102 虹樹海 4
魔法を披露しろと言われても、私が過去に使用した魔法もどきは『風花』1つだけだ。
ということは、もう一度『風花』を試してみるべきなのだろうか。
明らかに間違っている気もしたけれど、『風花』の術名に『花』と付いていることに思い至り、もしかしたら上手くいくかもしれないと思う。
実際に発動できるかは不明だけれど、試してみようかしらと考えていると、ラカーシュから遠慮がちに声を掛けられた。
「……ルチアーナ嬢、知っていると思うが、『風花』は晴天時に降る雪のことだ」
「へっ!? 『花』なのに花ではなく、雪のことですか? あっ、そういえば前回、『風花』は雪魔術だと指摘されたような……あっ、ありがとうございました。知らなかったので、大変助かりました」
ラカーシュは本当に物知りだわ、と感心しながらお礼を言う。
けれど、一方で、これはまずいわねと内心で焦る気持ちが湧いてきた。
なぜならラカーシュの指摘で、私が唯一行使できたかもしれない魔法もどきが適当ではないと判明し、披露できる魔法がゼロになってしまったからだ。
一体どうすればいいのかしら。
……と、困って首を傾げたその時、―――突然、辺り一面に轟音が響き渡った。
どがん! という激しい音に振り返ると、世界樹の枝が一本崩れ落ちていくのが見えた。
大きく立派な一枝が幹近くから枯れ落ちて、地面に落ちていく様子が霧の中に確認できる。
勿論、枝とはいっても、その枝自体が普通の巨木一本分に相当するような大きさだった。
失ってはいけないものを失くしたような気持ちになり茫然と立ち尽くしていると、私の手を握っていたコンラートが不意にうめき声を上げ、体を二つに折り曲げた。
驚いて見下ろすと、コンラートはそのまま草の上にうずくまり、苦しそうに顔を歪める。
「えっ? コ、コンちゃん!? どうしたの!」
咄嗟に声を掛けるけれど、コンラートは返事も出来ない様子で小さな体を丸めていた。
「コ、コンちゃん、……どこか痛むの?」
突然の出来事におろおろしながら弟の側に座り込み、丸まった体をそっと抱きかかえる。
弟の体は、見て分かるくらいにぶるぶると震えていた。
コンラートの常にない様子に動揺していると、東星が何かに思い当たったような表情で口を開く。
「ああ、わたくしとの契約が履行されていないので、仮の姿をこれ以上保てないのね☆」
「え?」
その言葉に驚いて、東星を振り仰ぐ。
「わたくしは生と死を司る星だから、この子が約定を果たした暁には、新たなる生を与える契約を結んだわ。けれど、まだ約定が果たされていないから、この子の姿は借り物の器なの。こんな濃い魔力が漂っている場では、仮の姿では耐えられないのでしょうね☆☆」
「だ、だったら、早くコンちゃんに約定を履行させてください!」
東星を見つめ、必死にお願いしたけれど、私の表情を見た東星はにまりと笑っただけだった。
「うふふ、何事も対価なしには行えないわ。この子を救いたかったら、世界樹を元気にしてちょうだい☆☆」
「そんな!」
私は絶望的な気持ちになって東星を見つめた。
そして、こうなったら仕方がないと、正直に口を開く。
「私は自分が魔法使いであることに確信はないし、魔法の使い方も分かりません。だから、世界樹の救い方も分からないんです」
けれど、東星は全く信じていない様子で私の言葉を切り捨てた。
「まさかそんなこと、あるはずがないでしょう☆」
いえ、そんなことがあるのです。
私は東星を説得しようと、必死になって頼み込む。
「私に出来ることは何だってやりますから、まずはコンラートを救ってください!」
世界樹は120年ほど前から力を失い、20年前には今の状態になったという。
だとしたら、今すぐ何かをしなければならないほど急いではいないはずだ。
だから、まずはコンラートを優先すべきだと思ったのだけれど、東星の考えは異なるようだった。
「こんな小さな子ども1人どうでもいいことよ! それよりも、大事なのは『世界樹』だわ! あなたも今、見たでしょう。この立派で尊い樹の一枝が失われてしまったところを。さあ、この何よりも大事な樹を、急いで元気にしてちょうだい。魔法使いちゃん、あなたがその気になれないというのならば、この子どもだとか、サフィアだとかを1人ずつ切り刻んでいってもいいのよ★★」
「そんな!!」
私は絶望的な気持ちで声を上げた。
……ああ、ダメだ。どうしたって優先順位が異なる。
私にとってコンラートが大事なように、東星にとって大事なのは世界樹なのだ。
そして、東星はより極端な思考を持っており、世界樹以外はどうでもいいのだ。
真っ青になって東星を見上げていると、兄が東星と私との間に割り込んできた。
「やあ、カドレア。魔法使いとの交渉材料に私を入れるのはいかがなものか。私と手合わせをしたいのならば、直接申し入れてくれ」
兄は先ほど、私に魔法を披露しろと言っていたはずだ。
それなのに、なぜまだ一度も魔法を行使していない私を庇うのだろう、と訝し気に兄を見上げる。
すると、全く譲る気のない表情に行き当たり、ああ、そういうことか、と閃いた。
兄が先ほど私を焚きつけたのは、恐らく東星の真意を確認させようとしたのだろう。
そして、『世界樹以外はどうでもいい』との考えが理解できたため、私の仕事は終わったとばかりに東星との間に割り込んできたのだ。
私はほっと息を吐くと、コンラートをぎゅっと抱きしめた。
状況は全く変わっていないというのに、兄が目の前に立つだけで助かったような気持ちになるから不思議だ。
けれど、東星の心情は私と真逆だったようで、むっとしたように眉を吊り上げた。
「サフィア、先ほどと同じように戦いが運ぶとは考えないでちょうだい! この地はお前が思っている以上にわたくしに味方をするのだから、今のお前など相手にもなりはしないわ☆☆」
私は丸まったコンラートを抱きしめながら、瞬時にして険悪な雰囲気になった兄と東星を見つめていた。
……どうすればいいのだろう。
東星は『世界樹を元気にする』以外の提案を受け付ける気がないため、それ以外は何1つ交渉の材料にならないように思われた。
そして、私にはこの樹を救う方法が全く分からないため、東星の要望に応えようがない。
ああ、どうにかしてコンラートとともにこの森を抜けられたら……と、そう思っていると、腕の中の弟が小さく苦悶の声を上げ、震え始めた。
「コンちゃん……」
寒いのかと思って抱きしめると、コンラートはびくりと体を強張らせ、―――次の瞬間には、体がみるみるうちに縮んでいき、青紫のふわふわの動物に姿を変えた。
「えっ!?」
私の腕の中にいたのは長い耳と、もっと長い尻尾を持った、見たこともない動物だった。
顔だけ見るとうさぎのようだけれど、額から1本の角が生えており、もこもことした尻尾は体長よりも長い。そして、全身が青紫色をしていた。
兄の髪色とそっくりな色を確認した途端、私が幼い頃拾ってきた『青紫色の四足獣』がこの子なのだと思い当たる。
そして、兄が言っていたように、コンラートは本当に獣だったのだと茫然とした。
……ああ、実際にコンラートは弟ではなかったのだ。
そして、こんなに小さな……30センチほどの体長しかない獣が、あるいは、獣の体を借りたダリルが、ずっと私の弟として側にいてくれたのだ。
兄は私が魅了に侵されたと心配していたけれど、うさぎ型の獣の姿を見た途端、忘れていた思い出が蘇ってくる。
……そうだ。この子は1度だって、私を傷付けなかった。
弟を亡くして悲しんでいた時、ずっと側に寄り添っていてくれた。
お兄様に褒められ、嬉しくて歌を歌っていた時、ずっと側で聞いていてくれた。
泣いている時も、笑っている時も、そのどちらでもない時だって、いつだって私の側にいてくれた。
―――兄も言っていたではないか。
『侍女たちの話によると、「コンラート」は窓から自由に出入りしており、ほとんど部屋には寄り付かないし、お前の前以外には姿を現さないとのことだった。ただし、お前が館にいる時は、いつだって館の中に「コンラート」の気配があった。お前が気まぐれに訪れるのを待っているのだとしたら、健気な獣だと思ったものだ』
……そう。いつだって、この子は私の側にいてくれた。
『時々、ちらりと獣の姿を見かけることがあったが、いつまでたっても小型のままで、おかしな気配もなかったので、お前に怪我をさせることもないだろうとそのままにしておいた』
……そして、この子が成長するはずもなかったのだ。
借り物の体であり、時が止まっていたのだから。
「ああ、コンラート」
私は腕の中の小さな獣に、私が名付けた名前で呼び掛けると、その体をぎゅっと抱きしめた。