翼と雨の騎士-3
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アムネリアの負傷度合いは深刻で、ノエルやゼロが魔法で代わる代わる治療を施した。全身には包帯が巻かれ、特に背中の傷が思わしくなく、それはダメージの元が古代に練られた魔法技術に因る為であった。
明日にも陣を払うという段で、アムネリアは特別に用意のされた小型天幕に伏せっていた。それを見舞っているクルスは、己の迂闊さからアムネリアに庇われたことを猛烈に悔やんでいた。
枕元に気配を感じたアムネリアがうっすらと瞼を開いた。黒瞳に負の感情は浮かんでおらず、上半身だけを起こしてクルスと向き合った。
アムネリアの意識が戻ってから二度目の訪問で、謝罪しきりな点を前回責められていたので、クルスはそれをしなかった。アムネリアは滅多に見せない微笑を美貌の内に湛えて、優しい声音でクルスに訊ねた。
「ラファエル・ラグナロックとの決戦が近いのだな?」
「ああ。明日にも進発して、衝突まで二日とかからない見込みだ」
ラファエルの銀翼騎士団は白騎士団本隊を散々に打ちのめすと、トンボ返りでレイバートンの主城を目指していた。情報を分析するに、雨騎士団やベルゲルミル公国騎士団残党との合流を果たし、ネメシスとの直接対決を狙っていると考えられた。
他方、ロクリュウ男爵を失った白騎士団の敗残兵は、少なからず自力でネメシス隊の下まで足を運び、僅かながらに戦力の補充となっていた。その者らの話を聞くに、ラファエルは鬼神の如き猛攻で白騎士団を破壊していた。
負傷を抱えつつも生還した、エマーソン・イシャスというロクリュウ将軍の副官の一人は、ラファエル自らが先陣を切って突入してきたと供述した。「暴れ回って手のつけられない怪鳥と、信じられない速度で剣と魔法を繰り出してくる<翼将>……一時たりとも止められませんでした」と、震えた声でネメシスへ申し開きがなされた。
「下手な気負いがないようで何よりだ。案ずるな。そなたらであれば、勝つ目もある。ノエルやフィニスの援護に期待せよ。……そんなことではなく、戦の外で言いたいことがありそうだな」
軽装甲が解かれたアムネリアの薄い上衣から目を逸らせたまま、クルスは彼らしくない神妙な態度でぽつりぽつりと語り始めた。
「……全てが、徒花を咲かせるようなものだったのか?ヴァティに拾われて、彼女の助けになりたい一心で悪魔と戦ってきた。そして戦いの果て、新しく得た世界の大半を失った。それを恨みになおも悪魔を狩り続けた。出逢ったネメシス様の悪魔に対する純粋な怒りに己の勝手な復讐心を重ね、利用した。全てはヴァティの志に端を発していた。全ては、彼女の意志を実現するために。だが、ヴァティは……」
「悪魔勢において最上位と言って差し支えのない、四柱の転生せし存在である……か。これはウィグラフの与太か誤認という可能性もあろう?」
クルスはアムネリアの言うように余程ウィグラフの言を疑いたかったが、地位や実績の相応なあの男に限り無意味な嘘などつくまいと考えていた。サラスヴァティが四柱だなどという話は一見荒唐無稽に感じられた。しかし彼女の並外れた行動力や規格外な実力の裏付けがなされたような気もして、クルスは気が気でなくなった。
沈鬱な表情をして黙るクルスに対し、アムネリアはあくまで穏やかな声音で言って聞かせた。
「よしんば、勇者サラスヴァティ・レインがそのような縁者だったとして。彼女の志が丸々アケナスの破壊へ向いていたとは限るまい。少なくとも私が聞いている範囲では、サラスヴァティという御仁は古城で巨人と対するまで、人々に害を及ぼす悪魔や魔獣の類いをよく征伐していたという。彼女と一緒にいたそなたが、それを一番に知っているのではないか?」
クルスはいまいち気が乗らない素振りで頷いた。アムネリアは敢えて意見を誘導しようとはせずに、クルスの考えるに任せた。
幕外の慌ただしさとは打って変わり、アムネリアの寝所には静かな時間が流れていた。硝子の水差しから杯へと水を注ぎ入れ、アムネリアは喉を小さく鳴らしてそれを飲み下した。
ふと気付き、アムネリアは優しい当たりで質した。
「ラクシュミ・レインは、サラスヴァティ・レインと姉妹ではなかったか?」
「……ああ。ラクシが妹にあたる。性格は似ても似つかなかったが、顔立ちや声は瓜二つだった。生まれはよく知らないが、言葉に辺境特有の訛りはなかったな」
アムネリアは目を瞑り、ラクシュミに関して黙考した。<戦乙女>となった彼女しか知らないアムネリアに何が分かるとも思えなかったが、そもそも古代の秘術に因るとは言え、ただの人間が従神に変じてペンダントに宿ることなど有り得るものかと立ち返った。
(勇者サラスヴァティが四柱の力を継承した超人だと仮定して。血の繋がりがあるラクシュミだけ無縁というのは考えづらい。第一、二人して異数の戦士だと言う。然るにラクシュミの<戦乙女>化は、彼女とクルスの魔法暴走だけが原因ではなかったのではないか?そこに別次元の力が介在したならば現象の根拠と考え得るし、姉妹と四柱の関係性を証明することに繋がるかもしれない……)
天幕の外から掛けられた遠慮がちな声に、アムネリアははっと我に帰った。
「クルス様、間も無く先陣が出ます。陛下とアルテ・ミーメ様が御呼びです」
レイの呼び出しに返事をし、クルスは膝立ちから起き上がった。
「充分とは言えないが、黄竜の小隊を置いていく。元気になったら、国元までの帰還を指揮してやってくれ」
「構わない。捕虜や負傷兵の管理も任せておけ。……クルス、仲間を頼むのだぞ。腹の内で何を考えていようと、今となっては<翼将>や<雨弓>が戦に手を抜くことなど有り得ない。やるからには、そなたは陛下を勝たせねばならん。話はそれからだ」
「ああ。肝に命じておく。元より十天君個々の強大な力には、陛下の下に参じた勇士の総力を挙げて臨む心積もりだった」
「それと、陛下が心配だ。敵地での強行軍に連戦。そして長年仕えたルカ将軍の戦死。お優しい陛下の御心を蝕まない筈がない。気丈に振る舞われてはいるが、あれは仮面であると心得よ」
「今更おれに女心を説くのはアムだけだな。待合室の空気から娼婦の機嫌をも当ててみせる、このおれに」
「無価値な能力を誇られても困る。いいから陛下への気遣いを怠らんように」
クルスは軽い笑みだけを残して座を後にした。アムネリアは傷と体力の回復に専念するため、間を置かずに眠りに落ちた。
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「ラファエル様。雨騎士団と公国騎士団の指揮系統の統合を完了しました。御指示の通り、戦術指揮はジットリス卿に委任してあります」
「御苦労。イシュタルは部隊に構わず遊撃に集中してくれ。こちらも用兵はライカーンに任せる」
「……では、やはりラファエル様が切り込まれるのですか?」
「ウィグがいないのだから、他に選択肢は見当たらないな。幸いファラウェイは重篤と聞く。私がクルス・クライストを斬れば程無く決着するだろう」
隊列を整えながらに進む張りつめた軍中にあって、イシュタルとラファエルという麗人が二人馬を並べて談義していると、そこだけがまるで劇場の舞台のように華やかに映った。銀翼騎士団だけでなく、他の二騎士団の騎士たちもこの十天君の武力と容姿を崇拝しているたちで、姿を見掛けるだけで胸中に自信と戦意が高まるのを実感していた。
無数の蹄が大地を蹴り、視界を覆わんばかりにもうもうと土煙を立ち上らせていた。霧もすっかり顔を出さなくなり、空気は乾燥して砂ぼこりが鬱陶しくも舞い躍った。
レイバートンの主城から一日以上離れた地点でラファエルとネメシスの両軍は接触する予定で、互いの偵察行動からその時が間も無く訪れることを承知していた。それ故にジットリスなどは額に汗して急造の混成部隊を整えていたが、銀翼騎士団の大半はそれを冷ややかな目で眺めていた。彼らにとり結局のところ勝負どころはラファエル・ラグナロックが握っているのであって、それは先のカナル軍を少数戦力で破った実績からも確実と言えた。
そして、ベルゲルミルが連合王国全体の命運をこの一戦に委ねている点も明らかであった。
「ソフィアからの便りは相変わらず無いのですよね?」
「ない。あったところで間に合うまい。そもそもウィルヘルミナ女王がどこに大義を置いているかによる。対カナルの戦略を、自国の防備を空にしてまで取り組むべき命題と捉えているか」
ラファエルは涼しい顔でさらりと言ってのけた。
「ですが、アンフィスバエナがいます。あの男の統率力であれば、マジックアカデミーの人材を勝手に動かして駆け付けても不思議はありません。彼の主たるグラウス王はレイバートンにいるのですから」
「<鬼道>にそれほど不信感はない。ミスティン王国の諸派がクルス・クライストと昵懇である以上、誰かが盾の役割を果たさねばならんとあの男も気付いていよう。むしろ戦後を見据え、独自に外交を始めていても驚くに値しない」
「ラファエル様。それは……」
ラファエルの真意を掴みきれぬイシュタルは、その発言からソフィアの連合王国離脱のみならず自軍の敗北をも占っているかのような不吉さを覚えた。
馬上で小さく身震いしたイシュタルを労る意図からか、ラファエルが珍しくも軽口を叩いた。
「私がネメシス帝の喉元に剣を突き付ければ、ものの数日で平穏は戻る。その暁には、ビフレストにでも旅をするか?」
「旅……ですか?それでしたら、二人旅が望ましいですね。ビフレスト入りするには資格が足りませんが」
「そうだな。現地合流でウィルヘルミナ女王や<鬼道>、モンデ皇子らにも御足労いただくとしよう。鍵には足りぬが、ジットリスであればクラナドの誤謬にも何か気付いて見せるかもしれん」
「ラファエル様!……十天君をビフレストに集結させ、クラナドへ上ると?」
イシュタルの驚きを気にした風でもなく、ラファエルはまるでピクニックにでも行こうと言わんばかりの調子で先を続けた。彼の発言に合わせたわけでもなかろうが、肩に掛けられたアイギスの盾が太陽の光をより強く反射して輝いたようにイシュタルには思われた。
「諸悪の根源たる霧の魔神を、そろそろ狩ろうと思う。それにはクラナドの秘密を知ることが欠かせない。ガフロンやスワンチカは惜しかったが、残された十天君もまた十分な傑物だ。革新派たるネメシス帝の台頭はオズメイの動揺しかり魔境周辺を酷く騒がせた。今こそワーズワースとの約束を果たすべきかと思ってな」
「魔神……仰有っていた、裏切り者のことですね?にわかには信じ難いのですが、<福音>のラーマ・フライマが……」
「そうだ。シリウスの神殿で当人に確かめた。フライマの意識は半ば魔神に侵食されていた。あれは生物の魂に寄生する型の、実に厄介な存在であると。フライマはかつて上位悪魔の討伐時、知らずに魔神の寄生体を倒していたのだ。その際に憑依されたものと考えられよう。実力が高じた故の、まさに悲劇だ」
「それは……ラファエル様が神殿と秘密裏に進められたという、魔境の奇面童子征伐作戦のことですか?」
「そうだ。ワーズワースやアイオーンにも手伝って貰った。実に強力な悪魔で、それこそ巷に名の響く悪魔の王にもひけはとるまい。やつに止めを刺した者こそフライマだ。私を含め、その場の誰もが魔神のことなど感知出来ていなかった。先般フライマの口から直接聞かされて、はじめて真相を知った。……聖女と崇められし彼女ですら、魔神の発現をそう長くは抑えておけないという告白と共にな」
ラファエルはそう言って、イシュタルから視線を外して空を見上げた。彼の胸中には、カナル軍との戦に関わらぬ過去の出来事が去来していた。
アケナスの未来を憂えていた親友ワーズワースは、<フォルトリウ>の画策もあって悪魔の凶事に倒れた。ラファエルとワーズワースは大陸各地を巡った経験から四柱の脅威にいち早く気付き、更にはその一柱の人間への転生を看破した。
互いに一国の重責を担うことが約されていた二人は、懇意の傭兵アイオーンなど信頼の置ける仲間たちと図った。そして政治に悪用されがちな<フォルトリウ>に頼らない形で、アケナスの自衛を目的とした作戦を推し進めた。それらは隠密行動が常であった。
四柱の監視は一大事で、<フォルトリウ>によって半ば守られた魔境が四柱の影響を受けて活発化せぬよう、適度に討伐の部隊が派遣された。ベルゲルミルやミスティンといった母国にはあくまで内密とし、アイオーンが<リーグ>に手を回して戦力を充当することで都度目的は果たされた。
しかし、常に超然としているように見えるラファエルにも葛藤はあった。四柱の具体的な排除方法は皆目分からなかったし、<フォルトリウ>や魔境は有志一同で陰ながら相手をするには勢力が巨大に過ぎた。
ウィグラフという逸材を得てからはラファエルも動き易くなり、イシュタルという理解者の存在も相まって水面下での活動はそれなりに充実を見た。表向きはレイバートン王の補佐と連合王国における自国の立場堅持に注力しているよう振る舞って、その実は主に南部の凍結湖を探索していた。
冒険者時代の仲間たちが今も協力してネットワークを維持していたので、ラファエルにとり四柱の封印に係る動向を継続して監視することは難しくなかった。それは、ラファエルが白虎のウェリントンやルガードの暴走を捕捉出来ていた事実の証明に他ならず、彼にある種の覚悟さえあれば、クルスやアムネリア、エレノアらとの共闘が実現可能であったことを示唆した。
(ウィルヘルミナ女王の言い分は分かる。彼女があのサラスヴァティの盟友で無ければ、何を隠すことなく手を取り合って救世に邁進出来たことだろう。そして、ネメシス帝の言い分もまた正しい。<フォルトリウ>に中枢を絡めとられし連合王国に身を置く私にとって、抜本的な魔境対策など為しようがなかった。かつてワーズワースの主張を退けることなく、広く情報を開示して連合諸国に改革を促すべきであったのかも知れない。……今となっては栓無きことだが)
イシュタルは口に出してこそ何も言わなかったが、ラーマこと霧の魔神を敵とするにおいて、カナルやミスティンに協力を仰ぐことこそ自分達にとっての正解なのではないかという疑心を持っていた。そして、クルスやアムネリアが彼女の頼みに対して、決して無下にはしないという確信も抱いていた。短い期間行動を共にしただけのイシュタルであったが、ルガード追撃のパーティーからは信頼を預けるに値する人間性を嗅ぎ取っていた。
ラファエル・イシュタルの両者共に来るべき決戦への大義を信じていなかったが、状況は無慈悲にもカナル軍との衝突に向かって突き進んだ。
翌日の夜明けを迎えた頃には両軍が川を挟んで向かい合っており、ライカーンの号令によって石橋の占拠を巡る攻防戦が幕を開けた。程無くして、橋上にてラファエルとクルスは再戦の機会を得た。




