霧の部隊-2
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夜半の軍議を終えて指揮天幕を出たクルスは、篝火を頼りに夜の陣中を冷やかした。遠征軍の緊張が騎士たちに消耗を促さぬ筈もなく、その程度を見て回っていた。
男な上に外様もいいところの自分が声を掛けても効果はなかろうと、兵士の慰問はネメシスやフィニスに任せてあった。そこへ背後に寄る気配を感じ取り、クルスはゆっくりと足を止めた。
「クルス・クライスト殿。一つ宜しいか」
「……アーチャー卿。何か?」
クルスは警戒心も露に尋ね返した。青年・セイクリッド・アーチャーはそれに対して笑顔で応じ、色の薄い金の長髪を優雅にかき上げた。
「敵方にまともに剣を交える気のないことは誰の目にも明らかでしょう。敢えて追い掛けっこを続ける理由は何です?陛下の勇み足なのであれば、御身にしか止められますまい」
「逃げに徹した敵を削ることは難しい。ましてやベルゲルミルの指揮官は十天君と予想される。たかだか三、四百の兵力で飛び地を占領支配できるわけでもなし。状況がそうさせているだけさ」
「遠からず連合諸国の軍勢が集結する。数で数倍し、揃った十天君を相手にどんな展望をお持ちか?地の利がない以上、個の武勇が敵を遥かに凌駕してでもいなければ、こちらは全滅必至かと思うのですが」
セイクリッドは半笑いを浮かべてクルスに詰め寄る気配を見せた。表情とは裏腹に彼の目は笑っていなかった。
「流石、百戦錬磨の白騎士団で曲者と謳われるだけのことはある。……指摘の通り、有効な手立てがあるわけではない。十天君は集い、その時点でこちらに牙を剥くことだろう」
「ならば?」
クルスはセイクリッドの冷めた瞳を一瞥し、肩をすくめて軽妙な口振りで返した。
「いつも必勝の策があるとは限らない。ネメシス様がここを勝負処と踏んだ以上、現場で最善を尽くすだけだ」
「愚昧な君主と心中しろと言うわけですか」
「喧嘩の作法としては間違っていない。戦力で劣るこちらから奇襲を仕掛け、準備の整わぬ敵に打撃を与えた。これが一月も遅れていたなら、それこそ万全の二千騎が南下してきたことだろう。出足の出来としては満点だ」
「そこは否定しませんよ。ただ、敵地の真ん中で戦略的優位が失われたその時、勝ち切れるだけの戦術が我々にあるのかという点……それが問題です。そして総指揮をとる貴方にも精神論以外の計画がないという」
あからさまな挑発であったが、クルスは安易にそれへと乗らなかった。それはセイクリッドが異端でこそあれ、ネメシスの遠縁にあたる貴族であることと無縁ではなかった。
「参考までに、白騎士団に何か策の一つもあったら拝聴したいが」
「ないこともありません。撤退です。大森林を通って直ちにチャーチドベルンへと引き上げ、全軍を編成し直して北東国境沿いに配備する。これで少なくとも戦力比を少しは取り戻せましょう」
「……勝っている今の勢いを捨ててまで採る作戦ではないな。破竹の勢いという戦訓がある。兵の士気・戦の流れというのは机上の計算に則らない力の奔流を生み出す。アムとおれが賭けているのは、そこだ」
「勿論、自分の意見が慎重に過ぎることくらいは弁えています。勢いが戦に占める重要性に同意こそすれ、しかし貴方が敵将を討ってくれるという保証はどこにもありません」
「つまり、おれやアムにそこまで信用が置けないというわけだな?」
セイクリッドは首を横に振った。
「アムネリア・ファラウェイ殿は戦術指揮で実績を挙げられた。そして、彼女は元十天君だ」
「なるほど。おれね……」
立ち話で間に火花を散らせかけた二人の下へ、白の軽装甲を纏った二人の騎士が寄ってきた。一人はアルテ・ミーメであり、彼女から一歩下がったところに灰色の髪をした小柄な若年の騎士が控えていた。
アルテ・ミーメはセイクリッドを胡乱な目付きで睨むと、やおらクルスの前に連れてきた騎士を突き出した。
「クライスト。従騎士のレイだ。黄竜隊に、騎士団との連絡役が欲しいと言っていたろう。こいつをやる」
「あ、いや。女騎士を希望したんだが……」
「黙れ。当然にネメシス様が却下なされた」
軽く項垂れたクルスは、レイと紹介された若き騎士をしげしげと観察した。年の頃十四、五に見える中性的であどけない顔立ちや細身は、白騎士団の騎士として似つかわしいようには思えなかった。長い睫毛と尖った小さな顎を見て、クルスは思わず溜め息を漏らした。
「レイです。クライスト様、御指導宜しくお願いします」
「……ああ。あまり気負わないようにな。自然体でいい」
「はい」
「レイの剣腕は天賦の才。クルス・クライスト殿とてそう御し得るものではないでしょう」
セイクリッドの割り込みに、アルテ・ミーメが目に見えて不快そうな表情を形作った。言葉の内容は兎も角、セイクリッド・アーチャーが騎士団長に好かれていないであろう点は疑い無いと、クルスはそれを確信した。
(ネメシス様の血族とは言っても、アーチャー卿は元からの白騎士団構成員だ。ウェリントンの旗下にあってアルテ・ミーメに嫌われているのだから、<偏屈王>の異名も伊達ではあるまい)
セイクリッドはアルテ・ミーメに追い払われ、恭しい礼を残して持ち場へと戻って行った。クルスは先程セイクリッドが口にした件を二人に質した。
「このちびすけが、優れた剣才の持ち主だって?」
「養成学校の評価は十年に一人の逸材というものだ。故人となった武人ジル・ベルトも、講師として派遣された際にこの者の身のこなしには刮目したと言っていた」
アルテ・ミーメの真面目くさった解説にクルスは頷きを返し、灰色の髪を肩まで伸ばした紅顔の騎士に視線を戻した。レイは若さゆえの瑞々しい美しさを孕んでおり、それに気をとられたクルスは衆道の気が己の内に存在しないものかと陰ながら心配した。
「私としては、貴殿にレイの育成全般を頼みたい。その為に駒として使って貰って結構。不甲斐ない話だが、今の白騎士団にレイの成長を促せるだけの剣達者は存在しない」
「美女の頼みとあっては断れんな。元々人が欲しいと願い出たのはこちらだ。人選に文句を言う筋はない。まして腕が立つなら尚更のことだ」
「……平然とふしだらな言葉を口にする。レイ。この男は軽薄ではあるが、異数の剣の使い手だ。騎士を統率する手腕も持ち合わせているようだから、よく見て糧としなさい」
レイの返事を待たずに、アルテ・ミーメは二人を置き去りにして踵を返した。レイは若干心細いといった面持ちでクルスを見上げた。
クルスは灰色の頭に軽く手をのせ、半ば自分に言い聞かせるように呟いた。
「ここからの闘いは激しいものとなる。手札は一枚でも多いに越したことはない。……宜しく頼む、レイ」
***
満天の星の下、野営の陣から少し離れたところに精霊たちは集い、戯れていた。風の精霊、水の精霊、土の精霊。自然に宿りし異界の住人たちは美しい森の娘を輪の中心に据え、思い思いに踊っていた。
その光景を一般の人間が目撃したならば、ただエルフが天に祈りを捧げているようにしか見えないことは疑いなかった。ノエルは両の腕を伸ばして空を仰ぎ、瞳を閉じてじっと佇んでいた。
(……精霊たち。霧について教えて頂戴。あれは何?誰かが意図的に解放したものなの?)
精霊たちの囁きに耳を澄ませ、ノエルは情報収集を急いだ。カナル帝国軍は少数での行軍を余儀無くされており、先日来不意に発生している霧の如き不規則な事情で戦術の幅を狭められることは、時によっては死に直結すると考えられた。
ノエルは騒がしくない場所を選んで一人集中し、エルフ族と交流の深い自然界に根差した精霊たちとの対話に臨んでいたが、それはクルスやネメシスを勝利へ導かんとする彼女の純粋意思に因った。大森林の通過を根回ししたのも彼女であり、このベルゲルミルとの決戦に懸ける想いはクルスらへの親愛の情に比例して強かった。
既に霧の組成に疑念を抱いていたノエルであった為に、精霊たちが邪悪な力の介入を示唆しても驚かずに済んだ。素性こそ知れずとも、それは人智を超えた大いなる存在からもたらされているのだと知れた。
(カナルとベルゲルミルの戦いをかき乱して得をする一派。それも、常識外れな力の持ち主。そんなの……リン・ラビオリが言っていた<フォルトリウ>の仕業なの?……いいえ。種族補完に完璧を期するならば、魔境との対決を標榜するカナルだけを狙わなければ符合しない。今回の霧はカナル軍が電撃戦を進めるのに好都合な部分もあった。敢えて両軍を惑わす形で霧を発生させているのだから、その思惑は両国と利害対立するどこかにある……)
歩み寄って来るゼロに気付いたノエルは一次考察を中断した。ゼロはハーフエルフであり、漂う精霊たちからも戸惑いの気配は感じられなかったので、ノエルはそのままの姿勢で待った。
「報告です。敵陣に、サイ・アデル皇国騎士団の合流した可能性が高いようです」
「ありがとう。これでまた十天君が増えたわけね。正直なところ、アムネリアみたいな実力者が揃っていく様にはぞっとしないわ」
「十天君が出揃ったベルゲルミル軍と当方カナル軍の決戦。どう転んでも大量の血が流されます。……霧の意図が両国の弱体化にあるのであれば、話はうまく行きつつあります」
「ねえ、ゼロ?変に敬語を使わないで頂戴。今更私やクルスに遠慮なんていらないんだから。仲間でしょう?」
「……この方がしっくりくるもので。卑屈になっているつもりはないのですが、もう癖ですね」
ゼロは寂しそうな笑顔をノエルへと向けた。ハーフエルフは人間とエルフの双方から忌み嫌われる風習が蔓延しており、常日頃外套のフードを目深に被っているゼロが出自で苦労してきたことは容易に知れた。ノエルもその話題を深掘りしなかった。
精霊と交信可能な高位のマジックマスターが二人で顔を突き合わせて、それでも霧の正体は判然としなかった。しかし見解として、ベルゲルミル連合王国の領内に首謀者がいるであろうことは疑い無かった。
「<パス>と呼ぶにはあまりに微弱ですが、か細い魔法力の流れはそう遠くない地点から流入しているように感じられます」
ゼロの発言にノエルも首肯し、主犯の特定を急ぐことで合意した。
「クルスは何か言っていた?」
「特には何も。陛下に呼ばれたとかで、慌ただしそうに御座に向かわれていました」
「ネメシス様に?……ミスティンの動静に関する話かしら」
「アムネリア・ファラウェイ殿は、イオニウムから王都も奪還していないミスティン騎士団がおいそれと動く筈もないと仰有っていました。今の時点で挟撃を期待するのは無理があろうと」
「そうね。でもベルゲルミルが軍の合流を実現しつつある以上、少数の勢いだけで打ち勝つのは厳しいものがあるわ。私や貴女の魔法だって、敵に噂の<慈航>や<鬼道>、<福音>みたいなマジックマスターが集えば、いずれ戦力比で拮抗するでしょうし」
「はい」
戦略の検討に手詰まりを感じた二人は何れからともなく目を瞑り、周囲で戯れている精霊たちの声に耳を澄ませた。呼吸も静かに、空間と同化したかの如く二人が精霊との対話を再開すると、夜の帳の下には広く静寂が広がった。
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「集団は個に勝ると言いますが、一部の優秀な個は集団の力をすら凌駕します。かの大勇者サラスヴァティは、何れの国家に属さずとも有史に輝く業績を残しました」
天幕の内は、簡素でこそありながら天鵞絨の絨毯が敷かれ、仮造りの座椅子にも背もたれが設えられていた。そこに腰を落ち着けたネメシスの表情には、魔法に因らない天然の灯火に当てられたことで深く影が差していた。それでも美貌の褪せることはなく、向き合うクルスは目の保養にと主の尊顔を眺めながら応じた。
「剣と魔法を体系化した組織戦術は未だ確立されていません。だから超越者が戦場を支配した事例は枚挙に暇がない。まあ、アムが言うには、<天軍>あたりがそれを覆してもおかしくはないと」
「クルス。貴方がこの戦場を支配するのです。我が軍を勝利へと導くのは、貴方をおいて他に考えられません」
「おれはヴァティとは……」
「黙りなさい。貴方のことは調べさせました。ニナ・ヴィーキナの守護騎士時代の、ラクシュミ・レインと双璧を為していた当時のことを。悪魔の王と刺し違える形で力を失ったのか、敢えて委細は聞きません。ですが、今ここで往年の力を取り戻して見せなさい。今の私があるのは紛うことなく貴方のお蔭なのですから、最後まで責任を持つことこそが筋と言うものでしょう?」
ネメシスの視線には過分に熱が込められており、クルスも茶化して答えるわけにはいかなかった。
(いつの間に、こんなにも強気になられたんだ……。カナルを離れてまだ一年と経ってはいないのだが)
ネメシスが足を組み換え、クルスの目は絹の夜着から溢れた白い素肌と脚線美に釘付けとなった。
「……フィニスとは宜しくやったそうですね。あれは器量も気立ても良い娘ですから」
「何の話です?陛下のご命令で、彼女はおれの支援に来てくれたのでしょう?」
「違います。休暇を願い出たのも、貴方の下を訪ねたのもフィニス個人の意思です。貴方を連れ帰ってきたフィニスの艶やかな顔ときたら……まさしく、女の顔になっていました」
「……ええと、フィニスが何か苦情を?」
「告げ口をするような性格に思えますか?フィニスは何も言っていません」
やたらと刺がある物言いに聞こえ、クルスは背中に汗が滲んでくる様を自覚した。そして、話題を建設的な方向へと転換するよう試みた。
「本隊は北上を始めた頃ですか?」
「恐らくは。貴方の嫌いな男爵が、白騎士団と傭兵団の混成部隊を率いて国境付近へ到達していることでしょう」
「陛下。私はロクリュウ卿に含むところはありませんよ」
「向こうが嫌っているのだから、同じことではないのですか」
クルスはそれもそうかと抗弁を控えた。白騎士団でアルテ・ミーメに次ぐ序列の騎士・ロクリュウはカナルの名門貴族に名を列ね、クルスやアムネリアのような外様の勃興をよく思っていなかった。それを態度に出して接してくるので、クルスは相手にしないことでどうにか心の平静を保っていた。
内戦時、ネメシスとフェイニールのどちらにも与せず自領に隠っていたロクリュウを、ネメシスは騎士団の副団長へと引き上げた。それは彼が剣技と軍政に優れていると評判であったからに他ならず、アルテ・ミーメや<偏屈王>セイクリッドからも反対票は投じられなかった。
「何もカナルに人無し、ということはないのです。ベルゲルミルにだけ人材が集結しているのではありませんから。ロクリュウの腹心たちもまたやり手ですし、私達の暴れている隙に本隊が悠々敵の国土を刈り取れば良いでしょう」
「それは分かります。ですが、何故アルテ・ミーメ将軍とフィニス以外の誰にも二正面作戦のことをお話にならないので?アムや、ルカ将軍くらいには共有するべきかと」
ネメシスの瞳が怪しく光り、クルスはそこから妖艶に過ぎる色気と固い決意とを同時に見出した。
「少数で敵を破らねば後がないという決死の覚悟は、部隊に最上の緊張感と戦意の高揚をもたらせます。言わば背水の陣です」
「けだし追い詰められた心理は脆い。長くは持ちませんよ」
「ですから、貴方が率先して敵将を討ちなさいと言っています。それで起爆剤とするのです。ロクリュウ隊がベルゲルミルの四肢を食い千切るまで、我等は暴れる必要があります。……言われなくてもアムネリアであれば何事か感付いている筈。そう、ルカをよく動かしてくれています」
(だろうな。……それだけに後が怖い。なぜ黙っていたかと責め苦を受けるのは、どうせおれなのだから)
クルスはネメシスに気付かれぬよう小さく溜め息をついた。それでも、戦場において女性から頼られることにある種の喜びを感じこそすれ、否定の意を発する彼ではなかった。それを知り、クルスの実力をも盲信するネメシスだからこそ、彼に「十天君を倒せ」という以上の発破を掛けなかったし、たとえクルスが倒されてカナル全軍を敗着に導くことへ繋がろうともその運命を受け入れる心構えは出来ていた。
ネメシスはそっと腰を浮かすと、クルスが避けようもない機を見計らって彼の頬に唇を押し付けた。天幕の外には護衛よろしくフィニスが張り付いているも、中から聞こえる一切を他言する気はなかった。




