2 霧の部隊
2 霧の部隊
ネメシス・バレンダウンは二十歳を超えてなお若く瑞々しい容貌を湛えていた。眉目に些か威厳が表れたかと噂されるが、それとて王者の風格というより貴婦人の色香として羨望を浴びた。
ネメシスはカナル帝国という大国で至尊の地位にあり、そして彼女の施政に国民の大半は満足を覚えていた。身分制度を緩和し経済活動の自由度を高めたことが最大の功績とされ、旧弊たる帝政は僅かな期間で忘れられつつあった。
ネメシスと競ったマリス公爵に列なる貴族や既得権益の保持に拘った豪商が反乱を起こすこと幾十にも上ったが、これらはすべからく白騎士団や新設の黄竜隊によって掃討された。
度重なる内戦で疲弊した国内をやすんじると同時に、ネメシスは対外工作を怠らなかった。フィニスやベンに命じて近隣の小国や神殿勢力に交渉を持ち掛け、近隣融和にも努めた。
カナル国内の<リーグ>とは密に連絡をとり、アイザックやマルチナといった実力派の傭兵を半ば囲い込んで重宝した。加えて大森林のエルフや、東方のドワーフの王国にまで使節団を派遣した。
それらは全て対魔境の布石であり、政治信条を異にするベルゲルミル連合王国と雌雄を決する覚悟をもって実行された。
濃密な朝霧は視界を煙らせ、一寸先の姿形をも定かでなくした。長らく鼻腔をくすぐっていた樹木の香りは背に遠くなり、いよいよもって異国情緒の到来を予見させた。
進軍の途上にあるカナルの一隊は霧中に紛れ、黙々と歩を進めていた。
「陛下。地図によれば敵の都シリウスは目と鼻の先です。視界の不良故いつ戦端が開かれても不思議はありません。中軍まで御下がりください」
徒歩でネメシスの横につけた女騎士が恭しい態度で具申した。ネメシスは白騎士団の大将たる女騎士へちらりと目を向けて頷くと、ここにはない別動隊の所在を尋ねた。
「黄竜隊は半日分先行していますから、偶発事故がなければシリウスの敵勢に奇襲を掛けている頃合いかと」
「二百程度の小部隊で、本当に公国騎士団をやれるものでしょうか?」
「はっ。陛下も御存知のように、大森林を抜け、濃霧を視認したクルス・クライストが直に明言しました。統制のとれた少数精鋭でシリウスに陣取る敵を狩る好機であると」
「そうでありましたね。我々はこのまま直進して後詰めに回れば良いのでしょう?」
「左様です。戦力が少ない点はこちらも同様。目立って単独で戦線を構築することは困難ですので、交戦は二隊で一つの戦場に限定します」
「よしなに。アルテ・ミーメ将軍に一任します」
「はっ」
「では言われた通り下がるとしましょう。私のことは気にせず、将軍の術に合わせて速度を調整してください」
言って、ネメシスは自身も徒歩で隊列の奥に後退をはじめた。ネメシスとアルテ・ミーメが伴う騎士は百五十に過ぎず、数もそうであったが馬を連れていない点が大きかった。騎馬行軍や騎馬突撃の使用が叶わない為に、カナル全軍の戦術は歩兵戦を前提としていた。
それはカナル大森林を通過する際の制約であり、あくまで森の管理者であるネピドゥスが許容した範囲で遠征軍は組織された。
今や白騎士団は旧怨を忘れ、アルテ・ミーメ指揮の下でネメシスの制御下にあった。しかし精鋭ではあったが軍として洗練され過ぎており、野戦における工作活動や想定外の指令に難色を示す事例がここ幾月か頻発した。
黄竜隊の組織化はその辺りが原因と言えた。
内戦を通してネメシスに付き従った騎士・戦士の大半はバレンダウンの出身であり、彼ら彼女らの新帝に対する忠義心は鉄の如しと謳われた。ネメシスとフィニスは白騎士団と共にカナル軍の両輪に成り得る強兵部隊の創設を睨み、元バレンダウン騎士を中心に据えて黄竜隊を組織した。
<リーグ>は人材供給においてベルゲルミルへの傾斜をこそ強めたものの、ネメシスの要請による黄竜隊の育成・支援にはよく応えた。傭兵流の乱戦術や対悪魔戦闘を学びつつ、黄竜隊は内乱や悪魔の来襲に駆り出されて成果を上げた。
ネメシスは白騎士団をアルテ・ミーメに預ける一方、宿将たるルカを黄竜隊の将軍へと当てた。持ち前の勇猛さから時折猪突の色がちらついたものの、ネメシスへの忠誠度や国内における人気は充分であるとフィニスもその人選を支持した。
黄竜隊設立の構想において、ネメシスは将軍位に二人の知己を仮置いていた。その心中を吐露することはなかったが、フィニスやベンといった側近は心得ていたようで、それとなしに政権や軍部で根回しを試みた形跡が残されていた。
こうしてベルゲルミルとの大戦に臨み、信頼する黄竜隊が先鋒を務めていることはネメシスの精神に一定の安心をもたらせた。さらに言えば、今日の黄竜隊には心強い味方が馳せ参じていたので、勝利を疑う余地は少なかった。
(クルス・クライスト。記念すべき親征の第一陣は、やはり彼でなくてはしっくりきませんから)
***
クルス・クライストは、靄中より眼前に出てきた騎士を剣の二振りで斬り伏せた。視界がゼロに近い中では敵との遭遇即ち生死の境であり、まさに個々の能力が死線を分かった。
開戦来こうして最前線で剣を振るっていたが、全体の戦況はクルスと言えど読めていなかった。あまりに濃い霧は向き合う両軍の陣容を毛ほどにも悟らせず、加えてマジックマスターによる魔法抵抗が戦場での偵察行動を妨げていた。
黄竜隊の採用した作戦はシンプルなもので、薄く長い横陣に兵を並べ、出された指示は個別に前方の敵を討つことだけであった。
立案したアムネリアは、霧中では戦術を簡素化することが肝要と説いた。そして、自陣の個別戦力は敵であるベルゲルミル公国騎士団を上回るとの見解を披露した。
個の武力対個の武力で圧倒した先に敵の統制が破壊されるというアムネリアの主張は、すんなりとルカに受け入れられた。一人の騎士が「十天君と対峙するポイントは被害が大きくなりませんか?」と物申したところ、それにはアムネリアが「私、クルス、ノエル、フィニス、ゼロ、アイザック、マルチナ。十天君の一人や二人よりも与える被害は大きいと思うが」と返答して収めた。
黄竜隊に最精鋭を集めたはクルスの一存であった。それは自身の部隊で十天君を狩り尽くすという決意の表れであり、付いてきた仲間たちは皆彼の思いを尊重していた。
四人目の敵を倒したところで、都合良くも霧が自然と流れていった。そこに広がった光景はクルスを少しばかり驚かせた。
公国騎士団もまた黄竜隊に似せて横陣に配置されていた。数で勝る分を三列編成にすることで、持久戦にも耐え得る厚みのある布陣だと認められた。
(下手に密集陣形や、部隊間の連携を要する複雑な陣を敷かないところがいやらしい。流石は<天軍>といったところか)
クルスには敵を誉め称える余裕があり、それはアムネリアの想定した通りに、実力者の散りばめられた味方の攻撃力が敵横陣の最前列を激しく毀損させていたことが見てとれたことに因った。霧が晴れれば力戦に移るは明白で、剣と魔法のどちらでも人材の観点から不足はなかった。
「ベルゲルミルが引くぞ!」
黄竜隊の一人が声を上げた。公国騎士団は緒戦の戦況を不利と判定したか、その引き際は見事であった。
騎士団が退けば、その背後には連合王国の王都にしてベルゲルミル公国の公都・シリウスが顔を出す筈で、その戦術は公都を犠牲にするも同然であった。それでも、公国騎士団の撤退に迷いは見られなかった。
アムネリアとルカの二人がクルスの側へと駆け足で寄ってきた。
「アム。シリウスを落とすのか?」
「いや。この流れであれば国王グラウスもシリウスを後にしていよう。後軍合わせて四百に満たない中で敵の首都だけを占拠しても意味はない」
「そうだな。追撃の一択か。こちらの士気が高い内に衝突したいところだ」
クルスとアムネリアの会話を聞いたルカは握った拳を震わせた。
「エルフどもが!けちなことを言わずに全軍を通過させてくれれば良かったものを……」
「将軍。それを言っても栓無きこと。それ、援護に入る予定であった後陣の陛下も合流される。追跡の合図を出さねばならんぞ」
「……そうですな。向こうへ赴いて陛下に奏上しよう。黄竜隊全騎、アムネリア殿に従って敵を追うのだ!」
ルカの号令に隊の面々は声を張り上げて諾と応じた。勝手に指揮を付託された形のアムネリアが、去り行くルカの背に軽く毒づいた。
「あの御仁は、他人を信用し過ぎるきらいがある。外様の私が隊を上手く動かせようと真剣に考えているのか……」
「アムの才に疑問を抱く者などこの部隊にはいないさ。そんな不信心な者がいたら、神に代わっておれが成敗してやる」
「その神とやらがクーオウル神でないことを祈る。わざわざそなたに露払いなどしてもらう酔狂は持ち合わせていないのでな」
「つれないことを言う。一部の間では、アムはおれの守護天使であると評判なのだが」
「どこの一部だ?ひっぱたいて目を覚まさせてやるから、所在を述べるが良い」
掛け合いを続ける中も、アムネリアは腕で合図を出して部隊の足を動かしていた。ジットリスに運用されたベルゲルミル騎士団は充分な数を残したままで東に転じており、何れ連合諸国の騎士団と合流し再戦を企図していることは明白であった。
アムネリアにはそれでもまだ勝算があった。いま黄竜隊に集っている仲間は十天君と遜色のない逸材ばかりであり、<翼将>さえ出て来なければ正面対決でも押し切れると信じていた。
要点となる兵糧に関しては、ここはノエルの尽力が奏功した。チャーチドベルンから大森林への兵糧備蓄。そしてそこからの輸送へ一定程度協力するという約束をエルフから取り付けていた。勿論、先だってクルスがベルゲルミル軍を相手に森を守る戦いへ身を投じたことも、ネピドゥスの翻意に大なり小なり影響を与えていた。
人材と補給に不安のない、それでいて練度充分な少数精鋭を率いて敵に当たることは、アムネリアにとって決着の見えるパズルを解くような作業に他ならなかった。
黄竜隊と白騎士団は一列に連なってベルゲルミル公国騎士団を追った。数で言えば終われる側が倍にも近かったものだが、逃げの手を打つジットリスは、確実に勝てるという成算のない戦には興味を覚えなかった。ゲオルグ将軍やディロン・ガフロンが声高に抗戦を唱えたものの、ジットリスとエレンベルクは二人がかりでその強硬論を押さえ込んだ。
ファーロイからの援軍が合流した地点は、公国東端のなだらかな丘陵地帯であった。大河の支流が一本横切っていたが、水深は浅く流れも緩やかであるため戦術への干渉度合いは低かった。
起伏は兵を隠せる程に高低がないため、位置取りに重要さはなかろうとアムネリアは低地に陣取った。視界奥に霞むベルゲルミル・ファーロイ軍の総勢は目視で八百超。自陣の倍にも達する敵兵を前にして然程怯まぬ味方の顔付きに、アムネリアは頼もしさを覚えた。
唐突に、戦場に染み入るようにして霧が発生した。天候の気紛れはしかし、精霊の囁きを逃さぬノエルにある疑念を抱かせた。
「クルス……この霧はさっきと同じものよ。何者かが魔法で起こした可能性が高いわ」
「これだけ広範囲にか?体積で言ったら、相当の水準だぞ」
隣に立つエルフの娘の指摘にクルスは訝るが、逆隣のゼロもノエルの意見を後押しした。
「間違いありません。自然界の組成でここまで再現性が高い霧など不自然です。それに直前までの大気の状態から、これ程の濃霧が発生する条件を瞬時に満たすとは考えにくい」
「……誰でもなく、お前たち二人が言うのだからそうなのだろうな。とすれば、罠か?」
「先程の戦闘で敵に計略があったようには思えませんが」
「それだ。霧は敵の優位に働いていない。強いて挙げれば、奇襲を仕掛けたこちら側に利があったと思える」
「魔法だとして、使用者の問題もあるわよ。仮にマジックアイテムで魔法力を工面出来たとしたって、これだけ大きな状態変化を引き起こすにどれ程の出力が必要になるか。人間技とはとても思えないわ」
ノエルの言葉には明らかな恐れが滲んでいた。その間にも霧は戦場の全方位を包み込み、アムネリアはやはり全隊を横陣に並べかえた。
ルカは落ち着かない様子で隣のアムネリアへと意見を質した。
「先程と同じ展開になるのでしょうか?」
「合流した部隊の旗印はファーロイ湖王国のもの。さすればそれを率いるは十天君きっての剣の使い手、<流水>のボードレール。<飛槍>に加えて猛将が参じたからには、攻め気を高めて可笑しくない」
「……総力戦、というわけか」
「いや。霧が不可解なのだ。たとえノエルやゼロが力を尽くしたとしても、これだけの自然現象を起こせるとは思えない」
「というと?」
「<鬼道>や<慈航>、さらにはマジックアカデミーの精鋭が出張るなりしていなければ有り得ないのだが、今のところその気配はない。この濃霧がもし敵にとっても予期せぬ現象であるなら、敢えて犠牲を大きくしかねない衝突の道を選ぶとは思えぬ」
アムネリアの予測は当たり、ベルゲルミルの軍勢は数こそ上回るといっても視界の失われた中で動こうとはしなかった。その点ジットリスの危機管理能力の高さを表していたが、ネメシスの覚悟はそれに勝った。
勇者たちを近くに集めたネメシスは、霧中の強攻策を指示した。ノエルらマジックマスターは魔法抵抗に専念させ、クルスら腕っぷしの立つ輩が突撃するという単純明快な流れであった。
ルカやフィニスは一様に驚き、そして代わる代わる慎重論を口にした。だが、アムネリアが「それしかあるまい」と口添えをしたことで、ネメシスの戦術が採用となった。
カナル帝国の全軍が前身すると、果たしてクルスやアムネリアに切り込まれたベルゲルミル軍は一方的に押され、軽い恐慌状態に陥りながら撤退した。その進路が北東にとられたことで、サイ・アデル軍との合流を目指しているとも知れた。ネメシスは追撃の手を緩めず、全軍での追撃を命じた。




