虹の架け橋-3
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クルスの左手から出て来るものなど何もなかった。ほんの半瞬そちらに注意を向けたことが、ルガードにとって致命的な失敗となった。
装甲ごと、戦槍がルガードの胸を堂々貫いた。弱々しく青銀の光を点した<戦乙女>がグングニルを握る手に力を込めると、ルガードの全身に極大威力の衝撃が走った。
ルガードはまさしく絶叫し、躊躇なく全身を悪魔の身体へと変態させた。黒光りのする硬質な肌に、頭頂部からは突き出した尖角。瞳には赤黒い薄い膜、広い黒翼、そして手足から生えた鋭利な鉤爪。どこから見ても醜悪な悪魔と映り、それが彼の素体であることは明白であった。
ルガードの悪魔の肉体が<戦乙女>の身体を引き裂こうと荒々しく暴力をぶつけるが、<戦乙女>は動じることなくグングニルから神霊の気を放出し続けた。やがてルガードは<戦乙女>を引き剥がすことを諦め、諦めと怨みのふんだんに込められし気味の悪い双眸を裏切り者へと向けた。
(<戦乙女>のことなど、欠片も聞いておらん!この女……この女だけは……!)
リンは死に近付くルガードから責められることを甘受した。それ故、彼女を狙って投擲された咎人の剣から逃れることをしなかった。剣はルガードがグングニルでそうされたように、リンの胸を真っ直ぐに刺し貫いた。
「ルガードッ!」
怒号を発して駆けたのはアムネリアで、咎人の剣を投げたままの姿勢で固まっていたルガードの首を一撃の下に切断した。異形と化したルガードの首は勢いで離れたところに落下し、それを待って彼の全身が急速に朽ちて崩れた。
アムネリアは自らが招き寄せたその事態を、ルガードの遺骸が全て塵と消える最後の最後まで見届けた。
そして、もう二つの魂が最期を迎えようとしていた。クルスは自分の周囲で起きている展開に付いて行けず、ただ耳を傾けるしかなかった。
「クリス・アディリス……さようなら。私の……分まで……生きて」
<戦乙女>は、自らの意思で最後の力を振り絞って顕現した。そしてクルスを守る形でルガードに致命傷を負わせた。クルスの命じようとしていた手数以上に力を発揮し消耗した結果、魂の源泉たる魔法力を使い果たしてその存在を世界に同化させた。
雪の結晶が溶けて消えるように、<戦乙女>の姿は燐光を伴ってクルスの視界からきれいさっぱりなくなった。長年連れ添った相手との今生の別れにしては、猶予も余韻も少なかった。
クルスはラクシュミについて考えることを一旦放棄し、それが義務であるとばかりに倒れたリンの下へと急いだ。咎人の剣は胸に深々刺さっていて、リンが治療を施しようもない状態だということは一目で分かった。
瞳から光を失いつつあるリンが弱々しく右手を差し出したので、クルスはそれを優しく握った。リンはヒューヒューと苦しそうな呼気と共に、秘めていた思いを吐露した。
「やっと……終わる。私、もう、頑張らなくて……いいのね?」
クルスは所謂リンの生い立ちに係る暗部を承知していなかったが、手を強く握ることでそれに応えた。血の気を失ったリンの口元に微笑が浮かんだ。
「ごめん……なさい、クル…ス。お兄ちゃん…、カレン、イクス……。私、も……」
そこでリンの腕から力が抜けた。クルスはリンの瞳をそっと閉じてやると、彼女の傍らからクラウ・ソラスを拾い立ち上がった。
「クルス!」
ノエルの呼び声で意識を鮮明化させられたクルスは、依然戦闘状況にある一角へと怒声を放った。
「ラーマ・フライマ、そこまでだ!敵対行為を止めねば、一斉攻撃で葬る」
それを聞いたラーマはびくっと肩を震わせ、恐る恐る周囲の様子を確かめた。その間フィニスは手を出さず、全てを成り行きに任せた。
絶命したと見えるベルディナやアイゼン、リンの姿を目で追い、ルガードまでも隠れた中で相対していたクルスの壮健な様から、ラーマは味方の完全なる敗北を受け入れた。そうして両の手を挙げてクルスに恭順の意思を示した。
「……負けを認めます」
クルスの手にはクラウ・ソラスが握られており、そのままラーマの側へと歩みは進められた。フィニスは黙ってクルスの横についた。ラーマの表情には不明瞭な怒りが滲んでおり、フィニスにはそれが先ほどまで争っていた相手の心境の発露とは思えず、違和感を覚えた。
(ラーマ・フライマはまだ何かを隠し持っている?……まさか)
アムネリアやノエルに先んじて、イシュタルが慌ててクルスとラーマの間へと割って入った。
「クルス・クライスト、頼みがあります!どうか、ラーマ・フライマの命だけは助けていただきたい。彼女はベルゲルミルの宝、ディアネ神殿の希望なのです。彼女の責を、私の働きでもって相殺しては貰えないでしょうか?」
イシュタルは深々と頭を下げて懇願した。アムネリアやゼロは、王族であるイシュタルのその姿に必死の意気込みを感じ、何も口に出来なかった。だが、ノエルだけは違った。
「……馬鹿を言わないで!ダイノンやハイネルさんに、レルシェさんも殺されたのよ!この女は彼らの仇!ここで赦すわけにはいかない」
ノエルは激昂しながらも自ら手を出したりはせず、クルスを振り返って判断を仰いだ。クルスは小さく頷くと、イシュタルとラーマへ一歩近付いた。
「イシュタル・アヴェンシス。貴女のお蔭でオルファンを討てたし、こうしてルガード一味を打倒することも叶った。おまけに公女たる貴女に頭を下げられて、無下には出来ない」
イシュタルは頭を上げ、満面の笑みでクルスに謝意を告げんとした。しかし、クルスはそれを遮るように冷たい目と厳しい口調で続けた。
「お望み通り、ラーマ・フライマの身柄は引き渡す。これで貸し借りはなしだ。ベルゲルミルには仇こそあれ、馴れ合う筋はない。それ故ここでお引き取りいただく。次に会う時は手加減無用で命をやり取りをすることになるだろうな。イシュタル・アヴェンシス・アルケミア伯爵公女」
毅然とした態度のクルスを前にして、イシュタルは自然と口をつぐんだ。そうして、もう一度だけ頭を下げてからラーマのことを気遣った。
クルスはエレノアへと、「ここから二人を城に帰すことは出来るか?」と訊ねた。エレノアは「容易なことです」と応じて、指で軽く印を切るや召喚魔法の応用で、イシュタルとラーマの周りに光の輪を発生させた。
光輪に完全に飲み込まれる寸前、イシュタルがアムネリアへと言葉を掛けた。
「ソフィアに戻るわけにはいかないのですね?アムネリア・ファラウェイ」
「どうか御壮健で。イシュタル・アヴェンシス・アルケミア公女殿下。願わくは、戦場で御会いしないことを」
イシュタルは最後にちらりとフィニスに視線を送った。
「……戦争など、起こらないに越したことはない。カナルの人材が払底したなどという噂、偽りもいいところだと確信しました。努々忘れません」
エレノアの転移魔法が発動し、イシュタルとラーマは光に包まれて消えた。ノエルだけはラーマの姿が消えてなお、しばらくそのままの姿勢で彼女のいた辺りを睨み続けていた。クルスから小声で「すまない」と断りを入れられるまで、ノエルは微動だにしなかった。
アムネリアの見たところ、彼女自身にノエル、フィニス、ゼロ、エレノアで鍵は五本。加えて残された神剣が二本ある為、ビフレスト通過の要件は満たされていた。
そんなアムネリアの意に反して、クルスは転がる咎人の剣には触らず、一同を野に浮き上がりし扉の前へと集めた。
「今となっては、ビフレストを抜けて天使とかいう種族に会う動機も失せた。ここから先に進むか否か、皆の意見を聞かせてくれ」
「……私はクルスに任せる。ビフレストにもクラナドにも、クルスが行くなら付いていくわ」
「ノエルさんに同意します」
ノエルとゼロは早々と自己の主張を放棄した。続いてフィニスが消極的に持論を述べた。
「魔法研究の片隅に従事する者としては、神々の住まう地・楽園クラナドに興味はあります。しかし私は後発参加組です。全体意見が引き返すことを望んだならば、敢えて抗いは致しません」
「ミスティン騎士の仇は奉じました。この上ビフレストを踏破出来たとあらば、私の名声はさらに高まるでしょうね。所詮はその程度の話です。ご随意に」
フィニスとエレノアもまたクルスに判断を預けた形で、最後に回ったアムネリアの発言に注目が集まった。アムネリアは少し考えた後、己の心証を正直に吐き出した。
「私は……楽園クラナドに興味がある。正確には、ルガードが拘っていたからこそ、その真実を見定めたい。彼も私も青いと言われればそれまでだが、誠実で清廉な政治の敷設を目指した結果手段を誤った。天上に完璧な統治システムが存在するのか。或いはそれを構築するに足る力が得られるのか。確かめられるものならば自分の目で確かめたい。……それに、探索に執念を燃やしていたリン・ラビオリへの手向けにもなろうかと思う」
クルスは頷き、腹を決めたとばかりにビフレストへの扉に手を掛けた。
***
ビフレストという名の道は、全天が色彩も豊かに虹色へと輝く魔法空間に過ぎなかった。クルスは方角や距離も分からぬままに夢中で駆け、気が付けばアムネリアと二人でやたら空気の冷たい岩場に足を着けていた。
空は彩色に欠け、雲の一つも見当たらなかった。景色は一面が岩石地帯となっていて、見渡しても緑や生物の息遣いは感じられなかった。足下の岩は歩くに支障を来さない程度の起伏で、二人は仲間たちを捜して回った。
アムネリアが唐突に足を止め、別の方向を見ているクルスを呼んだ。
「クルス。あれを見よ」
「……小屋、か?」
「私の目にもそう映る」
二人の視界には、岩場にぽつねんと立てられた木造と思しき小屋が収まっていた。警戒を解かぬままで近付いたところ、まるで二人を歓迎するかのように戸が内側から開かれた。
クルスとアムネリアが顔を見合わせていると、中から「入りなさい」という声が掛かった。他に選択肢を持たない二人は敢えてその誘いに乗った。
小屋の中にはテーブルや椅子、簡易の棚に申し訳程度の観葉植物だけが配されていて、至極質素な作りであった。椅子には年齢の判別し難い銀髪の老人が無表情に座し、二人を静かに迎え入れた。
勧められるがままに椅子に掛けたクルスらへと、老人が無遠慮に訊ねた。
「お主らは、夫婦か?」
「違う」
クルスの「そのようなものだ」という答えに被せて、アムネリアが強く言い切った。老人はそんな様子に興味を示さず、淡々と話を続けた。
「二人もの人間が同時にこの地に上がって来るなど、ここ五百年で初めてのこと。余程の強縁があろう。その繋がりを大事とするが良い」
「五百年?あんたは何者なんだ?」
「お主らの世が規定するところでは天使という。クラナドに仕える者という意味合いだな」
老人の発言に、クルスとアムネリアは椅子から立ち上がって身構えた。元は天使を捕まえ、ラクシュミ・レインが魂の器にしようと企んだ身であり、自然と敵意が表出した。
天使を名乗る老人は落ち着き払った態度を崩さず、手だけで座れと合図して説得を試みた。
「アケナスにおける種族間対立のような根は、ここには張られていない。我ら天使しかいないのだからそれも当然。だからといって、人間やその他種族を下に見てはおらんぞ。ここで貴賤を語ること程滑稽なことはないのだからな」
「御老人、ここは楽園クラナドなのか?」
「楽園かは知らぬ。が、クラナドには違いない。かつてカナンやエリシオンらは、ここから地上、すなわちアケナスをコントロールしていた。アケナスに住まう者からすれば楽園・楽土にも映ろうな」
「……ここに、聖神や賢神がいるのか?本当に、神々が存在すると?」
クルスは半信半疑ながらに聞いた。アムネリアとて、この時点では老人の話を真に受けていなかった。
「かつて、と言った。ここにはもう誰もおらん。始祖の統治システムが暴走し、四の巨悪が発生した後にカナンは全てを諦めた。アケナスを見守るはもはや従者たちのみだが、あの者らとてクラナドを去った。せいぜいが召喚に応じて多少の奇蹟を分け与える程度であろう」
「……四の巨悪……四柱のことなのか?」
「アケナスではそう呼ぶようだがな。シュラクのシステム管理権限を引き継いだ四者。つまり、アケナスにおいてはカナンらと同じ干渉能力を有する存在。カナンの従者ディアネが身をとして覚醒を妨げているようだが、一人では限界がある」
天使を名乗る老人が語ったところによると、神や従神と呼ばれし者たちもまた、元は人間やエルフ、ドワーフらと同じく地上の民であるとのことであった。カナンは仲間たちと共にビフレストを通過してクラナドへと達し、天使の導きを経ることで世界の管理者に昇格した。
アケナスを治めるにあたり、カナンらはあらゆる種族の公正な繁栄を基礎とし、それを崩さぬことを誓った。
「規定した主要種族の全滅が確認されると、アケナスの文明はゼロから再構築される。要するに、争いや流行り病によりどこぞの種族が滅びれば、それは世界の終焉を意味するのだ」
「……公正な、繁栄……」
「そう。そこには当然、人間をはじめとする諸種族の変異した姿、悪魔と呼ばれる者たちも含まれる。諸事情あるにせよ、シュラクが離反したことはカナンに衝撃を与えた。マイルズの全面的な支持を得て旧友シュラクを打倒こそしたカナンは、予想外にシュラクの力を継承した四者の登場と悪魔の勃興に悲観した。最終的にはアケナスを見捨てたのだから、発端はシュラクとの確執ということになろうか」
途方もない次元の話を聞かされた二人に意見などあろう筈もなく、頭の中を整理するだけで手一杯となった。そうして徐々に心中を占め行くは、復活の途上にある四柱を抑制すべき主神たちの喪失に伴う絶望感だけであった。
アムネリアは精一杯の気力で平静を保ち、神官として当然の質問を投げ掛けた。
「クーオウル神も、いらっしゃらないのか?」
「勘違いしてはならんぞ。クーオウルという神も、確かにここにいたのだ。アケナスを去っただけでな。何も信仰が丸々無意味だったということにはなるまい」
アムネリアは老人の言葉に項垂れ、椅子の背凭れに寄り掛かって自重を支えた。
「アム、大丈夫か?」
「……そうでもない。神がアケナスを離れられたと聞かされてはな……。そなたは随分と元気そうではないか?」
「実感のわかない話だからな。おれの手には些か余る」
「……些か?図太い性格が羨ましいな。これは褒めているわけではないぞ」
「いちいち補足しなくて結構だ」
二人の掛け合いを目を細めて見詰める老人の顔に、ほんの僅かに笑みが広がった。
「……何もお主らが解決しなければならぬ筋のものでもない。アケナスは緩慢に死を迎える。それこそ今日の明日、という話ではないのだからな」
クルスは咄嗟の思い付きを口に出した。
「カナンが規定したとされる条件付けを、上書きして無効にすることは出来ないのか?」
老人はしばらく考えてから、一語一語を丁寧に紡いだ。
「厳密には、出来る。だが、それはアケナスという大陸の存立の仕組みを弄るに等しい。新たな管理者が複数必要だし、それを補佐する天使も相応の数が要求される仕事となろう」
「ふむ……荒唐無稽ではないんだな」
「いや、荒唐無稽だ。天使の数がそもそも足りん」
「それだ。あなた以外に、この地に天使はどれだけ暮らしている?」
「数えたことはないが、今や五十とおるまい。千年を超す寿命を持つとは言え、このままではアケナスより先に我等が滅びを迎えかねん」
「五十?……種族全体で、そんなに少ないのか」
「新たな生命が最後に誕生したのは、確か六百年程前の話だ。その命も、この地に生まれたことを不憫に思った二親より地上に捨てられ、永く消息を断っていた」
老人の言い回しに不審な点を感じ、アムネリアが追及した。
「断っていた?では、地上に捨てられたという天使は、ここに再び戻ったのか?」
「いや。言った通り、この五百年で二人以上の地上人が一度にここへ立ち入った記録はない。クラナドは侵入者を選別するのでな。そして、五百年の間で訪問者はお主らがただの二例目だ。サラスヴァティと言ったか。女が一人、お主らと同じように私を訪ねてきた。さて、何年前の話であったかな……」




