それぞれの戦い-3
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悪魔教団の存在は、ベルゲルミルの諸国で問題視されていた。魔境を守護する魔神がアケナスを罪と罰から救済するというのが教団の謳い文句で、貧困層の若者を中心としたベルゲルミルの治世に絶望する者の支持を密かに集めた。
いち信仰の枠を越え、悪魔教団は誘拐や強盗といった犯罪行為を誘発した。そればかりか、どこからか悪魔を連れ込んで町や村を襲い出した為に、連合王国は総力を挙げて教団の排除に乗り出していた。
対悪魔教団の急先鋒がラーマ・フライマを筆頭としたディアネ神殿であり、神官の中から特に優秀な技能者が選ばれて<福音>指揮の下、捜査・撃滅に当たっていた。ラーマが出奔した現在、ディアネ神殿の心臓部たる神殿執行部は混乱のただ中にあり、<福音>に代わる指揮官の任命が急務とされていた。
ラーマの代理として対悪魔教団の作戦指揮を任されるに本命と見られていた人物は、慌ただしくも朝から知己の訪問を受けていた。
「すまない、イシュタル殿。ミスティンのホッジス殿たっての願いでして。貴女に直接情報を流して欲しいと」
「良いのです。フライマ様は、私にとっても大切な御方。御父君たるホッジス大神官の御気持ちは重々承知しています。出来る限りのことは致しましょう」
イシュタル・アヴェンシス・アルケミアは凛とした態度で同僚の神官の言葉を受け入れた。
ベルゲルミル連合王国が一角、アルケミア伯爵国のディアネ神官という一面を持つイシュタルは、水色の艶やかな髪と長い睫毛、潤んだ氷青の瞳が特徴的な紛うことなき美女であった。知性や教養に溢れ、武術・魔法をよく修めた彼女は神殿勤めの同僚から頼りにされるばかりか、国内外からも広く崇拝されていた。
それもそのはず、イシュタルはベルゲルミル十天君の一人であり、二十三歳にして<雨弓>の称号を得ていた。公の身分としては、彼女はアルケミア伯爵国の公女にして雨騎士団の次席将軍でもあった。
年配の神官は、ホッジスからもたらされた話を要約してイシュタルへと伝えた。
「悪魔教団の大幹部であるとされるオルファン。かの者の実兄が、東部の古城を目指しているとの情報があるそうです。オルファンもそれに倣うのではという観測で、調査・追跡に協力頂きたいとのことでした」
「それは中々に興味深い。オルファンの兄と言えばあの、ソフィアのルガード卿でしょう?政庁騒乱の咎でアムネリア殿と共に国を離れたと聞いています。そのまま連合王国に残っていれば、私やスワンチカ殿に代わり十天君に選ばれていたこと間違いないとも」
形のよい顎に指を当て、イシュタルは考えを巡らせた。十天君に任じられて三年目となる彼女は、アムネリアと面識こそあったものの、ルガードやオルファンの人となりまでは把握していなかった。
ホッジスの情報がもたらすオルファン周りの人間関係は新しいもので、これがミスティンの神殿に取材できたものとはイシュタルには到底信じられなかった。
(きっと、アムネリア・ファラウェイが絡んでいる。カナルにいたかと思えば、今度はミスティンというわけ?……節操のない。情報は情報として頂くけれど、ベルゲルミルに楯突いたあの者もついでに狩ってしまおうかしら)
イシュタルの表情が強張り、その変化を見た神官は手にした茶を溢しそうになった。彼女に嗜虐的な面が存在することはこれまでの戦績からも十分に承知していた筈だが、こうして穏やかな朝に接した為に、美貌に眩んでつい気を緩めてしまっていた。
イシュタル・アヴェンシスは公女でありながらに、十代半ばより神官戦士として軍務にも着いていた。勘が甚だ良く、犯罪者や内通者を追い詰めたり、反乱勢力の鎮圧に一役買うことが多かった。そして、執拗なまでに敵を追うことと戦闘時に見せる冷徹な気性から、<狩人>と呼ばれ近隣では恐れられてもいた。
神官が訪ねてきたこの館は、イシュタルの神殿勤務用に用意されたアルケミア伯爵家の別邸であった。二階建ての瀟洒な造りはドワーフの技師に依頼した業物であり、内装も貴族趣味とは程遠いすっきりした様式にまとめられていた。
神殿幹部ともなれば上位の貴族と接する機会も増えるわけだが、イシュタルと対話を重ねても慣れが生まれることはないものだなと、神官は背に汗を滲ませながらに考えていた。
「古城に何があるかはさておき、連合王国領内から東へ向かう先々に検問を設置するとしましょう。神官以下の神殿関係者だけでは手が足りませんから、雨騎士団と傭兵も動かします。指揮は私が」
「はあ、しかし……イシュタル殿。騎士団と傭兵は兎も角、神官を動かすには執行部の許可を得ませんと……」
「遠からず、ラーマ殿の代理として対悪魔教団の全権が私に委任される運びとなりましょう。ですが、それを待ってからでは遅い。……ちまちまブランチを摘発することにも飽きてきたところです。教団幹部を引っ張って、ここで一網打尽にしてくれましょう。悪魔に与する者へ天誅を下すに、ディアネ神の加護があらんことを」
イシュタルの氷青の瞳が爛々と輝き、生き生きとした表情を伴うにつれて神官は言葉を引っ込めた。相手は同じ神官とは言え一国の公女であり、ましてや連合王国の筆頭武官たる十天君であった。多少の無茶は許されるであろうし、卑小な自分如きの尺度で<狩人>を縛るは神に対する反逆にさえなると思われた。
神々しさすら窺わせるイシュタルの美貌と迫力に当てられ、些か憔悴した神官は早々と館を辞去した。イシュタルは東部の古城に関する質問状をしたためると、子飼いの騎士を呼びつけて馬を出すよう要請した。
「どちらまでお届けに上がりましょう?」
「レイバートンの、ラファエル様宛にお願い」
「ラグナロック閣下でしたら、来週城へお越しになると伺っておりますが……」
「急を要するのです。ラファエル様が居城を発たれる前にお渡しして。返事は早急に持ち帰るように」
「承知致しました!」
騎士は一礼し、高揚した顔付きで駆け出した。アルケミアの騎士にとり、イシュタルはまさに女神の如き信仰の対象であった。
(古城はセントハイムよりさらに東、巨人国の支配地域にあったわね。流石に多勢を連れては行けない。オルファンは検問で捕縛するのが理想的。悪くても道中で押さえたいところだわ。……それにしても。勇者サラスヴァティが封じたとされる不死の巨人。ルガードの狙いは奈辺にあるのかしら。私には想像もつかないけれど、ラファエル様ならきっと答えを御導きになられる筈)
イシュタルは思考をまとめるや、一息をつく間も無く出勤前の身支度に取り掛かった。彼女にはやるべき事項が山積しており、この時点では古城に掛かりきりとなる余裕はなかった。
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帽子の下に隠れた赤い髪はステップの度に跳ね、使い込まれた暗灰色の外套から伸びた細剣が鋭く空を切り裂いた。<山羊面>の体表は次々と削られ、あっという間に動きが鈍った。
赤い髪の女が左腕を前に突き出すと、掌から魔法力の凝縮された槍が放出された。槍は狙いを誤らず、<山羊面>の胸を貫き全身を爆散させた。
同行の傭兵二人も<鳥人>の一匹ずつを無事撃退し、襲撃してきた野良の悪魔の殲滅は完了した。アケナス中南部の一帯には有力な国家が存在せず、地域によっては悪魔の野晒しとなっている事態が想定された。その通りに襲われること早三度、一行は慣れた様子で後始末に入った。
「ちまちま来ますね。もう少しまとまって掛かって来てくれると、煩わしくないんですが」
軽装甲の隙間から褐色の肌を晒した女傭兵・マルチナが、まるで緊張感のない声で愚痴を溢した。筋骨逞しい相棒のアイザックは、散らばった手荷物を黙々と集めていた。
平原における不意の遭遇戦であり、余計な犠牲を出さずに済んだことは三人にとって幸運であった。
「でも、遂に馬に逃げられちゃいましたね。<鳥人>相手に馬上だと分が悪いから、仕方ないと言えば仕方ないですけど」
マルチナの指摘に頷きを返し、赤い髪の女は懐から地図を取り出した。煌々と光を落とす太陽の位置と草木から伸びる影の角度を観察し、現在地にあたりをつけた。
「三日も歩けば村落に着けましょう。食料は心許なくもありますが、節約すればギリギリもつと思われます。苦労を掛けますが、何卒」
「わかった」
アイザックが即答した為に、マルチナは不平を表明する機を逸した。長旅にアクシデントは付き物であるが、アケナス南部付近を馬もなしに移動するなど、いくら傭兵と言っても正気の沙汰とは思えなかった。
先のカナル内戦時、クルスの依頼によく応えた二人の傭兵は、新帝の体制に替わってからも重宝された。ブルーシャワー近郊の護衛任務とは打って変わり、カナル国内の反乱鎮圧や悪魔討伐といった重大事に起用され、二人のスコアはいつの間にやら900を数えるまでに伸長していた。
これにアイザックなどは恩義を感じ、新帝やクルスへの親近感を強くしたものだが、マルチナはというと根無し草の気質が色濃い為に複雑な心境でもあった。
(こんな遠距離の護衛をほいほい引き受けちゃって。私たちは白騎士団ではないんだからね。アイザックったら、変なところで頑固だから困るわ)
昨今悪魔と正面切って戦えるだけの力を有する傭兵は厚遇される傾向で、対魔防衛ラインならずとも引く手あまたな状況は変わらなかった。どこぞへの仕官を志す者もあったが、マルチナはひとところに落ち着くなど窮屈で御免だという立場を貫いてきた。
「マルチナさん。申し訳ありませんが、しばらく辛抱下さい。馬は必ず調達しますので」
「あ、はい。マスター(依頼主)の望むがままに。ただ……もう少し北上して、対魔防衛ラインの加盟諸国を渡り歩くのではいけないのですか?道程も多少は険しさを減じるかと思うのですが」
「今はまだ、魔境近辺をあまり騒がせたくありません。東部入りもカナル政府が決したのではなく、私が休暇を利用して遊山に出掛けるだけのこと。こう言っては不遜に思われるかもしれませんが、私如きが注目されるのは実に分不相応に感じます」
帽子の位置を直し、赤い髪の女は困ったようなぎこちのない笑みを見せた。マルチナには彼女の謙虚さが恐ろしく思え、またこれこそが新帝の右腕の真骨頂なのであろうと妙に納得もした。
<紅蓮の魔女>。彼女をそう呼ばう向きも世間にはあった。
ネメシス帝が権力をとる前、そして即位から暫くの間、彼女に派手な活躍の場はなかった。しかし、俯瞰して見れば、彼女はこれといった失策はおろか、敗北の二文字を味わうことなく主を至尊の地位へと押し上げていた。人々はその事実にはたと気付き、彼女のマジックマスターとしての力量や軍事・政治への精通を再評価した。
「でも、マスターがセントハイム入りしたと分かれば、彼はさぞかし驚くでしょうね?御忍びの旅ですもの」
「彼は……クルス・クライスト殿は壮健でしょうか。私が到着する前に、早まって不死の巨人に挑んだりしていなければ良いのですが」
「バレンダウンを訪れたというダイノンさんは、何と?」
「陛下の出兵が実現せねば、クルス殿は単身をいとわずビフレストを目指すであろうと。しかしダイノン殿は、ノエル殿や自分が最後まで付き添うから、心配はいらないと仰有いました。なんと清々しい御方でしょう。陛下が心動かされたのも、そのあたりにあるものと思われます」
「え?皇帝陛下は、ミスティンとクルスさんの提案を蹴ったと聞きましたが……」
「それは表向きの話です。陛下がミスティンの<北将>へと宛てた親書には、何れカナルが先んじてベルゲルミルと相争うことになるから、勇んでイオニウムとの決戦に及ばぬようにとの戒めがしたためられていました。つまりは、事実上の同盟成立を意味します」
マルチナは納得のいかぬといった顔で相棒に意見を求めた。アイザックはそれに対して、「政治とはそういうものだ」と達観した表情で返し、マルチナからの疑惑の視線を煙に巻いた。
カナルがベルゲルミルと覇権を競う瞬間はいま少し先の事で、必然ミスティンとイオニウムの決戦も先延ばしとなり、ネメシスはクルスに時間的猶予を与えたも同然と言えた。それ故に、<紅蓮の魔女>もしばしの自由行動を許されており、こうしてアケナス東部に向けて邁進していた。
「セントハイムへと急ぎます」
<紅蓮の魔女>ことフィニス・ジブリールはそう宣し、軽快な足取りで足を踏み出した。




