2005.8.10
夕日が海の地平線に隠れようとしていた。そんな中、俺は彼女と一緒に歩いていた。
「なあ」
「ん?」
「どうして俺をここに呼んだんだ?」
「え?ああ、まぁ、この時間帯暇かなって」
「暇っていうか、夜から店を始めるから店の準備しなきゃなんだけどね」
「え!?そうだったの?ごめん!もう帰らなきゃ?」
「いや、今日は休みにした」
「そうだったのね」
「これが個人営業のいい所さ」
隣にいるのは秋夜という最近ウチの店に顔を見せに来た客だ。
「夕日、綺麗だね」
「ああ、こんなに大きいとは思わなかったよ」
「ねね!あそこの堤防まで行かない?」
「うん」
繰り返すさざ波の音が心地良かった。たまに聞こえるカモメの鳴く声に釣られるように秋夜と俺はもう少し先にある堤防を目指して砂浜を進んでいった。
「足、砂で埋もれてない?」
「え、ううん。埋もれて気持ち悪いや」
「ごめんな。足洗う場所見つけてくるから。ちょっとごめん!すぐ帰ってくるからさ」
俺は砂浜の上にある海の家へ走り出した。もう夕刻で泳いでいる人がいたいため、まだ営業しているのかさえ分からなかった。
「やっぱ大丈夫!ねーね!堤防行こうよ!」
「大丈夫じゃないでしょー!見てくるだけ見てくるから!」
「私にいい方法があるから!」
距離が出来て小学生の頃に卒業式でやった呼び掛けのように2人で会話をしていた。
「いい方法って?」
「良いから!こっち戻ってきてー!」
脚を止めたらふくらはぎの筋肉に乳酸が溜まり始めたのが分かった。じわ〜、と来る感覚。高校生の頃にやった持久走後のあの感じ。
「ダッシュ!ダッシュ!早くしなきゃ日が暮れちゃうよー!」
彼女がそう言うから俺は再び走り出した。
微弱ながらも海風を感じた。それは湿っていて塩っ気のある涼しい風だった。自分の身体から汗が出てきて、首筋がじわっと湿り気を含んだ。
「はい!よく出来ました」
「で、良い方法って?」
「ちょっと持ってて」
彼女に渡されたのはサンダルと小さな肩掛けポーチだった。そして彼女はさざ波の中へと踏み入れた。ミニスカートを履いていたから濡れることは気にしていない様子だ。
「ちょっと、何しているの」
「足洗ってる〜!」
夕日と海をバックグラウンドにして俺の目の前にいる彼女は、いつもの天真爛漫な様子を見せずに海の方向を見つめていた。その後、振り返る彼女の横顔は夕日が邪魔をして表情まで読み取れなかったが、西洋の有名な画家が描いたような1枚の絵画のようだった。そして彼女は俺に駆け寄って
「このままだとまた砂が付いちゃう」
「普通に考えてそうでしょ!」
「だから…」
彼女は俺の胸の周りに腕を交差させて心臓あたりに左耳をくっつけた。
「抱っこして?お姫様の方の」
「え?」
幸いにも彼女は俺の方向に顔を向けてなかった。が、俺は顔が熱くなり、心臓の鼓動も高鳴った。
彼女の柔らかくて小さな手と左耳は布1枚隔ててでも熱を感じていた。
「分かった。ほら、するから離れて」
「やった」
彼女がもし小悪魔だったとしても、俺はピエロにでもなって彼女に騙されよう。
俺は彼女の肩と太ももに手をやって、身体を90°回転させて首に負担がかからないような体勢を作った。
彼女の鼻が俺の鎖骨に当たり、その鼻が大きく息を吸った。
「冬樹」
「なに?」
「いい匂い」
何を言う。あなただって甘い香水の匂いがするではないか。
今まで女の人とここまで至近距離になった事がないわけではない。が、ここまで胸が踊ったのは初めてだった。
俺は照れ隠し半分、前を見て黙々と堤防へ進んだ。皆がドラマのワンシーンを撮影してくれたかのように、この海には俺ら2人しかいなかった。
彼女の茶色く染った髪が口元にかかっているのを確認し、俺は右手を少し動かして彼女の口元に持っていき、中指で髪の毛を下に落とした。
「優しいね」
「そんなことはないさ」
くりんとした彼女の目が初めて俺の目を見てくれた。俺もそのまま彼女の目を見つめていた。
「髪、長くなっちゃったな」
「確かにな。ウチの店に来てくれた頃はもう少し短かったもんな」
「私ってベリーショート似合いそう?」
俺は頭の中でその姿を描いた。
「うん。すごく似合いそう」
「じゃあ、ベリーショートにしてみるね」
「楽しみにしているよ」
夕日の半分以上は彼女と俺の時間を邪魔しないように、地平線の彼方へ隠れてしまった。
「こっちの方が海風感じるね」
「そうだな」
俺は短パンのポケットからタバコの箱とライターを取り出して、上手く海風を避けながらタバコの先端に火をつけた。
「ねえ、私にも吸わせて?」
「ああ、いいよ」
俺はタバコの箱から1本取り出そうとしたが、「今吸っているのでいい」と言って俺の右腕からタバコを取り上げた。
左手の人差し指と中指でタバコを挟んで口元に持っていった。
「まだあるから1本あげるのに」
「これがいいの」
彼女は2本指を挙げて「このタバコじゃなきゃダメなの」と言った。
「なあ」
「ん?」
「季節が変わってもまた2人でどこかへ行こう」
大きな波の音が聞こえた。が、しばらく経ってからそれは俺の心の中から鳴り響いたものだと気付いた。
「うん。秋も、冬も、一緒にいよう」
彼女は小さな顔に漫勉の笑みを浮かべた。赤い唇が沈みかけた夕日に照らされてキラキラ光っていた。