106 虹樹海 8
絶体絶命とはこのことだろう。
私は目の前に浮かぶ笑顔の東星を見つめながら、そう考えた。
この森は思っていたより何倍も東星に利するのだ。
だからこそ、先ほどは東星を圧倒していた兄が、この場所で東星に押されている。
それどころか、ジョシュア師団長、ラカーシュといった実力のある魔術師たちが束になっても活路を見出せていない。
……ああ、私に魔法使いの力があるならば、今すぐにでも東星の望みを叶え、世界樹を元気にするというのに。
けれど、ここまで追い込まれた今ですら、私は自分が魔法使いだとは思えなくて、何をすべきかも分からなかった。
皆を助ける力がほしい、と思う。
魔法使いになることで皆を助けられるのならば、なりたいと思う。
けれど、私は悪役令嬢で、そのような大層な存在では決してないのだ。
だったらせめて、悪役令嬢らしく堂々と振る舞わないと。
私は背筋を伸ばすと、できるだけ自信に満ちた表情を作った。
「―――分かりました。でしたら、お望み通り世界樹を元気にする魔法を行使しましょう」
「魔法使いちゃん!」
途端に喜びの声を上げる東星をたしなめるように、私は言葉をかぶせる。
「けれど! 私はあなたを信用していないから、先に私以外の全員をこの場から転移させてください。私が魔法を披露するのはそれからです」
「分かったわ! それくらい簡単……」
「いやーあ、ルチアーナ、それはどうだろう。少なくともこれほど色々とお前に協力してきた私くらいはこの場に残り、お前の魔法を確認してもいいだろう」
東星は喜びの声を上げ、簡単に私の話に乗ってきたというのに、どういう訳か兄が東星の言葉を遮るように言葉を差し挟んできた。
兄の意図が分からず眉を寄せていると、ラカーシュが兄に追従する。
「だとしたら、私も残らせてもらおう。私だとてサフィア殿と同様、1番初めに君の魔法を目にしたのだから、それがどのように成長しているのかを見定めたいからな」
ラカーシュの一歩も譲らない表情を目にし、……あれ、もしかして私の魔法を行使するという言葉がはったりだと気付かれているのかしら、と思い至る。
だからこそ、ラカーシュは紳士としてこの場に残り、私を守ろうとしているのだろうか。
……ということは、お兄様にもバレている?
速攻で見破られるなんて演技が未熟だったのかしら、と俯いて反省していると、ジョシュア師団長が腹立たし気な声を上げた。
「何を自分たちだけ抜け駆けしようとしているんだ! この国で魔術について最も詳しくあるべき者は、魔術師団長である私だろう! お前たちが残るのならば、私にもその権利がある」
え、いやいや、皆さん何を張り合っているんですか。
本道から外れてはいけませんよ。一人でも多く、この森を脱出することが目的だったはずです。
けれど、私の思いとは裏腹に、最後にルイスが皆の言葉をまとめるかのように発言した。
「さっきも言ったけれど、ルチアーナ嬢と一緒じゃなければ、僕はこの場を離れないよ」
……何よ。何なのだ。
ちょっとした余興とかでは全くなく、命の懸かった場面だというのに、どうして誰もが私とこの場に残ると発言するのだ。
これでは、悪役令嬢としての立場が台無しじゃあないか。
「でも、私……、私は………」
何か言わなければと口を開いた私に対して、兄が楽しそうに笑い声を上げた。
「うむ、ぜひ、私たちにお前の魔法を披露してくれ。だが、まだ魔法の準備が出来ていないというのならば、まずは私たちの魔術から披露させてもらおうか。ルチアーナ、カドレアの気を逸らして、立ち位置を変える時間を稼ぐなんて、お前にしては悪くない機転だ」
「え?」
兄の言葉に驚いて周りを見回すと、いつのまにか私を庇うかのように兄、ラカーシュ、ジョシュア師団長、ルイスが立ち塞がっていた。
ダイアンサス侯爵家、フリティラリア公爵家、ウィステリア公爵家といった、いずれ劣らぬ王国の大貴族たちが、私を守るためにその高貴な自分自身を危険に晒しているのだ。
「……信じられないことだわ」
私は小さく呟いた。
「ここには紳士しかいないのかしら」
「「「「その通りですよ、ご令嬢」」」」
4人は声を揃えてそう答えると、東星に対して魔術発動の構えを取った。
……ああ、何て素敵な紳士たちだろう。
こんな4人のためならば、私は何だってできるだろうに。
そう思った瞬間、体の中心にぽつりと火が灯ったかのような感覚が走った。
何かしら、と自分の胸元を見つめてみるけれど、何一つ変わりはなく、けれど、今度は、ぶわりと藤の花の香りに包まれたような感覚を味わう。
そう、先ほどからずっと、どういう訳かルイスから藤の香りがしていて……。
そう考えていたところ、正にそのルイスが声を上げた。
「魔術陣顕現!」
その言葉とともに、ルイスの足元に半径2メートルほどの藤色の魔術陣が浮かび上がってきた。
その滅多にない美しい色を見た瞬間、かちりと最後のピースがはまったような感覚に襲われる。
かちりかちりと頭の中が整理され、既に入手していた情報の中から、必要なものだけを選び取っていく感覚が体中を巡る。
……ああ、そうだわ。ルイスはダリルと双子だったのだから……。
「……ジョシュア師団長」
「どうした?」
声を掛けるとすぐに、師団長が返事をしてくれた。
「ルイスの魔術陣に、藤の花を付加することはできますか?」
私の質問を聞いたジョシュア師団長は真顔になると、真意を確認するかのように見つめてきた。
けれど、私が憑かれたように一心に、ルイスの足元の魔術陣を見ていることに気付くと、「やってみよう」とだけ短く答える。
それから、ルイスに声を掛けた。
「ルイス、私の魔力に同調しろ」
ジョシュア師団長は魔術陣の上に乗ると、複雑に指を組み合わせた。
「補助魔術 <威の1> 術式附与!」
師団長の声に合わせるかのように、大地に定着していたはずの魔術陣が再び淡い光を放ち始める。
「ルイス、私に合わせろ」
ジョシュア師団長はそう言うと、右手の甲に描かれた藤の紋を、同じくルイスの右手の甲に描かれた藤の紋に重ねた。
それから、ジョシュア師団長とルイスは声を合わせて呪文を口にする。
「「ウィステリア附与!」」
―――瞬間、ルイスが展開した魔術陣から、藤のつるがするすると伸びてきた。
それらのつるは魔術陣に絡みつくと、さらに上方に伸びていき、葉を茂らせ、あっという間に見上げるほどの高い位置から長い穂のような花序を垂れ下げた。
その見事な花を見て、ほっと溜息が零れる。
……ああ、私にとっては見たこともない魔術だったけれど、やはりジョシュア師団長にとっては既知の魔術で、行使方法を分かっていたのだわ。
兄が自分の魔術陣に撫子の花を咲かせた時、ジョシュア師団長だけはちっとも驚いていなかったため、そうではないかと思っていたのだ。
私は自分の推測が当たっていたことにほっと胸を撫でおろすと、まるで波打つように風になびいている藤を見上げた。
非常に緊迫している状況だというのに、美しいと思う。
そして、ルイスと初めて出逢った時も、このように美しい藤の下だったことを思い出した。
―――あの時の私は、お気に入りの万葉集の一首を口にしていた。
『かくしてぞ 人は死ぬといふ 藤波の ただ一目のみ 見し人ゆゑに』
(藤のように美しいあの人をただ一目見ただけなのに、こんな風に恋焦がれたまま、人は死んでいくのだ)
そして、その歌を聞いたルイスは、心を揺さぶられたかのように涙を流したのだ。
『藤が風に吹かれる様子を「藤波」と、波のように揺れ動く様だと表現したところが秀逸だ。……そうだね、もう一度愛しい人に会いたいと思いながらも、結局は叶わずに死んでいくものなのだね』
あの時は分からなかったけれど、今思えば、ルイスは私の歌を聞いて、双子の弟のダリルを思い出していたに違いない。
そして、ダリルに逢いたいと、懐古の涙を流したのだ。
私はその時のことを思い出しながら、腕の中に抱いているコンラートを見下ろした。
コンラートは意識を失った青紫色のうさぎ様の姿で、耳と尻尾がぐったりと力なく下がっていた。
その弱り切った様子に、一刻の猶予もないと思いながらも、美しい色合いに一瞬見とれてしまう。
そして、コンラートの色合いは確かに、藤色のようでもあるなと初めて納得した。
―――ああ、コンラートは本当に、ウィステリア公爵家の一員なのかもしれない。
藤色の髪をしたウィステリア公爵家の四男、ダリル・ウィステリアであるのかも……。
だとしたら、私は正しくコンラートのやりたいことをやらせてあげなければいけない。
そう考えながら、私は腕の中のコンラートを片手で抱え直すと、もう片方の手を魔術陣に向かって伸ばした。
「風魔術_藤波!」