獣の王-2
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クルスの知らぬところで、有り得ない事態が起こっていた。王宮の外、前庭にはイオニウム公とアンフィスバエナの命でわざと配置を外れていた獣人の兵士たちが戻りつつあったのだが、そこへ<戦乙女>が降臨した。
獣人たちは応戦するが、宙より戦槍を落下させる<戦乙女>を前にしては分が悪く、息をつく間も与えられずに数を減らしていった。獣人側の統率がたいそう乱れたちょうどその時、ノエルとワルドが王宮へと到着した。
「えっ……ラクシュミ?」
「クルスは三階奥の広間よ。ここは私に任せて、彼の援護を」
槍を振るう<戦乙女>のその言葉を、ノエルは無条件には受け入れられなかった。<戦乙女>の全身は儚くもぼやけて透けつつあり、魔法に精通したノエルにはそれが危険な状態であるように思われた。
ノエルは王宮の玄関に向かって駆けながらに、四方へと風の刃を撒き散らして敵を減らしに掛かった。ワルドもそれに倣って、近付く獣人を小剣で斬り払った。
「ノエル……構わず急いで。クルスが闘っているのは<フォルトリウ>の手練れ……長くは、もたない」
「何ですって……くっ!」
ノエルは振り向き様に、天にも届かんとする竜巻を作り上げた。竜巻は唸りを上げて襲い掛かり、庭に集まる獣人の大半を巻き込んだ。全身を引き裂かれた獣人が続々と地面に投げ出された。
「おー……こわ。お嬢ちゃん一人で獣人の軍団を総ナメに出来そうだな、おい」
「行くわよ、ワルド!ラクシュミ、残りは頼むわね!」
「了解した」
風の精霊の導きにより、ノエルとワルドの二人は王宮内の最短経路を駆け抜けた。もはや邪魔をする兵士もなく、広間へと直行した。
突入したノエルの見たものは、金色の鬣を獅子の如く雄々しく靡かせた軍服姿の偉丈夫が、クルスへと猛攻を仕掛けている場面であった。獣化を果たしたイオニウム公は手加減無用とばかりに剣と拳打を織り交ぜてクルスの防御を削っていた。
(ゼロは……対峙しているあのローブの男がマジックマスターね!見てなさい!)
即座に加勢をと息巻くノエルの肩を、ワルドが瞬間的に掴んで引き寄せ、耳元に小声で囁いた。
「忘れたか?前衛はあの二人だ。このままでいい。お嬢ちゃんが擬装役で、探索方はこの俺だ。転がってる王女は俺が助けるから、お嬢ちゃんは退路を作り出せ」
「何を……」
「目的を忘れちゃならねえ。まずは王女を連れてドロンだ。俺達は敵を殺しに来たのと違う。無駄な労力と時間を使うよりも、依頼の達成に全力を尽くすべきなのと違うか?」
ワルドは注意深く敵を観察し、忍び足から獲物へと向けて一気に加速した。イオニウム公もアンフィスバエナもその動きを捉えてはいたが、互いに強敵を前にして余計な注意を払うわけにはいかなかった。
ワルドの前に飛び出したのは狼面のルフで、両手を広げて意気揚々と迎え撃った。
「来い、人間!引き千切ってやろう!」
ルフが吼えた。
ワルドはルフにぶつかる手前で直角に折れ、彼の代わりに革の袋だけが直進した。ルフが袋を叩き落とすと、中身が盛大にぶちまけられた。それは液体であったのだが、空気に触れることで気化し、辺りを白煙に包み込んだ。
「うおっ?貴様ぁ……ッ!」
「ワルド様特注の目潰しよ!奮発して全てプレゼントしたからには、三日三晩たっぷり苦しんでくれや」
「うぐおおおおおお……!」
狼を象った顔面を涙と鼻水で溢れかえらせ、ルフは怒りと恥辱に満ちた叫びを吐き出した。ワルドはルフの視覚や嗅覚が用を成さない隙にとアンナの下に駆け寄り、自失状態にある彼女を担ぎ上げた。
「貴様!……待たぬかっ!」
イオニウム公は致命的なミスを冒した。ワルドの動きを看過し得ずに、あろうことかクルスから目を離したのであった。
打撲や裂傷、疲労の影響なぞ何のその、クルスの決死の一撃はイオニウム公の腹を横に抉った。目を見開いてクルスを見返すイオニウム公へと、立て続けに斬撃が撃ち込まれた。
「こんな……馬鹿な……」
獅子の顔面に苦悶の表情が浮かび、さしもの百獣の王もクルスの剣をまともに浴び続けては鋼の肉体を誇示するどころではなかった。苦し気に膝をついたイオニウム公の目の前で、クルスは仁王立ちをして彼を見下ろした。その瞳には、怒りを具現化した苛烈な光が宿っていた。
「有数の使い手に、これほど感銘を受けないことも珍しい。種族としての貴様らに怨みはないが、アンナ王女にしてくれた分を命で購え」
「……我らは永久に人間共を憎悪し続けるだろう。所詮種が異なれば相容れぬ仲だ。都合がいい故<フォルトリウ>の盟約を飲んだが、それこそが自然の摂理よ……」
クルスは躊躇なく剣を一閃し、イオニウム公の首をはねた。そして公の手にしていた長剣を拾い上げた。
(これが……クラウ・ソラスか?魔法力を感知出来ないおれには、ただの剣にも見えるが)
手元の長剣を眺めると、クルスと激しく斬り結んだにも関わらず刃こぼれの一つしておらず、剣身は澄んだ銀色に光っていた。
「クルス・クライスト!」
アンナを抱えたワルドの声で我に返り、クルスはアンフィスバエナへと剣を向けた。ゼロと牽制し合っていたアンフィスバエナはそれに慌てた様子もなしに、両の目を閉じたままで応じた。
「成る程。ハーフエルフにクラウ・ソラス、それに緑のエルフがもう一人。これは相討ち覚悟でなければ闘えませんね……」
アンフィスバエナの口にした言葉に反応し、クルスはゼロへと視線を転じた。ゼロはフードを被ったままで戦闘に臨んでおり、エルフの特徴である長い耳は隠されていた。
(目が見えてはいないようだが……洞察力の為せる技なのか?)
神剣を手にしたクルスがアンフィスバエナへ迫ろうとしたその時、姿を消していたノエルが再び広間に顔を出した。
「獣人の多勢が戻って来ている!クルス、急いで脱出するわよ!」
「だそうですよ?獣人の王を弑したあなた方です。見付かれば、ただでは済まされないでしょうね」
「マジックマスター・アンフィスバエナ。お前のことはアムから聞いている。ソフィアに巣食う害虫だそうだな。<フォルトリウ>の活動で出張ってきたのだろうが、十天君をここで削ることは後々大きな意味を持つ」
クルスは剣を下段に構え、猛烈な速度でアンフィスバエナとの距離を詰めた。アンフィスバエナが杖で床を叩くと、瞬く間に石床が隆起してクルスの突進を邪魔した。間髪入れずにゼロの放った魔法の矢は、アンフィスバエナが撃ち返した魔法の矢によって相殺された。
(こいつ……二つの魔法を並列起動させている?)
クルスは円錐状に盛り上がった石床を回り込み、しつこくアンフィスバエナを狙った。今度は魔法の衝撃波を見舞われ、クラウ・ソラスを前に構えたことで多少の威力こそ緩和したものの、大きく弾き飛ばされた。ゼロの援護射撃もまた打ち消され、二人の波状攻撃はアンフィスバエナの鉄壁の防御を破れないでいた。
「クルス!ゼロ!間に合わなくなるわ!そいつのことは放っておいて、早く!」
ワルドはとうに広間から逃げ出していた。ノエルの剣幕に負け、クルスも剣を握る手に力を込めつつ踵を返した。
「賢明な判断です。ここであなた方と相討ちになる覚悟は、この私にもありませんから」
アンフィスバエナは杖で軽く床を突き、微笑を湛えた。
「……アンフィスバエナ!奴等を……閣下の仇を逃がすな!」
「貴方が戦力になっていれば、或いは勝てたかも知れませんがね。マジックマスターのエルフが二人と手練れの傭兵が二人。四人を同時に相手しては、いくら私でもただではすみません」
「くっ……ギルモアーの神罰が下るを怖れぬというのか?閣下を討たれたばかりか、剣まで奪われたのだぞ……」
「獣神が守護したもうは、猛々しく雄々しい男性のみと聞きます。いまの貴方の惨状で、ギルモアーの名を軽々しく口に出せましょうや?」
アンフィスバエナは獣人の信ずるギルモアー神の名を借り、ルフが容易く目潰しにやられ戦線を離脱した点を責めた。ルフは己が不甲斐なさを嘆き、主を殺した人間たちへの憎悪と復讐心を募らせた。
クルスらの姿が消え失せたのと入れ替わるようにして、獣人の戦士達が続々と王宮への帰還を果たした。ノエルの魔法工作により、追っ手は彼女たちを見付けられなかった。
(次のイオニウム公は速やかに決まる。獣人というのは粗野で単細胞な種族ではあるが、権力継承に複雑な様式を必要としないところは美徳と言えよう。アグスティを奪還されたわけでなし、我等の使命に何の障害があろうか。たかが神器の一本、欲しければくれてやろう。クルス・クライストよ)
アンフィスバエナは慟哭しているルフから興味を失い、首が離れて死体と化したイオニウム公に軽く手を合わせると静かにその場を退去した。
***
ギルヌ砦に近いアザートには相応の活気が戻っていた。依然王都は獣人に占拠されていたが、この街は第三軍の影響下にあるため、往き来する者にある程度の安心感を抱かせた。エレノアの名はミスティン国内において、絶大な効力を発揮した。
領主の館を借り受けたクルスらは、アンナをそこに休ませていた。ギルヌでは充分な療養スペースが確保できない為に、こうして近隣の街が潜伏先に選ばれた。
エレノアの助言により、アンナの無事とクラウ・ソラス奪還の事実は表立っては伏せられた。ノエルなどは堂々布告することを主張したものだが、エレノアの反論には筋が通っていた。
アンナの健在とクラウ・ソラスの所有は国内の騎士や領民に必要以上の奮起を促し、一歩間違えれば制御不能の混乱を招き寄せるとエレノアは指摘した。烏合の衆がイオニウムや<フォルトリウ>と戦っても勝てる道理はなく、ミスティンの国力を低下させるだけとの読みであった。
「……それで。ヴァンシュテルン将軍は、いつが機だと言ったの?」
全身を包帯でぐるぐる巻きにされ、ベッドに仰向けに寝かされたアンナが枕元に控えるクルスへと訊ねた。
彼女の傷は肉体的にも精神的にも深く、衰弱した身体に安易な魔法治癒は逆効果とのゼロの診断により、まずは原始的な治療を施されていた。室内外を騒がすことは憚られ、アンナたっての希望でクルスだけが彼女の身辺警護を許可された。
「<フォルトリウ>に容易に介入を許さないだけの戦略的前進があるまでは、だそうです。……まあ、カナルへ出した使者の返答に期待しているのかもしれませんがね」
「カナルの新帝が動くとすれば、汝の顔は相当に広いのでしょうね。<リーグ>でも一目置かれているようだし、あのヴァンシュテルン将軍が胸襟を開いたというのも頷けるわ」
「過大評価ですよ。おれは自分の為すべきことを何一つ果たせていない。流れでイオニウムと戦っているこの瞬間も、四柱の封印は解けつつあるかもしれない。それに、ラクシは……」
クルスは胸元のペンダントをそっと握り締めた。あの時、<戦乙女>はクルスの苦境を救うべくマスターであるクルスの召喚を経ずして現出した。結果的にノエルやワルドの進路を確保して、無事にクルスを勝利へと導いた。だが、その代償は大きかった。
「……<戦乙女>は未だ呼び掛けに応じないの?」
「はい。ノエルが言うには、<パス>は微弱ながらに繋がっているので、存在自体が消えたわけではないと。魔法力の供給に問題がない以上、ラクシの身体に原因があるものと推測されます」
「そう……。楽園クラナドに住まうという天使。リン・ラビオリのいうビフレストを目指すしか、今のところ解決の糸口はないのね……」
「それに関しては眉唾なところがありますので。ノエルとワルドに裏取りへと動いて貰っています」
「裏取り?」
クルスはアケナス最北端の地に隠る独居老人について、アンナに語って聞かせた。賢人イビナ・シュタイナーが住む岬の石塔には古代の魔法生物が守護者よろしく徘徊しており、ノエル単騎の探索は流石に危ないとワルドに同行を頼み込んでいた。
親切心など持ち合わせぬイビナの性格からして、何もかもを丁寧に教えてくれることはなかろうが、クルスには幾ばくかの勝算があった。ラクシュミはなんといってもサラスヴァティの妹であり、イビナにとり数少ない知己に当たった。
(仮にだ。ビフレストとやらの先にラクシの器となり得る種族が暮らしていたとして。技術的なハードルは兎も角、倫理的にそのような所業が赦されるのか?天使とやらにも人格はあるだろう。……それを無視して単なる器と割り切るなど、果たしておれに出来るものか……)
「クルス。私とミスティンには構わなくても良いです。汝は私の期待に良く応え、クラウ・ソラスをイオニウムから取り戻してくれた。そればかりか私を助け、獣人の王をも討った。……私は本当に無力だったわ。イオニウムとの交渉の先頭に立ち、自己の権勢を高めようと単に利口ぶっていた。自らの意思でアグスティに残った結果、獣人どもにいいように嬲られただけ。この身を好き勝手にされることはまだしも、汝の力が無くば政治的に利用される最悪の事態を招いたでしょう」
アンナは寝床より真摯な眼差しをクルスへと向け、真剣に言葉を紡いでいた。空元気に違いないが、そこに浮かべられた柔らかな微笑は、剣呑としていたかつてのアンナよりも余程似合いであるとの感想をクルスに抱かせた。
「こなしてくれた任務の大きさを鑑み、最大限の報奨をとらせる。汝は……汝の為すべき事を為しなさい」
「イオニウムとの戦争はまだ序盤。今となっては、クラウ・ソラスを手にしただけで王位は獲れない。おまけに、グラサール将軍は……」
「同情など不要よ。それに、イオスは羽を休めているだけ。彼は根が真面目な騎士だから、いまの状況を自らの責と追い込んでいるに違いないわ。近いうちに気合いも入るでしょう」
クルスらがアグスティ潜入計画への賛同を募った際に、イオスは動かなかった。正確には、イオス旗下の一部の騎士は陽動へと動いてくれた。肝腎の将軍の姿はなかったが、クルスの聞いた範囲では<リーグ>の傭兵がよく第二軍の騎士を鼓舞していたとのことであった。
実のところ、クルスは迷っていた。<戦乙女>の命が危険に晒されている以上直ぐ様対策を講じたいのだが、目の前のアンナ及びミスティンの苦難を避けて通ることは、魔境と戦ってきた自分のこれまでの半生を否定するにも等しいと考えられた。
サラスヴァティ・レインがアケナスの平和を護持しようと各地を放浪していたことはもはや明白で、クルスの信条はそれに反しないことが最優先事項となった。
(まず、ノエルの戻りを待とう。それからダイノンだ。カナルが動くというなら、それこそ巻き込んだ手前無視することは有り得ないのだから)




