第07章 進まない時には締め切りを作ろう
壱人はカードゲームの基本システムを作っていた。
カードの名前や細かい設定などは後にして、とにかく属性と攻撃力を付け、それをデッキに登録してシャッフルし、手札に加え、手札からカードを選んで単純な攻撃をする。しかもそれはデバッグログのテキストで確認できるだけである。
たったそれだけだが、配列やらポインタで苦戦していた。
こんな風にしたいというのはハッキリしているのだが、それを実現するにはどうすれば良いのか分からず、調べては試すを繰り返している。しかし中々思うようにいかず、ゲーム作りは全く進んでいない状態だ。そうなると関係の無い些細な事も気になり出して、さらに進まなくなる。
次の発言もそうしたものの一つだった。
「今まであまり気にならなかったんだけど、数字に突然『f』が付いて、何も説明が無いのっておかしくないか?」
壱人の言っているのは
x = 1.3f;
というものである。
『f』はfloatの事で、floatという型=入れ物を使うという意味だ。数学のxやyのように値を代入する記号ではない。しかも記号にも『f』が使えるので「f=1.3f」という、意味は全く異なるのに見た目が変わらないものが同時に存在する状況があり、見慣れないと混乱する。16進数の『F』も加えれば完璧だ。
補足すると、このfloatのfは人間のためではなく、プログラムを実行する際に必要なものである。
ネットで調べればすぐに分かる事ではあるのだが、確かに唐突に出現し何の説明もない。壱人は英文に『、』や『。』が付いてるようで違和感があると言った。次のような感じだろうか。
The Queen of Hearts、
She made some tarts
All on a summer's day。
「これを自然に受け入れる理系はおかしいよ!」
その言い分も分らなくもないが、イッQは「慣れるしかない」と答えた。それは慣用句みたいなものであり、英文の単語に付けるtheやaの使い分け、「あをによし」が「奈良」にかかる枕詞と同じように、この場合はこうと覚えるしかないものなのである。
こういう事が気になり出したら行き詰っている証拠だ。何か対策を考えなければとイッQが考えていた時、壱人が更に口を開いた。
「プログラムを書いてて気付いたことがあるんだけど」
他にもあるのかとイッQが聞いていると、思いがけない言葉が飛び出した。
「俺、プログラムあんまり好きじゃないかも」
一瞬、時間が止まる。しかしイッQはただフーッと息を吐いて「気付いてしまったか」と呟いた。そしてだしぬけに壱人に向かってこう言った。
「そうだ。お前はゲームが作りたいだけで、別にプログラムが好きなわけではないんだ!」
言われてみればそうである。ゲームを作るのに必要だからやっているだけで、プログラムを書くためにゲームを作っているわけではない。そう壱人が得心していると、イッQが付け足した。
「ちなみに俺は気付くのに3年かかった」
「遅え」
加えて恐ろしい事実を告げる。
「しかもそれに気付くと、プログラムを書くのが苦痛になる!」
「気付いたらダメなやつじゃないか!」
壱人がツッコむと突然イッQが黙り込み、しばらく考えた後、こう言った。
「丁度良い機会だ。ゲーム作りを止めるなら今だぞ?」
「いきなり、どうしたんだよ?」
先程までの冗談のようなノリから深刻な態度の変化に壱人は驚いたが、それに構わずイッQは続けた。
「お前の事を考えて言っているんだ。誰に迷惑をかける訳でもないし、仕事にするのでもない。止めたって何のリスクもないんだから、好きでもないものを無理に続ける必要はないだろ?」
それを聞いて反論しようとする壱人より早く、イッQは言葉を付け足す。
「今までやった事は勿体無いが無駄になるわけじゃない。これからのゲーム作りで消費する数年間を考えれば大した時間じゃない。人生を無駄にするよりよっぽど良い」
実際に人生を無駄にした本人がそう言っているので説得力はあるのだが、何だか納得がいかない。壱人は「それは何か?」と考えて、ある事に思い当たった。
「じゃあなんでお前は、プログラムが好きじゃない事に気付いてから、その後7年間もゲームを作ってたんだよ?」
イッQはその問いにすぐに答えられずに「ウッ」と息を詰まらせる。
「あ、いや、それはあれだ、その、えーと、特に理由は無い。止めるきっかけが無かっただけだ…」
しどろもどろになりながら苦しい言い訳をする様子を見て壱人は言った。
「ゲームが完成するのを一番見たいのはお前だろ?」
その核心を突いた言葉にイッQは黙る。確かに何度も投げ出しながら続けていたのは自分の考えたゲームを完成させたいと思っていたからだ。
ただしそれは前向きな理由ばかりではない。それを思い出す度に、完成させていない事が後ろめたくて居た堪れなかったのだ。気持ちを抑えるために形だけ作業していた事もある。諦めようとしても諦め方が分からず、いつまでも消えずに残っていたのだ。
「大丈夫だって。10年もかからないで俺が完成させてやるから」
黙って聞いていたイッQは、壱人の言葉に頼もしさを感じた。確かに自分と比べると進行は早い。詰まる事はあっても止まってはいない。この後にも幾つか難関は立ち塞がるが、このままいけば完成する可能性は高い。完成させてしまえばあの重い気持ちも無くなるのだ。そう考え直し、イッQは断言した。
「分かった。俺も覚悟を決める」
自分の言葉で前向きになってくれたのだと壱人は思ったのだが、その真意が分かったのは次の日である。
大学から帰ってきた壱人にイッQは告げた。
「必ず完成させるというお前の言葉を信じて、イベントに申し込んでみた!」
イッQが申し込んだイベントとは、自分の作品を発表する場である。いろいろな人が多種多様な作品を持ち寄り、それを見るために更にたくさんの人が訪れる。そして気に入った作品は購入することもできるのだ。
「うわ、何するんだよ!」
突然の知らせに壱人は慌てる。
「一人で作っていた時、俺も何度か考えた事はあるんだが、成果物が何もないイベントは悲惨だと思ったら実行できなかったんだ。お前がいてくれて本当に良かったよ」
「完成しなかったらどうするんだよ!」
笑いながら話すイッQとは対照的に、壱人の動揺は収まらなかった。
「大丈夫だよ。半年も先の話だし、大きなイベントだから落選の可能性も高い」
仮にでも締め切りがあれば緊張感がでるから、とイッQは宥めるように言い、もしその日までにできなかった場合はコピー本で設定資料集でも出そうと提案した。
「間に合わせだから寂しい内容になると思うけど」
「怖い事言うなよ!」
「とにかく完成できるように、一緒に頑張ろうな」
こうして壱人の意思とは関係ないところで、締切が決まってしまったのである。
【おまけ】f 萌えポイント
イッQが『f』について熱く語っていた。
「些細なスペルミスや関数の使い方の間違いなんかを、いつもは冷めた感じで指摘してくるエラーちゃんがだよ。小数だけは『f』が付いてないと『どうやって処理すれば良いのか分らないよ~』って言ってくるんだよ?ギャップ萌えだろ!」
「ごめん。お前の言ってる事、よく分からねえ」
「イッQさんは変なところが萌えポイントなのデスデス」
『f』に付いて力説する姿を見て、なんだかんだ言ってイッQはプログラムが好きなんじゃないかと壱人は思った。