。
それから、感極まったように喉を震わせた後、感情を抑え込むかのようにぐいっと唇を歪めた。
「ダリル……ダリル・ウィステリア。よく戻ってきた」
師団長の言葉は今まで聞いた彼の声の中で1番優しく、甘やかすようで、……誰が聞いてもダリルへの愛情が伝わるものだった。
そのため、コンラートは何が起こっているか全く理解していない様子だけれど、……それでも、感じ取れたジョシュア師団長とルイスの愛情に反応し―――小さな子どもらしく、ぼろぼろと涙を流したのだった。