311マス目 名も無き悪党
名前。
フリギアの口からそう明言されたとき、俺は普通に疑問を抱いていた。
名前なんてものは、たとえ大半の記憶を失っても大体が覚えているもの。
それが俺の記憶の中に存在しないはずがない。
「いや、名前が出てこないって、そんなはずないだろ。
だって俺の名前は……あれ?」
浮かばない。
頭の中で言葉が浮かんでこないのだ。
自分の名前をど忘れ?
そんな馬鹿がどこに居るってんだ。
「いや待て、そんなはずないだろ。
今までだっていろんな奴から名前を呼ばれてきて……」
呼ばれたか?
自分で自分に問いただすが、覚えがない。
こうして思い返せば俺は、この世界で人に名前を呼ばれたことがあったか?
「ちょっと、……ちょっと待ってくれ」
この世界に来て俺は、どれくらい過ごしてきた?
その間一度も、たったの一度すら名前を呼ばれないなんてあるか?
「名を消された……、そんな魔法が無いとは考えられないかい?」
フリギアからの助言に、俺は半ば納得しかける。
だが、俺は手持ちの中から名前に関する道具がある事を思い出す。
「……そうだ、名刺」
名刺入れの中には、まだたっぷりと名刺が残っている。
そこに名前が無いというのなら、何が書かれてるというのか。
「あった」
俺は床に置いた鞄から名刺入れを取り出し、零さないように開く。
中から一枚引きずり出し、口を使って引っ張り出した。
名刺入れを閉じて、紙に書かれた文字を見る。
社名、部署、電話番号に住所。
その他もろもろの情報が記されてる中央部分。
普通ならば、最も大きく書かれてる場所。
「……君、この文字が読めるかい?」
「いや、なんだこれ?」
それは確かに日本語に近いような文字をしている。
だが、とても読めたものではない。
線は曲がり、途切れ、文字としての役割を微塵もはたしていないのだ。
「それが君の名前、……いや、名前だったものという事だね」
「……名前その物はある?
って事は、消されたって訳じゃない」
俺たちは目線を交わし合う。
「「奪われた」」
俺らはほぼ同時に理解する。
何者かに名を奪われ、そのせいで名前という機能にも近いモノが歪んだ。
突拍子もない話だが、そうでも考えないと辻褄が合わない。
なにせ、誰も俺の名前を読んでない事に俺自身一度も気にならなかったのだ。
そんな現象、何かが狂わさせてると推測するのが自然。
「なるほどね、名前を。
でもそんな事ができる魔術師を、僕は一人しか知らない」
「エルヴィラか?」
「そうだね、あの女しか考えられないな」
フリギアが断言した。
ならばきっと、フィズやフリギアでさえどうやっても不可能な芸当なのだ。
「いいね、敵にしたくない男の目的が僕と同じ。
……言い表すなら、これは心強いと言うべきかな?」
それはこっちのセリフだ。
そんな意味を込めて、俺は笑いで返す。
「さて、じゃあ打倒エルヴィラに向けての下準備と行くか。
まずは今日の夜、俺はルガニスと話を付けてくる。
フリギアは俺の策に全面協力してほしい、構わないな」
「ああ、君は協力者から僕の大切な同志となった。
協力は惜しまないよ」
日は傾き、時計の針は19時を指す。
そんな時間に街道を走る一台の馬車があった。
「……お前って馬車も操縦できたんだな」
「あらぁ、意外だったかしらぁ?」
「そりゃな」
ネストは手綱を握りながら、ローブのフードを深く被りなおす。
しかしこうしてみると、俺は黒のローブで顔を隠し、ネストも鼠色のローブを身に纏う。
闇に紛れる暗い服装で、人通りの無い夜道を馬車で走る。
しかも同乗者は国際指名手配犯と来たもんだ。
自分の犯罪者街道爆進っぷりに、少しの含み笑いが零れた。
「さぁ、そろそろ到着よぉ」
ネストの声に顔を上げ、窓の隙間から外を見た。
月明かりに照らされた薄暗い道は、よく見慣れた建物が並ぶ。
その少し奥、広い敷地と美しい配色の屋敷が見えてきている。
ベヨネッタ邸まであと五分ちょっとという所か。
「……念のため言っとくけど、戦いになっても下手に応戦すんなよ。
基本は逃げ、これに徹することを忘れんな」
「わかってるわぁ。
出発する前に散々聞いたわよぉ~」
今回ネストを連れてきたのは、何も御者を任せたかったからだけではない。
昨日は本当に口で説明しただけだったから、そもそも俺がブルーローズという証拠の提示さえ出来ていない。
だが、ネストという大犯罪者をルガニスの前で膝まづかせれば、それだけで俺の素性と協力の証明になる。
まぁ、その分リスクも半端ないけど。
「……着いたわぁ」
俺はローブをひるがえしドアを開ける。
その正面に立っていたのは、昨日と同じペルパタだ。
「悪いな、出迎えてもらって」
しかし彼女から反応は返ってこない。
軽く俯いたまま、人形のように制止している。
「……どうした?」
ペルパタはようやく顔を上げた。
その眼は、明らかに敵意が向いている。
「私は聞いていません。
なぜネスト様がこちらに?
その方を私がご案内すれば、どれだけ信用に傷がつくと思っているんですか」
「おいネスト。
なんでボスの野郎はこいつに伝えてねぇんだ?」
ネストはもったいつけた風に笑いながら答える。
「必ず断るから。
……うふふっ、その子は自分の今いる立場を何よりも尊重する。
まぁ、それくらい自分で何とかしろって、ボスからの思し召しかしらぁ」
って事はだ。
今この場で彼女を説得して、屋敷に行かなきゃいけない事になる。
しかも早くしないと誰かが来てしまう可能性すらあるのだ。
さらにそれがセルバなんて事になれば、この先多くの障害が発生することは間違いない。
「ペルパタ、お前が案内しないって選択肢はあるのか?」
「ルガニス様からの直々の命令を放棄するメイドがいるとでも?」
彼女がスカートの下に手を入れた。
それはつまり、次の問答で得物を抜くという意味だろう。
そう、本当に時間が無いのだ。
俺にも、そして彼女にも。
「……仕方ねぇな」
でも、……この程度の事は随分と乗り越えてきたんだよ。
「ペルパタ、一秒だけ動くな」
彼女が俺の眼を見た。
その瞬間、俺の拳が目の前の女の子めがけて打ち抜かれた。
「ぐっ!」
腹に深くめり込んだ拳で、少女の体はくの字に折れる。
……というか折れてくれた。
反応に僅かな間があったし、今ちらっとこっち見た。
「そのまま寝てりゃいい」
苦悶の表情で膝を付き、地面に倒れこむペルパタ。
……きっと少しのダメージも入ってないんだろうけど。
むしろ妙に硬かった腹筋にやられて、俺の手首が悲鳴を上げている。
「うふふっ、考えたわねぇ~。
一発で気絶させたことにすれば、攻撃とは言え温情の範疇。
それに抵抗した証として彼女の評価も下がらない」
「そういう事だ。
んで、お前の仕事がもう一つ増えた。
案内役がいなけりゃ、屋敷の中へ入れねぇもんな」
「あらぁ、こんなメイドさんでも構わないかしらぁ?」
普通に構うけど仕方がない。
他に移動手段などないのだ。
「いいから行くぞ。
運が悪けりゃもう人が来る」
「うふふっ、はぁーい」
ネストの腕に抱えられ、俺の体は宙に浮く。
その圧倒的な脚力は俺の体重など感じさせぬほど、軽々と木々を伝い屋根へと足を付ける。
「さて、部屋はどこかしらぁ?」
「そこの右奥だ。
ベルパタにあんな事しちまったんだ
いっそ、お前の存在をよりアピールする意味でも、勢いよく行っておこうか」
「うふふっ、もとよりそのつもりよ〜」
それはそれで困りものだがな。
けれどまぁ、今はそれでいい。
「じゃあ、しっかり掴まっててね〜」
その言葉を聞いて俺が肩に手を回した瞬間だった。
なんの躊躇もなく、俺ごと屋根から飛び降りるネストに思わず声がでかける。
するとネストはスルリと曲剣を引き抜き、なぞるように窓へ走らせた。
それを視界で捉えた瞬間に、俺たちの身体はグンと空中でバネのようにしなった。
よく見ると、ネストの曲剣が窓枠の淵に引っかかっている。
「何者だ!」
ルガニスさんの声が響く。
その声とタイミングを合わせるようにして、ネストが動いた。
「お邪魔するわぁ」
たなびくカーテンと窓を斬り裂き、二人の侵入者が館の主と会敵する。
「よぉ、約束通り来たぜ、ルガニス」
剣を構え警戒する騎士団長を前に、俺はどす黒い悪人面を浮かべるのだった。




