5 終末の風
5 終末の風
エレノア・ヴァンシュテルンは、実に見事な手腕で獣人たちからアグスティを解放して見せた。市外に獣人部隊を誘き寄せた隙に伏兵を走らせ、王宮その他の主要施設を瞬く間に取り返した。そうして時間を掛けずにアグスティの内と外より獣人を攻め立て、まさに完膚無きまで叩きのめした。
イオニウムの旗という旗は下ろされ、アグスティ市内の至る所にミスティンの国旗が掲げられた。<北将>の帰還に虐げられていた市民は沸き、王家と騎士団への喝采が止まなかった。
遡れば、イオニウムのスペクトル城から獣人部隊が出撃し、それを掴んだエレノアはアグスティ方面への増派かと警戒したものの、結局のところ一団は謎の西進を敢行した。はじめクルスやアムネリアが何事か仕掛けてくれたものかとも考えたが、エレノアは敢えて思案を絶って王都奪還に着手した。
ミスティンの国内各地に散っていた他軍団所属の騎士や義勇兵、神殿諸勢力も、エレノアの蜂起に合わせて一斉に立ち上がった。これを工作して回ったのがワルド・セルッティであり、ミスティンに残った彼やフラニル・フランはよくエレノアの補佐に努めた。
最終的にアグスティ駐留の獣人軍を打ち砕いたのは、バイ・ラバイ率いる第三軍の精鋭部隊であった。エレノア自身は後方に陣取ったのだが、これは黒の森のダークエルフ部隊を警戒したが為で、実際に隠密で行動している十人規模の暗殺者が確認された。
<フォルトリウ>の盟約に忠実なエストの手の者達はしかし、エレノアの網から逃れられずに使命を放棄して引き上げた。同じくイオニウムに同調する意思を示していたオズメイ北王国では、群狼騎士団を筆頭とした諸派による反<フォルトリウ>運動が勃発し、加えて東部はセントハイム伯国による対魔防衛ライン諸国への働きかけもあって身動きが取れずにいた。
アグスティの王宮の二階。そこに暫定の執務卓を置いたエレノアの下へはひっきりなしに指示を仰ぐ騎士や官吏が訪れ、会見待ちの行列は城外にまで連なった。彼女としてはこのままイオニウムに鉄槌を下すなりカナル軍の援護に出るなり兵を動かしたかったが、王都解放の余波は想像を超えてエレノアの時間を奪った。
「将軍閣下!大変です!」
「大変という言葉を今日だけで何十回と耳にしました。冷静に考えれば、真に大変な事態というものはそんなに存在しないのでしょうね。……それで?」
列に割り込んで注進へと飛び込んできた騎士の顔を軽く睨み、エレノアは書類に署名をしながら続きを促した。
「ラムダ・ライヴが……オズメイの鐵宰相が、直接乗り込んで来ました!いま第四中隊下の二個小隊が市外から連行して参ります!」
エレノアの手はぴたりと止まり、目の端がゆっくり吊り上げられた。全ての陳情は直ちに止め置かれ、エレノアとラムダの巨頭会談が実現した。
年齢不相応に黒い髪を後ろに撫で付けたラムダが執務室へ入るなり、エレノアは眼光も鋭く切り出した。
「<フォルトリウ>の座で顔を合わせて以来ですね。鐵殿」
ラムダは勧められた椅子に腰掛け、正面からエレノアを見返した。長旅であった筈だが、燕尾服には皺の一つも浮かばせず、文官ながらに武人たるエレノアの気勢を浴びても怯みを見せなかった。
「<北将>殿。貴殿が盟約から離脱などしなければ、ミスティンもこのような動乱に巻き込まれたりはしなかったのだ。……同様に、我がオズメイの地位も盤石であった筈だ」
「あら。鐵宰相ともあろう御方が、わざわざ泣き言を言いに来られたのですか?うちの姫様にお灸を据えられた人物とは別人なのでしょうか」
「是非もない。あのクルス・クライストとやらに一杯喰わされた。こうなれば、和睦を申し出るより他にない」
「当方と休戦すると?それでは<フォルトリウ>の意向に背くことになるのでは?」
「貴殿とセントハイムに挟まれたのでは、騎馬軍団の威勢も五割減だ。おまけに身中の虫が制御の出来る段階を超えた。もはや<フォルトリウ>絡みの執行を秘密にはしておけん。……貴殿とクルス・クライストが群狼に余計な話を吹き込んでくれたようでな。これ以上は我が国の政治的統制に重大な支障を来す」
「鐵殿がその気でも、肝心の群狼の意向はどうかしら。今の貴方に国内の総意が取り付けられて?かつての貴方の言い草ではないけれど、此度の貴方の提案に心揺さぶられるものはありません。履行の信頼性からも、そして実益からも」
回答はそれが全てだと言わんばかりに、エレノアは椅子の背凭れに寄り掛かった。挑戦的な瞳に揺らぎは生じておらず、ラムダは相手が掛け値なしにそう思っているのだと見抜いた。
事実エレノアは、オズメイの抱える軍事力を物量面以外で然程評価していなかった。それは、対魔防衛ラインの要という地位にありながら戦闘経験が少ないという実勢と、魔境に隣接しているが故の動員限界をエレノアがよく調べ上げていたからであった。
さらに言えば、ラムダの進める重商政策が騎士団をも金満体質に染め、国家に忠義を尽くす騎士の輩出に良からぬ作用を及ぼしている点をも把握していた。
「意趣返しのつもりだろうが、手土産ならある」
ラムダは決して強がりではなく、はじめから想定していた流れの通りに手札を示した。
「ほう?お聞かせ下さい」
「近く<フォルトリウ>の緊急会合が開かれる。幹部にのみ、招集指令が出されている」
エレノアは拳をきつく握った。
「提案者と、議題は?」
「魔境だよ。混沌の君が招集した。議題には<創世>とあったが、具体の内容説明はない。そして、私からの手土産はこれへの手引きだ。貴殿やクルス・クライストが<フォルトリウ>と事を構えていることは知っている。ビフレスト行脚と此度の混沌の君の仕掛けには、裏で何か繋がりがあるのではないかな?……当然私には会合の案内がきている。そういうことだ」
ラムダのこの辺りの駆け引きは見事であった。彼は<フォルトリウ>の主要メンバーと言えど、一政治家に過ぎない為にアケナスの覇権を狙う意思に乏しかった。現実主義者であり、オズメイ北王国の発展を一義に置くラムダにとって<フォルトリウ>はあくまで手段に過ぎず、この盤面においては切り捨てることすら厭わなかった。
エレノアに便宜を図ることこそ提示すれど自身が体を張るわけではなく、ましてやミスティンやカナルが<フォルトリウ>と全面対決に及んだとて、相対的にオズメイの力が増すのであれば歓待すべき立場であった。食い付きの良い餌を相手に選択の余地がない場面で放ることで、自身のリスクを最大限まで低下させていた。
対するエレノアにはオズメイ群狼騎士団とのパイプがあり、その連中にラムダの近親を騒がさせるといった直接的な手がまだ残されていた。
(ここでオズメイを弱体化させることにそれほど意味はない。国家間の力学だけで物事を考えるならば、鐵宰相の政治生命もオズメイの国力も成る程、重大事には違いない。だが四柱や<フォルトリウ>のようにアケナス全土を揺るがす銘柄にまで話が及んだ場合、オズメイ一国の盛衰は影響の因子に相当しない……)
「……休戦の条件をどうぞ仰ってください。こちらからは一つだけ。貴国の無駄な介入で獣人の占領が長引きました。その代償を、賠償金として支払っていただきます。当然、一文足りとも負けては上げられませんが」
***
フラニル・フランは、ミスティンの第二王女・アンナの付き人宜しく傍に身を置いていた。清掃や修繕に忙しない王宮からは離れ、エレノアの第三軍が本拠地とする騎士団庁舎の最上階にアンナの席は設けられていた。
アグスティの治安維持を含め政治活動の全般は将軍位にあるエレノアが代執行していたので、アンナに要求される実務は少なかった。そこで彼女は率先して、王族をはじめとした貴族や神官の安否を確認して回った。カサールやイリーナといった兄姉の無事は把握していたが、オランド公爵やリスキール侯爵といったかつての国柱は皆獣人の手に掛かって命を落としていた。
王女の周りを元盗賊が彷徨いては体裁も悪かろうとワルド・セルッティの遠ざかった結果、フラニルはアンナの警護に手伝いにと目の回るような繁忙に見舞われた。オズメイの鐵宰相がエレノアを訪ねたこの日も、夜になって尚精力的に手紙などしたためるアンナから目を離せず、フラニルは扉の外で壁に寄り掛かった姿勢で周囲を警戒していた。
(カナル軍とベルゲルミル軍の決戦はどうなったんだろう……。クルスさんやアムネリアさんに限って、そう簡単に負けたりはしないのだろうけど)
大戦に参加の出来ぬ身の上を少しばかり哀れみ、それでもフラニルは自分に任された責務を放棄するようないい加減な性分ではなかった。それが故に、彼の警戒網に不審者が引っ掛かった。
庁舎の最上階は至る所に魔法による索敵装置が仕掛けてあった。それによりフラニルは扉をノックしてアンナに注意を促し、自分は腰の剣を抜いて集中力を高める余裕があった。
「止まれ。お前の動きは感知している。斬られるのと魔法で撃ち抜かれるのとでは、どちらが望みだ?」
「……私だ。当然敵意などあろう筈がない」
階下から二本の足で上ってきた男は身形こそ小綺麗であったが、目の下には酷いくまが浮かび、頬は痩けて無精髭の目立つ疲れた面相をしていた。フラニルは直ぐには気が付かず、記憶を頼りに面影から男の正体へと辿り着いた。
「イオス……グラサール将軍ですか?」
「……そうだ。ヴァンシュテルン卿への目通りが叶わず、ここへ来た。アンナ王女に会わせてくれ」
「用件は何です?」
「そなたに話す義理などないのだがな。無論、戦後処理の相談に決まっている」
「今更出てきて……」
フラニルに疑いの眼差しを向けられ、イオス・グラサールの頭に血が上りかけた。彼は怠惰な貴族とは趣を異にし、元来強い正義感を宿した騎士であった。恥を知るが故に自身の体たらくをいたく責めており、フラニルの反応はその傷を抉るものと言えた。
肩や唇を震わせるイオスの様子にフラニルは警戒心を強くしたが、扉の向こうから入室を許す声が掛かった為大人しく道を譲った。行き掛かり上アンナを警護しているに過ぎないフラニルにとって、かつて仲睦まじかった第二王女と将軍が不幸な立場で邂逅しようがさっぱり興味は湧かなかった。
一時的にとはいえセントハイムでパーティーのリーダーを務めた経験からか、フラニルの所作には落ち着きが備わり、考え方も大人になったとワルドから評されていた。フラニルはルガード戦で犠牲になった仲間たちへの悔恨の念を忘れておらず、己の振る舞いが周囲に及ぼす影響を絶えず熟考していた。
(評判が地に堕ちたとは言え、グラサール将軍も元は一軍の大将。無下に扱わず自陣に取り込んだ方がアンナ様にとっては有利であり、ヴァンシュテルン将軍への牽制にもなる……か。政治なんだろうな)
アンナとイオスの会談が始まって暫くの間、フラニルは扉の外で黙して待った。何かあれば室内から呼び出しがあろうと、以前と変わらずに警護の任へ戻った。
奇しくもワルドがひょっこり顔を出したちょうどその時、アンナとイオスも連れ立って退室してきた。顔を見合わせたアンナとワルドが互いに苦笑を浮かべた。
「ワルド・セルッティ。久しぶりに顔を見ました」
「王女様に置かれましては、御機嫌麗しゅう。この見苦しいなりで御目を汚してすみませんね」
「私の方は、汝を避けている気はないぞ」
「お気になさらずに。しがない元盗賊の身ですから、その辺りは弁えていますぜ。敢えて花園に近寄ろうなどとは思いません」
その言い回しにイオスは眉をひそめたが、ワルドは歯牙にも欠けずフラニルへと向き直った。
「連戦連勝のカナル軍に土が着いたぜ。本国から北進した大部隊が<翼将>の野郎に蹴散らされたらしい。どうやらレイバートンで決戦という運びになりそうだ」
「クルスさんとアムネリアさんは?」
フラニルに一瞬遅れて、アンナも同様の質問をぶつけた。
「クルスに限って、戦死してはいまいな?」
「個人の状況までは分からんねえ。<北将>のネットワークが掴んだ情報だ。これ以上の精度はどこにも望めないだろうよ。……だがまあ、あいつらに何かあったら、敵さんの方から率先して喧伝しそうなもんさ」
ワルドは顎を擦りながら飄々とした態度で応じた。フラニルは頷きを返し、私的な質問を重ねた。
「ですね……。ワルドさん、今から駆け付けて間に合うと思いますか?」
「レイバートンにか?俺達だけで?そんなもの戦力的にさして意味はないし、到着する頃にはクルスか<翼将>のどちらかがあの世行きになってそうなもんだ」
これにはイオスに止まらずアンナすらも柳眉を逆立てたが、フラニルはいちいち構わないで先を続けた。
「ヴァンシュテルン将軍にベルゲルミルへの派兵をお願いしてみようかと思います。決戦の場に届かずとも、救護などの事後支援くらいは出来るでしょうから」
「オズメイは手打ちを望んでいるようだが、イオニウムの動きが依然不気味なままだろ。それを差し置いてカナルとベルゲルミルの戦にちょっかいを出すというのもな。……断られるのが落ちだとは思うが、止めはしねえよ」
「ヴァンシュテルン将軍がここを奪還出来たのはカナルとの同盟のお蔭です。分かってくださいますよ、きっと」
肩をすくめてフラニルへと応えたワルドは、訪問の意図が済んだとばかりに早々に引き上げた。イオスもそれに続いて庁舎を去り、後にはアンナとフラニルの二人が残された。
アンナは扉に手を掛けたところで立ち止まり、少しの間俯いてからフラニルに話を振った。
「クルスは勝つ。数奇な運命を持つあの男のことだ。必ずや<翼将>をも退けるであろう」
「はい。僕もそう思います」
「…だがその暁に、クルスは再びここに戻って来るであろうか?」
アンナの碧眼に浮かんだ不安の色を察したフラニルは安易な回答を避けた。彼はクルスとネメシスの交遊を知っていたし、そもそもミスティン入りしたのは四柱の情報を得んが為であって、決して仕官先を探して選択した訳ではなかった。
「私は思うのだ。あの男が私と共にあってくれるなら。ヴァンシュテルン将軍と並んでミスティンを守護してくれるなら、十代先まで繁栄の約束された国作りも出来ようと……」
そう続けるアンナの顔を見ていられず、フラニルは目線を落とした。
(クルスさんが<リーグ>の傭兵として、活動の本拠をミスティン王国に置いていたならば。ネメシス様ではなく、先にアンナ様と出会っていたなら。……それこそアンナ様が仰有られるように、夢想に過ぎないのだろうけれど。運命なんて所詮そんな程度のものでしかないんだ)
他日、エレノア・ヴァンシュテルンはフラニルの嘆願に耳を貸し、ベルゲルミルへの派兵を支度させた。しかし状況は直ちに急転し、ベルゲルミル入りが果たされることはなかった。
バイ・ラバイが率いる部隊の偵察行動により、スペクトル城に集う異数の軍団が目撃されたのであった。




