裏切りの符丁-2
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自分は<鉄の傭兵>である筈だと、アイオーンは当たり前の事実を自問していた。彼は<リーグ>で実力筆頭の傭兵であり、それもその筈、かつてはラファエル・ラグナロックやワーズワースと異境探査に赴いていた程の剛の者であった。
今はベルゲルミル公国騎士団に派遣されており、来る戦では<疫病神>やアムネリア・ファラウェイと対決するものと意気込んでいたし、彼らを正面から粉砕する自信も有していた。
それが、アイオーンの姿は戦場になかった。それどころか、彼と彼に従うベルゲルミルの傭兵たちは、一団となって連合王国の北部国境付近を行軍していた。
傭兵団は<福音>のラーマ・フライマに率いられて歩を進めており、今は国境をまたいで広がるシアジス緑地帯へ足を踏み入れていた。シアジスは起伏の少ない平地に樹木が鬱蒼と繁った一帯を指し、森林の中には幾通りもの小川が流れていた。数多くの小動物も棲息していて、人間の手が入らない天然自然の様相であった。
シアジスにはエルフの集落があったが、ベルゲルミル連合王国とは没交渉で、人々にあまり存在を知られていなかった。カナル大森林のネピドゥスが発効した大陸協定には従っており、アケナス各地のエルフとは音信があった。
白衣の上から肩掛けを羽織っただけという軽装のラーマは一団の先頭を黙々と歩き、迷った風でもなしに迷路の如きシアジスの林野を突き進んだ。彼女の背に続くアイオーンは既に幾百もの疑問を己へとぶつけていた。にも関わらずラーマに抗うことはせずに、ただ彼女に同調するようにしてシアジスを踏破せんとしていた。
(俺は……<リーグ>の決定でベルゲルミル軍の一員となっている。俺の使命はカナル軍を打倒し、ベルゲルミル連合王国における<リーグ>の地位を盤石とすること。そして、俺が最強であると内外に知らしめること。だから俺は傭兵たちを束ねて戦場にあらねばならない。……だのに、シリウスで彼女から密命を付託されたというだけで、何故それに抵抗していない?)
「止まりなさい。人間よ、この先に進むことは許さない」
ラーマとアイオーン、それに三十にも上る傭兵団の進行する先より、木々の枝葉が囀ずるのとは異なる声音が投げかけられた。傭兵たちの視界には森の緑と木漏れ日の光線だけが映り、遠く流れる川のせせらぎは気配すら感じ取れなかった。
ラーマだけは全てを知っているかのように平静で、足を止めたそこから問いを発した。
「シアジスのエルフですね?私たちの歩みを遮るのは何故ですか?ベルゲルミル連合王国は、この緑地帯をあなたたちの専有物とは認めていません」
「大陸エルフの指導者であるネピドゥス様より通達があり、邪悪な者への警戒を強めていた矢先だ。女よ。そなたが魂の禍々しき様は、その秘められし術からなるほど人間には感知出来ぬやもしれぬ。だが、森羅万象、精霊たちと通ずる我々にとって見抜くは造作もないことぞ」
先程とは違った方角から声があったようだと、アイオーンは改めて全方位に集中して相手の出方を待った。ラーマはやはり戸惑う様子もなく会話を続けた。
「私はディアネ神殿のラーマ・フライマです。神をも降らせたこの身に、邪悪な意思などあろう筈がありません。あなたがたの勘違いでは?」
「では何故、戦争中の祖国を脱して北に進む?」
「ベルゲルミル公国は祖国なれど、私はディアネ神の使徒です。神に託された使命を果たすことが何より優先されるのです」
「それは何か?」
「神の御心を悩ます禍の火種は、未だアケナスの各所に散見されます。それを除いていくことが先決と言えましょう」
「だから、ここを北に抜けて何をするのかと聞いている。答えをこちらから提示しようか?イオニウムに入り、ミスティンの<北将>と対決したいのであろう」
一つ二つと徐々に増えていくエルフの気配を、アイオーンは天性の直感から捉えていた。エルフの口にする内容に対しては不思議と関心を示さなかった。
ラーマは動じず、相手に先を促すつもりか口を閉ざした。
「四柱を甦らせようと企む勢力を警戒していた。カナルと黒の森は白い悪魔によって荒らされ、他方凍結湖に近付く輩は竜の谷やドワーフの王国から洗礼を浴びる。すなわち、残る未開の封印は古の万魔殿。そしてあそこへ達するには、妖精王に近い血脈の承認が必要とされる。いくら人外の凶星とて、これしきの戦力でまさかアルヴヘイムを落とすことは叶うまい。さすれば、妖精族の血を引くことで高名なミスティンのエレノア・ヴァンシュテルンを狙う可能性は大いにある」
「私が万悪殿へと赴くために、ミスティンの<北将>を追うと?目的は四柱の復活でしょうか?導くは世界の破滅?」
「五十を数える同胞が配置に付いている。観念するのだな、ラーマ・フライマ。……いや、ウィルヘルミナの推測を当てはめて論じるならば、そなたこそが霧の悪神か」
「……いつからそこにいたのです?エルフの王・ネピドゥスよ」
ラーマがそう声を掛けると、木々の間から次々とエルフたちが姿を現した。総勢は確かに五十を数えるようだとアイオーンも得心した。
その中で一際威厳を感じさせる人物がおり、彼こそがラーマの指摘した通りカナル大森林より大陸エルフを束ねるネピドゥスその人であった。
「あなたがここにいるということは、いつのことかは存じませんがベルゲルミル領を縦断したことになりますね。あちらの戦局について聞いていますか?」
「ベルゲルミルは決戦に敗れた。クルス・クライストらに、十天君を幾人か討ち取られたようだ」
アイオーンはその言には驚きをもって反応し、そして<疫病神>へと思いを馳せた。一方ラーマは所属国の敗戦にも涼しい表情を貫いていた。
「大国王陛下は無事なのでしょう?何故か追手の網に掛からなかったのではありませんか?例えば、再三再四、濃霧が邪魔をしたとか」
「……戦の初期から、霧が戦場を騒がせたと聞く。大方原因はそなたであろうが、カナルとベルゲルミルの両軍は酷く悩まされたことであろう。何せ、見渡す限りを覆う大霧だと言うのだから」
ネピドゥスの左右に陣取るエルフたちが若干ではあるがざわついた。広範囲に天候を左右する魔法など、いくらベルゲルミルの十天君と言えど人間の技では考えられなかった。
「そう。あれは私の手足のようなもの。何の悪意も込めないのでよければ、アケナスのどこへでも発生させられます」
ネピドゥスが左手を上げて合図すると、エルフたちはラーマの一団を取り囲んだ。アイオーン以下の傭兵たちは慌てても良さそうなものだが、この段に至っても沈着さを保ち得ていた。
もはや、アイオーンにすら自身の感情が理解出来なかった。
(この清みきった心境はなんだ?優秀なマジックマスターであるエルフどもに敵視され、こうも不利な状況だというのにどうして血が騒がない!)
「それにしても見事です。私の正体に気付いた人間など、ここ数年で一人しかいませんでした」
「<鬼道>であろう。……私もそなたの正体など知らなかった。友より連合王国の領内を監視するよう忠告を受けたまで。カナルのウェリントンを狂わせ、マリス公を唆し、そしてルガード兄弟に力を与えた黒幕がいる。それは<フォルトリウ>や勇者サラスヴァティをも欺き、アケナスを滅びへと導く悪辣な存在であるという。……まさか聖女と尊ばれしそなたが諸悪の根源とは、想像の外であった」
ラーマの優しげな瞳が鈍く光り、愛らしい口元には突如として下卑た笑みが形作られた。どこからともなく霧が立ち込め、ネピドゥスらはこれを開戦の合図と受け取った。
シアジスの穏やかなる風景は一変し、そこはベルゲルミルで最も激しい暴力という名の炎に包まれた。
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ウィルヘルミナとアンフィスバエナの選択は、連合王国引いてはソフィア女王国の危機が目前に迫ったことで見事に一致を見た。連合王国の中核戦力である公国騎士団が破れ去った今、連合王国中央部以東の諸国は妄りに動けば簡単に挫けると考えられ、ソフィアの部隊は自国の防衛に徹した。
連合王国国王・グラウスはレイバートン入りしたと伝えられ、それは銀翼騎士団とアルケミアの雨騎士団に守られていることを意味した。そこに加わると思われていたのがソフィアの部隊とサイ・アデルの残存部隊であり、しかし両者に主だった動きはなかった。
前者、ソフィアの警戒するは、連合王国南部国境を越えて侵攻してきたカナルの本隊であり、加えてイオニウムと対峙するミスティンの軍勢にも注意は払われた。それはイオニウム寄りであったオズメイの政情に変調が生じたことへ端を発しており、エレノア・ヴァンシュテルンと彼女の支配下にある精鋭第三軍が健在である以上、イオニウムに隙あらばベルゲルミルは背後を突かれることも計算に入れねばならぬことに因った。
オズメイの変事はセントハイムを味方に付けたクルスや、群狼騎士団のアストレイを通じて工作したノエル・ワルドらの功績であったのだが、それはベルゲルミルの面々にとり知る由もない話であった。
「サイ・アデル軍が行方不明?モンデ皇子が統率して戦場を離れたと聞いたけれど」
ウィルヘルミナの姿はレイ・フェニックスの居城にあり、女王執務室から休まず各地へと指令を出していた。忙しない最中を訪ねてきたアンフィスバエナに対し、嫌悪感を隠そうともせずにしかめ面で聞き返した。
アンフィスバエナは特に不満を表すことなく報告を繰り返した。
「離脱したサイ・デル軍は一切の足跡を消しました。ファーロイ軍のように敵に膝を折ったという情報はありません。全ての<パス>が切られている点から、故意によるものと判断されます」
椅子ごと身体を回転させてアンフィスバエナに向き合い、ウィルヘルミナは着席を勧めた。執務室はよく整頓がなされていて、本棚に改装された四方の壁面には書籍が整然と並べ立てられていた。
瞳の閉じられたままで手近な丸椅子を引き寄せると、アンフィスバエナが疲れを見せるかのように溜め息をつき腰を下ろした。室内には二人の他に誰もおらず、そして魔法を極めし二人の遮音は完璧で、ここでの会話が外に漏れる心配はなかった。
「奇遇よね。北のシアジスで、ネピドゥスが何者かと接触して交信を絶ったわ」
「ほう……陛下の知己の、エルフ王ですね。連合の北端で何事かいさかいが起こっていた、と?」
「時間的に、ネピドゥスの相手がサイ・アデル軍でないことは明らかだわ。だとすると、炙り出されたのかもしれないわね……魔神ベルゲルミル」
「何か策を?」
「ラファエル・ラグナロックに捜索を依頼こそしたけれど。強いて因果を紐解くなら、<疫病神>が想像以上の働きを見せたことではないかしら?魔神の意図が私の推測通りであるならば、カナルの圧勝は望まれていない。大国たる両勢に相討ちをこそ期待していたことでしょう」
「大陸の波乱はそれこそ歓迎と言うわけですか。ラーマ・フライマはいつから変心したのでしょう?彼女が人間の枠を超越した存在であるとは古くから見知っていたものの、邪気の萌芽など微塵も感じ取れませんでした」
「貴方から指摘されるまで疑いをすら抱かなかった私に、それを聞くというの?」
「私が気付いたのは偶然の産物です。<福音>がルガードに付き従ったと聞き、彼女の調査に取り掛かりました。かつて神殿を不在にしていた時期と回数を照合しただけで疑惑は高まり、彼女が何やら工作していた証拠は易々と掴めました」
既にアンフィスバエナから説明を受けているウィルヘルミナは、目だけで肯定の意を示した。アンフィスバエナは自身が持つ圧倒的な情報網を活用し、ラーマが数年来魔境やカナル帝国を行き来していた事実を調べ上げた。
そうして悪魔の王アスタロテに入れ知恵をしたり、ルガードの手に魔剣が行き渡るよう画策した者こそラーマ・フライマであるという疑いを強めた。確信へと至ったのは、シリウスに集結した際のラファエル・ラグナロックとの問答においてであった。
「……あの席で、ヴァティや悪魔の王といった単語にフライマが反応を見せたと言ったわね?あなたにはそう見えたのかもしれないけれど、むしろ私はラグナロック卿の<疫病神>に対する執心の方こそ気になったわ」
女王の応答に、アンフィスバエナは彼なりの見解を披露した。
「<翼将>は、紛うことなき大陸最強の力を有する騎士です。サラスヴァティ・レインが隠れて以来、彼にはカナルの<白虎>くらいしか競える相手がいませんでした。私が思うに、彼は寂しかったのではないでしょうか?」
「寂しい?」
「はい。彼は元来祖国レイバートンへの忠義に厚い正統派の騎士。代々宰相を務めてきた自らの家系と、国王の掲げし夢想ながらに崇高な不戦の理念とを尊重する気高き男です。しかし、騎士の模範のような人格とは別に、ミスティンの王太子や<鉄の傭兵>ら当代の名士と難度の高い冒険に臨む挑戦者の側面も持ち合わせています」
怪鳥フレスベルクの討伐に止まらぬラファエル一味の冒険譚はウィルヘルミナも知るところで、アンフィスバエナの言わんとすることを理解した。衣の間からすらりと伸びた白磁の如きすべやかな足を組み換え、ウィルヘルミナは先を促した。
「ラグナロック卿は闘いたいのではないか。それも、対等の力を持つ強者と死闘を演じてみたいのではないか。そう考えました。超人故の悩みとでもいうお話で、これは全て勝手な憶測でしかありませんが」
「……あの日、彼がディアネの神殿に<福音>を訪ねたという情報が本当のことであれば、強ち妄想とも否定出来ない推論ね。ラグナロック卿は魔神と闘いたかったのかも知れない。私の前では、レイバートンの守護以外に興味はないといった風を装っていたけれど」
「恐らく、陛下に釘を刺されたことで<翼将>もそれとなく警戒はしていたのでしょう。私と同じタイミングで<福音>の異変に感付いた。そしてそれを改める為に単身で神殿を訪れた」
「そう。一人で、ね」
ウィルヘルミナの声色に苦々しさの成分を聞き取り、アンフィスバエナは苦笑を浮かべた。
「そうです。しかし伝え聞いている範囲では、未だ彼に変調は認められません。レイバートンに大国王陛下を迎え入れ、アルケミアの雨騎士団と合同で対カナル軍の防備を固めているとも聞きます」
ラーマこと霧の魔神と<翼将>の対決はあったのか。そして両雄が共に立っている今、神殿における接触はどのような結末を迎えていたことか。アンフィスバエナやウィルヘルミナに分からないのはその点で、こればかりは情報収集や議論で見極めのつくものではなかった。
アンフィスバエナは考えても無駄な事象を一先ず脇に置き、当面の出方をウィルヘルミナに質そうとした。彼は<フォルトリウ>の思想をこそ是としており、そこに立脚した対カナルと対魔神の戦略をいくつも温めていた。
二、三言葉を戦わせたところで、二人にとって異なる意味を持つ人物の動きが飛び込んできた。女王執務室に姿を見せたのはアンフィスバエナの客人エドメンドで、かつてマジックアカデミーからの追放を命じた張本人であるところのウィルヘルミナは、何とも渋い表情で彼を室内へ迎え入れた。
「アンフィスバエナ様、大変です!かの魔性が……姿を消しました。影も形もありません!もしや、石の在り処に心当たりでもあるのでは……」
「ほう……私の魔法監視を全て潜り抜けたというのですか。珍しく意見が一致したかと思えば、目的を果たして早々挨拶も無しに辞する。……勇者サラスヴァティ・レイン。彼女は一体何を考えているのやら」
ウェリントンがカナルの秘宝を手にしていなかった点はさておき、アンフィスバエナは混沌の君の意図を訝った。アンフィスバエナは混沌の君の実力を高く見積もっており、魔神の出現に際して意見交換と共闘を申し込む算段でいた。そして相手が<フォルトリウ>に在籍している以上、それはたいして難しいことではないとも考えられた。
エドメンドは顔面を蒼白にして、口角に泡を吹きつつ追跡を訴えた。あまりに鬱陶しかった為に、ウィルヘルミナは一喝して彼を黙らせた。そうしておいて、アンフィスバエナへと事態の検討を求めた。
「アンフィスバエナ。あなたの推察が正しいとして。その者が本当にサラスヴァティだとして、素性を隠してまで暗躍する目的は何?」
「想像もつきません。魔神やウェリントンの陣営であれば、四柱の封印を解除してアケナスの秩序を崩壊させることが第一でしょう。或いはルガードやリン・ラビオリのようにビフレストを探究し楽園クラナドへ到達することを夢見るのか」
「聞くに、混沌の君とやらはそのどちらにも前のめりではない筈ね?ウェリントンとは敵対し、ルガードを焚き付けるだけしておいて、クルス・クライスト一党との決戦ではビフレストを目の前にして逃げの手を打った」
「そうですね。黙示録の四騎士をも召喚せしめ、ウェリントンへの対抗手段としてマリス公爵に貸し与えた御仁ですから。アルヴヘイムでは妖精族を守る意思を示していたそうですし、クラナドに興味があるとしても大陸の破滅を望んだりはしていないものと思われます。単純に正義の味方で、魔神と事を構えるに戦力になってくれるという希望的観測もないわけではありません」
ネピドゥス経由でイビナ・シュタイナーの「起源」論を説かれていたウィルヘルミナには、悪魔の首領を標榜する混沌の君が、間接的に悪魔の創造主ともいえる魔神ベルゲルミルと対立する構図が今一つ想像出来なかった。
アンフィスバエナはエドメンドへと現場の状況を問い詰めるが、返答の中に所在を占うヒントは見出だせなかった。ウィルヘルミナはその様子を黙って眺めており、思索の中では良き同志であった在りし日のサラスヴァティと対面していた。
(ヴァティが<フォルトリウ>の思想に転向するとは思えない。いくら破滅を回避するためとはいえ、世界を裏から操るなんて、目立ちたがりの彼女らしくない。第一、アンフィスバエナの前に現れておいて、私には言伝て一つ寄越さない。ペンドルトン兄弟が魔境で落命したことを、あのヴァティが私に訊ねて来ないことが有り得て?)
ウィルヘルミナの葛藤などいざ知らず、アンフィスバエナは至極冷静に事後策へと着手した。それは彼にとり最善の協力者である<フォルトリウ>を通じて諸悪を排除するという考えで、当然ウィルヘルミナに相談を持ち掛けることはなかった。




