9 ラカーシュを避けるべきか? 避けざるべきか? それが問題だ 4
翌朝、私はまだ朝も早い時間に兄の部屋を訪れた。
がんがんがんと容赦なく扉を叩くと、鍵がかかっていない扉を開ける。
これだけ大きな音を立てた上、寝室の扉を開けられたというのに、残念な兄はまだ夢の中だった。
だらしなく顔をにやけさせ、両腕で握りしめた枕に顔を擦り付けている。
ベッドの上で丸まっていた兄の従魔の方が、先に目を覚ましたくらいだ。
といっても、その猫型の魔物は片目を開けただけで、私が誰かを認識すると再び目を閉じてしまったが。
兄の従魔に邪魔されないことが分かると、私はずかずかと兄に近寄り、その腕からふかふかの枕を取り上げて、にやけ切っている兄の頬にぎゅうううと押し付けた。
「あああ、リサたん! リサたんの………は、本当に柔らかいねぇ……」
これだけのことをされているのに、にやにやとした顔でまだ幸せな夢を見続けている兄はさすがだと思う。
私は枕を投げ捨てると、兄をゆさゆさと揺さぶって声を掛けた。
「お兄様、目を覚ましてください! 一番鶏はとっくの昔に鳴き終わりましたよ! 『早起きサフィア』の名が泣きます」
「………いや、それは、明け方まで夜遊びをしている私を揶揄したあだ名であって、実際に早く起きられるという話ではなくてだね? ……と、あ、あれ、私のリサたんは……」
兄はぼんやりとしながらもやっと目を開けると、きょろきょろと周りを見回した。
そして、自分が寝室のベッドの中にいることを認識すると、気だるげな感じで私を見上げた。
「……おやおや、誰かと思えば、外見だけは素晴らしい性悪な私の妹ではないか。おはよう、ルチアーナ。こんな朝っぱらから、何事かね?」
兄であり、我が侯爵家の嫡男でもあるサフィア・ダイアンサス(19)はベッドに横になったまま、長めの髪をかき上げた。
さらさらと手の中から零れ落ちる青紫の髪の間から白銀の瞳が輝き、端正な顔と相まって何とも美しい青年を形作っている。
けれど、その美青年が身に着けているのは、きらっきらのド派手な黄金色の夜着だった。しかも、何を狙っているのかは不明だが、上半身は半分以上透けている。そして、頭には共布で作られた帽子をかぶっていた。
兄を一言で表現するならば、個性的な道化師というのが的確だろう。
本人は良かれと思って身に付けている着衣が、かえって本人を残念にしているという典型的な例だった。
……もったいない。神様はどうしてこんな残念な人間に、これほど素晴らしい外見を与えられたのかしら。
世の不条理を嘆きながら、私は丁寧に挨拶を返す。
「おはようございます、お美しい外見をお持ちの、見掛け倒しのお兄様」
私の挨拶を聞くと、兄は可笑しそうに口の端を上げた。
「う――ん、意趣返しのつもりかもしれないけれど、全然違うぞ。私は努力をしないがために、1級品になり損ねている2級品だが、お前は努力をしない上に才能も備わっていない完全なる投げ売り品だ」
「ええ、その通りですわ、お兄様。ですから、投げ売り品から2級品にお願いがあってまいりましたの。今日はフリティラリア公爵領で公爵閣下の誕生祝いが行われるらしいのです。そこに参加したいので、手を貸してください」
私の話を聞くと、兄はうう――んと伸びをしながら半身を起こした。
「おや、お前はエルネスト殿下を狙っているとばかり思っていたのだが、フリティラリア公爵家に乗り換えたのか? どちらにしても、相手が悪い。お前じゃ、100年経っても落とせやしないから、別の相手に乗り換えなさい」
「分かりました! 心して、地味で、善良で、心根の良い子爵家あたりの次男を狙いますので、ご安心ください」
「や、それじゃあ、父上も母上も納得しないだろう。お前は腐っているが、侯爵令嬢だしな……というか、どうしたルチアーナ? 生まれて初めてお前と話が通じるじゃあないか。何か悪い物でも食べたのか?」
兄は面白いものを見つけた様な表情で私を見ると、興味深げに尋ねてきた。
いえいえ、それは私も同じですよ、お兄様。兄と会話をしながら、私は心の中でそう返す。
兄のサフィアは、同じ学園に通う3年生だが、ルチアーナはほとんど近寄ることがなかった。
なぜなら、兄は悪くないスペックを持ちながらも、努力嫌いで享楽的であることから、ろくでもない人物だったからだ。
近寄ると必ず相手側が損をする、それがサフィア・ダイアンサスという男だった。ゲームの設定でも、ルチアーナの記憶でも。
けれど、話をしてみると、頭の回転は悪くないように思われるし、そう性根が腐っているようにも見えない。
まだ第一印象だけなので、正確なところは分からないけれど。
「……それで? フリティラリア公爵家といえば、筆頭公爵家じゃないか。そんな貴族社会の頂点が開催するイベントに、なぜ侯爵家の子息ごときに参加権があると思うのだ?」
「それはもちろん、お兄様には学園内でも5本の指に入る麗しいお顔と、砂糖交じりの甘い言葉を吐き続けることができる恋愛特化型の脳みそをお持ちだからですわ。ねぇ……フリティラリア公爵家への入場カードについて、お心当たりがおありでしょう?」
私はひたりと兄を見つめると、逃さないとばかりに距離を詰めた。
兄は考えるそぶりをしたけれど、間近に迫った私を見ると驚いたような声を上げた。
「やあ、ルチアーナ、お前、昨夜は寝てないのか? 至近距離で見ると、肌荒れも、目の下の隈もどちらも酷いな。おやおや、目も血走っているじゃあないか。やつれ切ったお前は顔が整っている分、怖いな。ははは、お前は見た目しか取り柄がないんだから、そんな顔で乗り込んでもフリティラリア公爵家のラカーシュ殿は落ちないぞ」
兄の心底面白そうな声を無視すると、埒が明かないと思った私は秘密の一部―――この世界の今後の展開を知っている、という情報を漏らすことに決める。
静かに生きていきたいので、できれば私の特典情報は秘密にしておきたいのだけど、このままでは現状を面白がるばかりで、真面目に取り合う気がない兄は動いてくれないだろうと思ったのだ。
それに、ほんの少し考えれば分かることだが、兄は社会的に重要でもないし、社会的地位を求める思考もない。秘密をばらしても大したことにはならないだろう。
ああ、兄が見た目はいいのに、残念な仕上がりになっていてよかった。
おかげで、攻略対象に入ってもいないから、ゲームの主人公が近付いてくる心配は皆無だわ!
そうは思ったものの、念のために預言能力があるよう装ってみることにする。
「結構ですよ、私の目的はラカーシュ様を攻略することではありませんからね。……お兄様、僭越ながら私、先見の力に目覚めましたの。それで……」
「いや――あ、ルチアーナ、さすがにその設定には無理があるんじゃないのか? 先見の力ってのは、物凄いレアものだ。魔力には系統や特質があって、それらは全て血で受け継がれる。我が一族には先見の力は一切ないぞ。先見といえば……それこそ、フリティラリア公爵家に引き継がれている稀有な魔力だろう」
嫌な感じで兄が私の言葉を遮ってくる。
くっ、ホント、出来が悪いくせに、ポイント、ポイントで知識があるってのは厄介だわね。
上手い反論が思いつかなかったため、兄の話はなかったことにして話を進める。
「私の先見の魔力によりますと……お兄様は、マージ伯爵家のベルタ様に振られますわ」
「凄いな、ルチアーナ! ベルタ嬢には、まさに昨夜お友達宣言をされたところだ。本当に凄い……お前のゴシップ把握能力は!」
私の言葉を聞いた兄は驚いたような声を上げた。そして、私のゴシップ把握能力を絶賛してきた。
な、なるほど、そうきたか。
確かにルチアーナは悪役令嬢として多くの生徒を従え、学園内カーストでは頂点にいる。
手下のような生徒たちを動かして、学園内の噂話を収集したと兄が思い込むのは尤もではある……少なくとも、全く血の継承がない先見の魔力に目覚めたという話よりは、信じやすいだろう。
私は必死で脳みそをフル回転させ、ゲーム内のセリフを思い出そうとした。
……他に、サフィアお兄様が懸想していた女性は誰がいたかしら?
ああ、兄はゲーム内で脇役も脇役だったから、ちょろりと台詞で出てきたくらいの登場なのよね。
『ルチアーナ、お前も兄のように次々と男性を取り換えていくのだろう? サフィア殿と噂になった女性は、去年だけでも何人いたか。ベルタ嬢に、ヴィルヘルミーネ嬢、カトリン嬢……名前は尽きぬな』
―――主人公に寄り添った攻略対象者の一人から投げつけられた、酷い言葉を思い出す。
あっ、出てきた! ご令嬢の名前が出てきたわ!
でも、これは誰のセリフだったのかしら? 相手が悪役令嬢だからって、好き勝手言い過ぎよね。
名誉棄損で訴えたら、勝てるんじゃないかしら?
そう思いながらも、出てきた名前を忘れないうちにと、兄に告げる。
「では、……パルツァー子爵家のヴィルヘルミーネ様、あるいは、ギーレン伯爵家のカトリン様は?」
「……お前、本当に凄いな。ヴィルヘルミーネ嬢はまだまだ口説いている初期も初期の段階だぞ。恋とは密やかに、が私のモットーだから、誰にも知られぬように進行させていたはずなのに」
兄は心底驚いたように、私を見つめてきた。
「カトリン嬢に至っては、ほんの昨日、可愛らしいなと思ったばかりだ。……確かに、ゴシップ収集能力もそこまで極まれれば、先見と称しても騙されるやからが現れるかもしれないな。うむ、あっぱれだ、ルチアーナ」
晴れ晴れとした顔で、兄は私を褒めだした。
けれど、私は16歳で、兄に褒められて嬉しいという歳でもないし、今はそれどころではないはずだ。
「ええと、ですからゴシップでは……」
「よし、分かった! 王城の諜報部隊も真っ青になるほどのゴシップ情報を惜しまずに出してきたのだから、お前も本気だな。私もカードを切ろう。フリティラリア公爵の誕生会は内輪だけで行われるものだから、どんな高位貴族だろうが普通は参加不可なのだが……クラスメイトであるビオラ辺境伯家ユーリア嬢が、フリティラリア公爵の名付け子だ。彼女に頼んでみよう」
言うと、サフィアお兄様は机の引き出しから洒落たカードを取り出して、さらさらと何かを書きつけた。
それから、カードとともに、机上に飾ってあった花を一輪封筒に入れて封蝋をすると、ひらひらと封筒を持った手を振った。
「ほら、これをすぐにビオラ辺境伯家に届けるように言ってこい。上手くすれば、午後にはフリティラリア公爵家へ出発できるぞ。お前のその顔は、整っているのに不細工という不思議な現象が起こっているから、返事を待つ間、少し眠ってこい」
その言葉とともに、私は1通の封筒を持たされて、兄の部屋から追い出されたのだった。
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