第十四話
南肥前を降し、龍造寺水軍を創設及び編成。ついに肥前統一を成し遂げた。
佐嘉ではお祭り騒ぎとなっていた。むしろ俺が触れを出してお祭りにした。
三日三晩無礼講で宴を催すことを通達。また、警備の兵は交代制にして皆が
楽しめるようにした。一度ならず二度三度と滅亡の危機に瀕してきた我らが
龍造寺であるが、ついに肥前統一という大事業を成し遂げたのだ。少しくら
い騒いでも罰は当たるまい。長年うちに仕えてきた者のなかには感激の余り
泣き出す者もいたという。
しかし、俺たち上層部はこの結果に一定の成果を見出しはしたが、最早この
程度で満足はしていない。これから筑前、筑後、肥後に討ち入り九州統一を
目指すのだから。もちろん一筋縄ではいかず、幾度も難儀するであろうこと
は承知の上だ。
俺は家老たち上級家臣を招集し、今後のことを諮った。
まずは、肥後の件。
当初は肥前の次は筑後の予定だったが、水軍を運用できるようになったため
肥後に橋頭堡を築くことにした。有馬が滅んだ南島原から、肥後方面へ進出
する道を確保することが出来た。即ち、天草を通じて宇土へ到達するルート。
そして長崎から水軍で天草を廻り、芦北に至るルートだ。これを併用運用し
たいと、島原に置いた納富能登には言い含めてある。
そして長崎を領し水軍も所轄する深堀と、高来の中央を領す西郷あたりにも
ある程度察せるように匂わせておいた。そうすることで、いざ指示を出した
時に円滑に動きだすことが出来るだろう。
肥後に入るには当初筑後から南進のみを考えていたが、他にも道があるなら
使わない手はない。また、肥後には早くから誼を通じている隈部刑部がいる。
これを介して更に手を広げるのだ。城と阿蘇、相良とは繋ぎをとっておきた
い。いずれ薩摩の島津ともぶつかることが予想される。行動は早く広くする
に越したことはないだろう。
そう、問題は薩摩の島津だ。正史で隆信の自業自得を除き龍造寺凋落の最大
の要因たる島津である。これを抑える必要があるのだが、一方で島津は大友
に対する最大の手札でもあるため、時期を見誤らないよう気をつけねばなら
ない。日向の伊東を支援するという手もあるにあるが、奇策の類であり現状
でのは対応難しい。流石に遠すぎる。
肥前周辺にあってそのあたりの詳細を知る者は少ないので、差し当たり島津
の一族で、本流から弾かれた島津修理あたりと繋ぎをとってみようと思って
いる。
大友の勢力が衰えてからは外征三昧になるだろう。筑後、筑前、肥後、その
先に豊前と薩摩か。しばらくは破竹の勢いとなるだろうが、増徴慢心そして
深入りには要注意だ。ま、この辺は追々だな。
中休み、前半。




