56マス目 涙に濡れたナイフ
「先に乗ってて、チェーン外しちゃうから」
「うん」
シランを先に乗せて防犯用のチェーンを片付ける。
すると馬車の近くに一人の女性がやって来た。
女性はただこちらを凝視していて、何だか不気味だ。
「あの、何か御用ですか?」
女性は答えない。
だが、馬車の中のシランが怯えている。
この人、……何かあるな。
「……どちら様ですか?」
「あなた、この子の父親ですか?」
質問に質問で返された。
よく分からないけど、シランも怖がっている。
さっさと追い払った方が良いかもしれない。
「似たようなもんです。
もういいでしょう?
これから用事があるんです」
「用事?」
その瞬間、女性の目つきが明らかに変化する。
この目は何度も見てきた。
これは殺意のこもった眼だ!
俺は咄嗟に、手にしていた鎖を縦に構えた。
次の瞬間小さく火花が散り、鎖でナイフを受け止める。
「用事って何する気よぉ!!
また子供を殺すの!?
悪魔の子! 化け物! 殺人犯!
返してよ! 息子を返してよ! 返せぇぇぇぇぇ!!!」
息子?
……そういうことか。
この人、シランが追いやられた事件の被害者。
殺されたジルという男の子の母親か!
「待ってくれ! シランは殺人なんて……」
「黙れぇぇぇ!!!!」
駄目だ、話なんて聞いてくれそうにない!
こんな誤解どう解けばいい!?
それこそ、真犯人を捕まえなければこの人は納得しないだろう。
「せ、せめて、落ち着いて話を……」
「うるさい! 殺す殺す殺す、殺してやる!!」
まわりに助けを求めるにしても、
馬車が目隠しになって、道路からこちらは見えない。
さらに近くにある柱が壁になり、通行人からはこの場所は死角だろう。
……仕方ない。
「ぶっ殺して、息子のところに……」
「うるせぇ!!!!」
俺は鎖を思いっきり下に下げる。
力を込め続けていた女性は大きくバランスを崩した。
その隙を突き、俺は女性の胸ぐらを掴んで馬車に押し付ける。
「いつまで殺すだの喚いてんだよ!
いいか? シランは誰も殺してねぇ!!」
「うるさい! 殺人犯は皆そう言うんだ!」
女性は俺の脛を強く蹴りつける。
痛みに顔が歪み、歯を食いしばる。
そしてもう一発来る気配がして、
けん制の意味を込めて、力強い頭突きを打ち込んだ。
「いぎっ!」
女性の顔が痛みで歪む。
その隙に、俺はここぞとばかりに言葉で畳み掛けた。
「いいか、俺は偽善者だ!
誰かを助けようとしてるとき、必ず自己満足を考える!
だが、あんたは可哀想すぎんだよ!
これでシランを殺して、俺を殺して、
全部わかった時には、あんたは牢の中だ!
それを止めてぇんだよ! だから止まれぇぇ!」
彼の必死の言葉は、わずかながら女性の考えに迷いを生じさせる。
「でも、……でも皆が言ってるわ。
あの子は化物だって、人殺しだって。
血まみれの姿を何人も見たって!」
「周りが肯定するから真実か?
お前はこの子の何を見た!?
この子の何を知ってる!?
ナイフの向け所も分からねぇのに、
自分の人生を捨てて、真犯人を笑わせる気かよ!!」
彼の剣幕に、女性の声はどんどん小さくなる。
「違う、違うわ。
ジルは、あの子は……」
「俺の眼を見ろ!!」
「うぐっ…」
もう女性に敵意は感じられない。
迷い、不安、恐れ、後悔、色んな感情が渦巻いているだろう。
「あんたがそれだけ愛したお子さんだ。
これ以上、そんな姿を見せたくはないだろう?」
「……はい」
「……シラン、行くぞ」
俺が馬車に乗り手綱を握ると同時に、女性は大きく泣き崩れた。
その声に振り向くことはない。
もうあの人に言えることは全て言った。
あれで分かってくれたと、俺は信じているから。
「ねぇ、トマトのおじさん。
さっきは凄くかっこよかったよ」
夕焼けに染まる道で、シランは嬉しそうに話す。
「そうか? 俺はいっぱいいっぱいだったけどな」
俺は先ほどの状況を思い出して冷や汗を流す。
あれで死ななかったのは、ただ単に運が良かっただけだ。
「ねぇ、トマトのおじさんって、
人を幸せにするヒーローなの?」
またこの子は訳の分からない質問をぶつけてくる。
俺は少し迷いながら答えた。
「俺は人を幸せにするために戦ってるんじゃない。
人を不幸にしないために、命をはってるだけだ」
「……やっぱりかっこいいじゃん」
「そうか? ありがとよ」
茜に染まった道を馬車は行く。
馬の鳴き声と、楽し気な声を響かせながら。




