80マス目 鈍足の脅威
エリザベートとテンダーは、一言もしゃべらず辺りに注意を向けている。
先ほどまで楽しげに話していた二人の姿はそこにはない。
「エリザベート、一旦馬車から……」
「止めなさい」
エリザベートの言葉に、テンダーはすぐさま馬車を止める。
「正面ですわね。
でもどういうことですの?」
……気配が感じられないですわ」
エリザベートは遠くを睨み付ける。
視力の差でテンダーはまだ視界に捉えていないが、
道の先から徐々にその姿が見えてくる。
「あの服装、今回は当たりだと思いますかしら?」
「さすがにあれだけ怪しかったら当たりでしょ」
エリザベートの額から、一滴の冷や汗が流れ落ちる。
「テンダー、迎え撃ちますわよ。
相手は亜人隊、気を抜くんじゃありませんわよ」
「了解、全力でサポートするよ」
ゆったりと歩みを進める人影。
その姿はあまりに不気味。
真っ白の包帯を顔中に巻き付け、前が見えているかも疑わしい。
白い手袋に白いネクタイ、そして真っ黒のスーツ。
両手をだらりと下げたまま歩く姿は、嫌な不快感を覚える。
そして何故か、その包帯男が歩いた跡は水をこぼしたように濡れていた。
「様子見は無しですわ」
エリザベートは即座に傘から剣を引き抜く。
そしてテンダーは指をパチンッと鳴らすと、
姿を霧のように消して景色に溶け込ませる。
しかし包帯男は歩みを緩めようともしない。
「良い度胸ですわ。
でもそれ以上近づくのはお勧めしませんわよ」
エリザベートは細剣を構える。
しかしこの人物は防御するでもなく、丸腰で歩き続ける。
そしてついに、エリザベートの射程距離に入り込む。
「警告はしましたわよ」
エリザベートに迷いはない。
一直線に寸分の狂い無く、包帯男の左胸を貫いた。
「え!?」
エリザベートは目を見開いた。
軽いのだ、手ごたえが。
とても生物を刺したとは思えなかった。
でも確かに刺さっているのを、エリザベートは今その目で見ている。
「エリザベート!!!」
空中から現れたテンダーは、包帯男の首元に回し蹴りを打ち込んだ。
するとその首は大きくゆがみ変形する。
首の骨が折れたとかいうレベルではない。
軟体生物のようにぐにゃりとひしゃげた首からは、血の一滴すら滲まない。
そしてそんな状態でもなお、効いているそぶりも見せず立ち尽くしている。
「何なんだよ、この化け物は!!」
「テンダー、下がりますわよ!」
二人は即座に距離を取る。
この人物の正体がつかめない。
すると、この人物はひしゃげた首を一瞬で元に戻すと、
胸ポケットから一枚の紙を取り出し、エリザベートに差し出した。
「……何ですの?」
思わず受け取ってしまった紙には、
ほんの一文が記載されていた。
【わたくしはダイタル・バックスフォード。
どうか、お見知りおきを。
そして、さようなら】
「……へ?」
顔を上げたエリザベートに深く頭を下げるダイタル。
次の瞬間、ノコギリ状に変化したダイタルの右腕が、
エリザベートの首元めがけて薙ぎ払われた。
エリザベートは咄嗟に身をかがめて避ける。
瞬間、後退し距離を取った。
「……まったく!
卑怯か正々堂々か、どっちなんですの!?」
「エリザベート、怪我は?」
「大丈夫ですわ。
それよりこいつ、得体が知れなさ過ぎますわ。
どこから攻撃して来てもおかしくありませんわよ」
「そうだな、俺は援護にまわっとくよ」
テンダーは指をパチリと鳴らすと、再び景色に溶け込んだ。
エリザベートはダイタルを睨みつけながら隙を伺う。
だが、どこが目かもわからず視線が読めないし、動きも不規則。
踏み込むタイミングが全く計れない。
「テンダー、あいつの隙は作れませんの?」
「オーケー、やってみる」
テンダーの指先から白い光が瞬く。
その瞬間、ダイタルの正面に無数の刃が向けられる。
……しかし、反応が無い。
「んな!?
後ずさりどころか、ピクリとも反応しない!?」
もちろん今のは幻覚。
だが、前触れも無く現れた刃に反応しない者など、そうはいない。
そう思っていた直後、ダイタルがエリザベートへ向かって飛び出した。
今までゆったりした動きだった分、とてつもなく早く感じる。
「でも、わたくしより全然遅いですわよ」
エリザベートは素早く右に回り込み、ダイタルの脇腹に剣を差し込むと、
そのまま真上へ振りぬいた。
「終わりです……わ?」
確かに斬り裂いたはずだが、またもや血が出ていない。
ダイタルはねじ切れそうなほど首を捻り、エリザベートと顔を合わせた。
そして、ダイタルの右腕は樹木のごとく真上に振り上げられている。
さらに、右拳がさっきまでの5倍以上に膨らみ、もはや原形を保っていない。
ダイタルはそんな肥大化した拳を、エリザベートへ向かって振り下ろす。
「ぐうううっっあぁぁぁっっ!!」
咄嗟に細剣で防御したが、破壊力は想像以上。
剣は砕け、エリザベートは後方に大きく吹き飛ばされる。
「エリザベート!!」
木に衝突しかけたエリザベートの身体を、テンダーがすんでのところで受け止めた。
「大丈夫!?」
「おかげさまで、何ともありませんわ。
ただ、正直あれはお手上げですわね」
全力で斬りつけたダイタルの傷は、既に塞がっている。
普通なら致命傷だが、奴が相手では怯ませることすらできない。
「それじゃどうする?」
「引きますわ。
まず各馬車に連絡。
退路確保をお願いしますわよ」
「お任せあれ」
テンダーがパチンッと指を鳴らすと、辺りに霧が立ち込めた。
エリザベートは素早く木の上に飛び乗ると、
木から木へ飛び移るようにして馬車へ近づく。
ダイタルは先ほどの速度が嘘のように、ゆっくりと歩みを進める。
しかし、霧の中でも関係ないかのように、真っ直ぐエリザベートへ向かっている。
このままでは連絡中のエリザベートが襲われる。
「仕方ない。
やっぱり俺が時間を稼ぐしかないか」
霧の中から現れたテンダーは、ダイタルの前に立ち塞がる。
「悪いけど、この先は立ち入り禁止。
引き返してもらえないかな?」
そう言って指を鳴らしたテンダーの姿は、幾人にも分裂する。
「さぁ、本物がわか…」
テンダーが言いかけたその時だった。
ダイタルの全身から、水の触手のようなものが無数に伸び、
全ての分身の急所を貫いた。
ギリギリで身をかわしたテンダーだったが、触手が右肩をかすめて血が噴き出す。
「そん…な……」
コポコポという気泡の音。
静かな森の中で、一瞬にして消えていく霧の幻影。
テンダーは確信した。
……勝てない、と。
「エリザベート、……駄目だ。
こいつは、……本当にヤバイ!」
辺りに霧を発生させ、全力で逃亡するテンダー。
しっかり押さえているが、血が止まる気配はない。
傷口は見た目よりも深いようだ。
ダイタルに目を向けると、いつの間にかあの触手のようなものは消えている。
まったく正体がつかめない。
「テンダー、逃げますわよ!!」
馬車から走って来たエリザべート。
その手には通信結晶が握られている。
「ああ、急ぐよ!」
テンダーは再び指を鳴らし、霧を濃くする。
さらに、木の根が張り巡らされる幻影を映し出す。
これで立ち往生するとも思えなかったが、無いよりはマシといったところだ。
「これで少しは時間が稼げるといいけど……、どうしたの?」
エリザベートが突然立ち止まった。
その肩は何故か震えている。
「どうした、何かあったの!?」
「……これ、どういうことですの?」
エリザベートは顔を青くして、道の先を指さした。
霧で見えづらいが、青い膜のような物が見える。
「……え? 何これ?」
テンダーは慎重に指先で膜をつついてみた。
妙な弾力があり、ひんやりしていて触っていると気持ちがいい。
だが、その弾力は想像以上だった。
本気で殴っても、蹴り飛ばしても、ぷるんと弾かれる。
「どいてくださいまし!」
エリザベートは落ちていた木の枝を傘に変え、居合のように斬り伏せる。
しかし、それでも切れない。
それどころか、突いてみると、剣の方が押し負けて砕けてしまった。
「エリザベート。
これって多分、ここだけじゃないよね」
「だと思いますわ、少し湾曲してますもの。
ドーム状になってますわね、これは」
テンダーは深く息を吐く。
事態は最悪だ。
「閉じ込められたってことだよね」
「そうなりますわね。
テンダー、覚悟を決めますわよ」
二人は力強く手を握り合った。
力を合わせて、生きて帰ると誓い合うように。




