143マス目 私はあなたを信じない
怒りに身が震える。
今にも飛びかかってしまいそうだ。
だが、落ち着け。
ククルの出血はひどいが、死んだと決まったわけじゃない。
すぐにあいつのキュアルナイフを使えば、助かる可能性だってある。
無謀になるな、無作為に飛び出すな、落ち着け、考えろ。
「……あらぁ、冷静になっちゃったわねぇ。
うふふっ、実力に反して場数はそこそこあるみたいねぇ」
ネストがすぐ俺を攻撃しないのは、俺から情報を得たいからだろう。
こいつらが捜している、竜の魔道結晶とかいう魔道具。
その情報を。
だったら、俺ができる事は一つ。
「……取引だ」
「取引ぃ?
うふふっ、何かしらぁ。
聞いてあげるわぁ」
俺は近くに置いてる木箱に腰を下ろす。
そして、灰色に染まる曇天を見上げつつ口を開いた。
「俺の知ってることは全部話す。
竜の魔道結晶のことも、ヴァーデのことも、
あとついでに、さっきお前を焼いた炎の秘密もオマケで話してやる。
……だから、その子から今すぐ離れやがれ!!」
「……いいわよぉ。
どいてあげるわぁ」
ネストはククルのそばを離れ、俺に向かって歩いてくる。
……これで終わりだ、何もかも。
今から俺はどっかに連れてかれて、想像もできないような拷問を受けるのだろう。
成功するかわからないが、拘束でもされたら舌でも噛み切るかな。
そんな事を考えながら、俺は視線を横に向ける。
俺を見下ろすネストの顔。
……笑っていない?
「遅いわよぉ」
「……何がだ?」
俺がそう聞き返すと、ネストは一瞬の躊躇も無く、自らの上着を捲り上げた。
胸が見えそうなほど大きく露出した肌。
だが、そんなものは少しばかりも気にならなかった。
「……傷?」
ネストの腹部に走る無数の傷跡。
いつもあれだけの戦いをしているのだから、古傷だったら別に驚きはしない。
けれど、俺の目に映る傷はあまりにも生々しく、真新しい傷跡。
「もう情報を貰っても遅いのよぉ。
ボスに叱られちゃったわぁ。
それにもう…………、私はあなたを信じない」
めくり上げた服から手を放すネスト。
その手は真っすぐ俺の方へ伸び、貧弱な俺の首を軽々と掴み上げる。
「うぐっ! 放…せ……ぐぅぅ」
今のネストから感じるのは狂気ではない。
底知れぬ、……怒り。
「今から言う事を、よ~く聞くのよぉ」
俺を高く持ち上げていたネストの手が、急に緩められた。
俺はそのまま落下し、水たまりに背中を打ちつける。
全身泥水まみれになった俺を、ネストは死人のような目で見降ろしている。
「二週間、猶予をあげる。
国王陛下の帰還と同時に、私たちは行動を起こすわぁ。
好きに足掻けばいい、無駄に抗えばいい。
でも、ボスは言ったわぁ、この国はもういいって。
……それだけ、今の言葉を誰に伝えようと構わない。
それじゃあねぇ」
雨の中、背を向けて去っていくネスト。
そして、その足が止まり、ネストは首だけをひねって俺の方を向いた。
「そうだ、これだけは言っておくわねぇ」
そういったネストの眼には一切の光が無い。
ただ笑いながら、ブチ切れている表情。
「私はあなたを殺すから。
絶対に、絶対に殺すからね」
雨の中消えていくネスト。
その後ろ姿を、俺はまばたきもせずに見ていた。
いや、まばたきすらできなかった。
体が動かない。
全身の神経が抜き去られたように、指一本たりとも動かない。
「……怖い」
震えてきた。
全身が。
さっきまでと打って変わって、震えが止まらない。
怖い。
怖い、怖い。
怖い怖い怖い怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
「……頭が、……おかしくなりそうだ」
吐き気がする。
首が焼けるように痛い。
寒い。
……なにか、ある。
…………赤?
「あ」
震えていた体が、……止まった。
俺はそんな事も気にせず、全力で駆け出した。
俺の感じていた恐怖。
それは今この瞬間、全く別の恐怖へとすり替わった。
「ククルゥゥゥゥゥーーーーーーーー!!!」
血まみれのその姿。
さっきまで、ナイフを使えば助かるだろうとあまい事を考えていた自分を殴りたい。
多量の出血にこの雨。
体温が馬鹿みたいに低くなっている。
完全に低体温症だ。
心臓は動いているが、手首からはもうほとんど脈が取れない。
「ちくしょう! おい、死ぬな!!」
俺は急いで上着とワイシャツを脱ぐ。
そして、引き裂いたワイシャツを出血部分に巻き付けるが、
傷が深いのかワイシャツがどんどん赤く染まり血が止まらない。
とにかく体を少しでも温めようと上着をかけたが、
これでは気休めにもならない。
その時、ククルの履くスカートのポケットから覗く、緑色の物に目が行った。
「これで、……助かるか?」
ククルのポケットから取り出す緑色のナイフ。
傷を治せる魔法のナイフだ。
しかし、問題がある。
「俺に使えるのかよ、こんな物」
もしも、魔力が足りないから魔法が発動しない、なんて事になったら、
俺がククルに止めを刺すことになる。
「これを使うより、医者に連れてくか?
……いや、間に合うわけがない!」
この世界は様々な道具で充実しているが、
一つだけ、元の世界とかけ離れたものがある。
……ネットワークだ。
情報共有の術は、新聞や手紙がほとんど。
通信結晶という物もあるが、あれは複数に連絡を取ることは不可能。
言わば、超遠距離対応の糸電話のようなものだ。
そんな物に頼ったところで、救急車が来てくれるわけでもない。
助けが来るのは一時間後?
いやもっとかかる。
街の人はさらに頼れない。
こんな商店街のど真ん中、人がいないわけない。
それなのに、いまだに加勢も無ければ通報すらされていない。
皆、厄介ごとに関わりたくないのだ。
そうなるともう、打つ手は俺の手に握られた、小さなナイフ一本だけ。
「……頼む。
頼む頼む頼む!!
こいつを、ククルを救ってくれ!!!」
俺は懇願するようにナイフを振り上げると、
僅かな躊躇と共に歯を食いしばり、手の震えを押し殺すように振り下ろした。
「だらああああああぁぁぁぁぁぁーーーーーーーー!!!」
振り下ろされた切っ先。
ククルの腹部めがけて、決死の覚悟で振り下ろした。
俺は全力で振り下ろしたんだ。
…………何でだよ。
「なんで弾かれんだよ!!
クソッたれがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
魔法障壁。
この世界の人間なら、誰でも最初から持っている魔法。
肉体を覆う魔力が、外からの魔力を弱め、小さすぎる力は弾いてしまう。
前にヒゲ爺に教えてもらったものだ。
それが今、俺の前に巨大な壁のように立ちはだかる。




