1980.6.30
子供のように無邪気な彼が会社の責任者に戻ろうとしていた。
私は未だにダブルベッドから抜け出せずにいた。
「そろそろ出ようよ」
石鹸の匂いを漂わせ、白髪が目立ってきた髪の毛をバスタオルで拭いたまま私にそう話した。
「もう少しだけここにいたいの」
「でも、もう戻らなきゃでしょ?みんなにバレる前にここを出よう」
「ううん。今日だけはバレてもいいの。だって・・・」
そこから先は言えなかった。そう、私は彼にケジメをつけに来た。もう、不倫の関係を辞めようと思っていたのだ。
「だって、何?」
「ううん、何でもない」
「ふぅん、そう」
彼は不服そうな顔をしてタバコに火を付けた。彼は窓際へ行き、この街をホテルの最上階から眺めた。
ここは15階のスイートルーム。そこからこの街を一望できる。窓の外には彼が協力したり、彼自身が計画し、建設した建造物もよく見える。
彼はこの街の全てを手に入れた。と同時に私と私の身体も手に入れた。
「なあ、香夜」
「何?」
「もうこの関係止めないか?バレたら俺だけじゃなくて君にも迷惑を被ってしまう」
意外な言葉だった。さっきまでの無邪気な子供みたいだった彼の口からは出てこないような、真面目でご最もなものだった。
「ねえ、私があなたに近付いた理由って分かる?」
「いや、知らん」
「お金ではないよ。お金が必要なら水商売するさ。今の私ならギリギリ大丈夫だと思うし。でもね、本当の理由はあなたに惚れたの。不倫がバレてこの街にいられなくなってもいいからあなたを愛していたかったの。それほど私を夢中にさせたの」
私はいつの間にか涙声になり、鼻を啜って涙を堪えていた。
「あなたが・・・あなたが魅力的な人じゃなければこんな関係なんてすぐに終わらせられた。でも、でも、私が奪ってまで欲しくなるほど魅力的なあなただったの」
ついに涙が溢れてきた。
この話は私から切り出そうとしていたのに、彼が勝手に私達の関係を終わらせにきた。私から言えていたのなら、もう少し冷静になって話せたのに。
「ほら、これで拭きなよ」
彼はティッシュペーパーを私に渡してくれた。
「優しくしないでよ」
「ごめん」
その優しさがこの関係を終わらせることを妨げる。彼は女心を分かっているようで、ちゃんと分かってはいなかった。
「ちょっとシャワー浴びてくる」
私は何も着ないままシャワールームへと歩いて行った。
私がシャワーを浴び終わえてシャワールームから出ると、彼は無邪気な子供になっていた。
いつも社長としてスーツをキメている姿には変わりなかったが、野球をしていたらボールが人の家の窓を割ってしまい、謝ろうか逃げようか考えているような困った顔になっていた。
「いつまでヘナヘナしてるの。男ならもっとビシッと決断しなさい!」
「・・・・・・分かってるよ」
「じゃあ、私はもう職場に戻るからね」
彼は何も言わず、スイートルームには沈黙が流れた。
「男に二言はなしでしょ?なら、もうこの関係終わらせましょ。それでいいから私は」
さっきシャワーで彼との関係を水に流してきた。そして、彼がいなければ埋まらなかった穴をメイクで誤魔化した。
「じゃあ、またね。元気でね。もう私以外の女と不倫しちゃダメだからね」
彼は今だに憔悴しきったままだった。
私はそんな彼を放っておいてスイートルームの出口のドアノブに手をかけた。
「そうだ、これだけは伝えておくね」
彼からの返事はなかったが、私は続けた。
「今私のお腹にいる子、女の子みたいだから、あなたと私の名前を使って秋夜って名前にしようかなって思ってるの」




