路地裏の影
ここからが本当の始まり
「ん?」
薄暗いくぼみを覗いていた玉璃は後ろで微かな物音を聞き振り返る。一瞬目に入ったのは感情を感じさせない濁った橙色の光。それが何なのかを理解する前に玉璃の体に衝撃が走った。
自分かそれより大きい質量の物がぶつかったような感覚、そして身を裂かれるような痛み。その一瞬の出来事で玉璃は道の端から反対の端まで吹き飛ばされていた。
「う!!?」
玉璃は道の端まで吹き飛び転がる。ものすごい衝撃と身を引き裂かれるような痛みに混乱し、自分の身に何が起こったのかわからなかった。衝撃の感覚と体に走る痛み、混乱する頭の中で何が起こったのかを理解するために、無意識のうちに体を丸めながら顔を上げた。
ぼやける視界の中に入ってきたのは、先ほど自分が覗いていた暗がりからだいぶ離れた場所にいる光景、そして先ほどまで何もなかったはずの暗がりに動く何かの存在がいるということ。
それは背中を向けているが自分より一回り以上大きく毛が生えており、何かを食べているような仕草をしていた。
ぼんやりとする頭に、体に走る痛みがズキンズキンと鞭を入れるかのように響いていた。
だんだんと明瞭になっていく視界に目をこらし動く物体を見ていると、何かを食べ終わったのだろうか?暗がりで動く物体はその動きを止めていた。その存在に不気味さを感じ、痛みに動かない体を引きずりながら背後に下がろうとした。
一瞬、暗がりの中の物体がぴくんと小さく体を震わすと、その体を少しずつ玉璃の方へと向けていく。
「ひぃっ!!」
その物体は体だけでなく顔中に毛で覆われており、その目は鈍く濁った橙色の目をし、口にはだらしなく唾液を垂らしながら不揃いな歯が生えていた。何となく面影はネズミのようにも見えたが、それにしては顔も体もおかしな異形の姿をしていた。
その異形の物体はその目を玉璃に向けると、今まで無感情だった目を敵意と殺意を込めながら、獲物を見る目に変化させていた。その目を見た瞬間、ついさっき自分に起きた出来事を思い出す、それと同時に未知の恐怖に体を震わせ悲鳴を漏らす。
玉璃はそれが今何を食べていたのか、や目の前の化け物が一体何なのかを気にする余裕もなくただ1つのことだけを考えていた。
「に、にげ、にげ、な、きゃ」
力の入らない足で何とか立ち上がろうと動かし、よたよたと体をそれの反対方向に動かす。それはまだ食べ足りないように涎を垂らし、玉璃の事をにらみつける。
溜りが腰を浮かして立ち上がろうとした瞬間、その異形の存在は再び玉璃に向け飛び掛ってきた。
「いやぁ!!」
玉璃は力の入らない体を捻って力の無い足で横へと転がった。異形の存在はその勢いのままさっきまで玉璃がいた場所を飛んで行き、そのままゴミの山へと突っ込んだ。
異形はごみの山から抜け出そうともがいており、玉璃はそこから逃げ出そうとよたとたと走り出した。
「ハァ、ハァ、な、何で?夢の中なのにこんな怪物が出てくるの?く・・・、ハァ、それに体中が痛い、夢なら早く覚めてよぉ!」
今まで夢の中だと思ってた出来事を、体中を走る痛みが現実だと囁いてくる。理解したくないその事を走りながら否定して叫ぶ。
「そ、そうだ!飛べば!飛べば逃げれる!」
自分が飛べた事を思い出し、背中の羽に力を込め飛ぼうと試みる。しかしさっきまで自然に飛べていた事が嘘のように体に浮く感じはしない。
「どうして!?どうして飛べないの!」
希望が見えた矢先にそれが打ち砕かれ、心が、体が、絶望という恐怖に襲われる。
「これは夢これは夢これは夢これは夢これは夢」
自分に言い聞かせるようにつぶやきながら、夢なら感じることがない痛みに疲労感に目を背けながら言う事を聞かない足を引きずって必死に走った。その思いを打ち砕くかのように背後で一際大きな音が鳴る。信じたくない現実に目を背けながら後ろを振り向く。
そこにはゴミの山から脱出し、獲物だと考えていた相手に足を掬われたと怒りを表情に纏わせ、さらに凶悪になった怪物がこちらを見つけたところだった。
玉璃の心臓はもうこれ以上はないと思っていた限界を超えて鐘を鳴らす。そして視界の先の怪物がこちらに向けて走り出す。
「もう・・・だめ・・・!」
鉛のように思い足は思うように動かない、諦めに似た絶望感に目を瞑り闇の中を走る。
背後に迫る音に覚悟した時、前から何か気配がしたと思ったら体のすぐ横を何か大きな物が通り、『ドン!!』と後ろで何かがぶつかったような音が聞こえた。
荒い息と体の震えに身を揺らしながら振り向くと、そこには先ほど追いかけてきた猫が怪物との間に立ちはだかっていた。
「フシャーー!!」
怪物を威嚇するように声を上げ、目の前の異形に立ち向かうその姿は頼もしく、勇猛果敢な勇者にも見えた。斑の模様のふわふわの毛を今は逆立てながら鋭く視線を怪物に向けると、怪物は先ほどまでの勢いを失い体を小さくしたのかと見間違えるほどに萎縮していた。
今だ何が起こったのかわからず混乱する頭を上に持ち上げると、その猫は首を少し傾けて視線をこちらに向けていた。視線の意味は玉璃にはわからなかったが、その猫は再度視線を怪物に向けると「シャーー!!」と大きく声を鳴らし向かっていった。
何故か怯えて体を小さくさせていた怪物であったが、敵うまいと思ったのか猫に背を向けて逃げ出そうとして、猫はそれを許すまいとそれを上回る速度で追いかけていった。
玉璃は短い時間に起こった出来事に呆然としていたが、周囲に静寂が戻ってきたことで少しずつ冷静になってきた。
「た、たすかっ・・・た?」
そう思えるようになると先ほど自分に起こった出来事、生まれて初めて命の危険を感じた事に体を大きく震わせへたりこむ。
どれくらいそうしていたかはわからないが、震えが少し収まり自分の周りの事に気を回せるようになってきた。
そこは入ってきた時は気にもしなかったが、薄暗く湿気ていて、崩れた壁やゴミ・ガラクタがそこかしこに散在した人工の迷路のような路地である。
どこからか水滴の音が響き、複雑に入り組んだ道を風が通り何かの鳴き声のようにも聞こえる。そして今の自分はなぜか飛べず、ここから抜け出そうにもまたいつあの怪物が襲ってくるかわからない現実に脂汗を全身に流し、歯は小刻みにカチカチと音を鳴らしていた。
とにかくここではないどこかへ!そう思い玉璃は走り出す。走れ!走れ!そう足に言い聞かせ走り続ける。
だが、見えてくるのは似たような壁、似たような光景、今自分がどこにいるのか、どこを走っているのかわからない。恐怖から逃げるように、これが現実だと信じたくない一心で玉璃は走り続ける。
そのうち足が重くなり前に動かなくなるとその場で膝をついた。ぼーっとした視線を右にやると壊れた食器や小さな家財道具が置かれたガラクタの小さな山を見つけると、その隙間に体を隠す。
狭く居心地の良い場所ではないが、周囲から見つからないその場所は一時の平穏を玉璃に与えてくれた。
ガラクタの中に座り込み体を置かれた木の箱の上に横たえると、一気に疲労感が体にずしっと襲い掛かってくるのを感じ、意識が瞼の下に沈んでいくのを感じた。