スペクトルの魔手-3
***
エレノアの寝所に一陣の風が舞い込んだ。窓際のカーテンがはらりと揺れ、それがなくとも空気に混じった不穏な気配はエレノアの安眠を妨げるに充分であった。
天蓋付のベッドから起き上がり、寝間着の上にガウンを羽織ると、エレノアはゆっくりした足取りで窓辺に寄った。窓は微かな隙間を伴って開いており、エレノアは手を掛けるとそれを一気に開放した。
「夜も更けた。魔性が動き回るに相応しい時間帯といえましょうね。何用かしら?」
「刺客を退けられたようで何よりだ。まさか被害がゼロだなどと、スペクトル城の公爵も唖然としよう」
窓外には星空と夜の景色が広がるのみ。声の主は姿を現すことなく先を続けた。
「だが、それ故奴らは必ず次の手を打つ。なぜ無能なる王族を人身御供としなかった?ワーズワースの時はかくもあっさり見捨てたであろうに」
声音と話の内容から、エレノアは迷惑な来訪者の素性を特定していた。ここで力に訴えるなり騒ぎを起こすなりして相手を下がらせることは出来た筈だが、彼女はその道を選ばなかった。
「貴方こそ、人の身を捨てたらしいと風の噂で聞こえたわ。今更ミスティン王位の継承やイオニウムの動静が気にかかるとでも言うの?何のために?」
「いち国家の趨勢に興味はない。私の関心は今や、四柱の封印にのみ向いている。エレノア・ヴァンシュテルン、私を万魔殿へと導いてはくれまいか?」
「ウェリントン元将軍。久方ぶりの挨拶がそれですか。平然と物騒な願いを口にする。変わっていませんね」
「そう。私は変わらない。ヴァンシュテルンよ、お前は様変わりしたな。すっかり丸く収まった。世界はお前を受け入れたのか?」
「フフ……知らないわけでもないでしょうに。かつて万の悪魔を閉ざした天獄の万魔殿。人間はおろか悪魔の立ち入る術などないのですよ。今の貴方には、足を踏み入れる資格が欠片もない」
「だからこうして頼んでいる。妖精の血の流れをくむお前にな。そして私は知っているぞ。資格を有する者であれば、例え死体であっても万悪殿の扉は開かれる」
「私ではなく、聖タイタニアを頼ってはどう?それとも<フォルトリウ>に敵対した身では、やはり物怖じするのかしら?」
「この私が、妖精如きに臆するとでも思うのか?」
声の質が変わり、百戦錬磨のエレノアですら耳を通して冷たい重圧がのし掛かるのを感じた。そして窓外の中空へと、天よりウェリントンが降りてきた。ウェリントンはエレノアの目線と等しい位置に静止して浮いており、自身の周囲に何らかの魔法を展開していることは想像に難くなかった。
ウェリントンの瞳は酷薄な光でエレノアを刺し、全身から漂わせる闘気は諸国をして<白虎>と恐れさせた往時のままであった。エレノアは、志を共にした頃に頼もしささえ覚えた究極の武威を前にして、人知れず背中に汗をかいていた。
「共に不毛な理想と別れた身。大人しく付いてくれば手荒な真似はせん。拒否するのであれば、このダーインスレイヴを抜く」
ウェリントンの腰に下がる妖剣をひと睨みしたエレノアは、数少ない彼に関する風聞を持ち出して時を稼ぎに出た。
「カナル帝国の内戦のことは聞き及んでいます。ベルゲルミルの侵攻に、女帝誕生。白騎士団も交戦したようですね?」
「興味はないな」
ウェリントンは本当に興味がないという素振りで断じた。
「いまこの国にクルス・クライストと名乗る傭兵とその一味が訪れているの。ちょっと調べただけで、カナル女帝の近親で活躍したと思しき記録が出てきました。御存知?」
「……一人、一味の内に異数の剣の使い手が混ざっている。だが些事だ。カナルにおける四柱の封印は動揺している。以後は放っておいても、他の封印に工作をした余波で解くことが出来よう」
「……アケナスが終末を迎えると分かっていて、本気で四柱を降臨させようと言うの?貴方は心までも悪魔に売り渡したというのですか?」
エレノアからの直球の質問に対してウェリントンが口を開いて応答しかけたその時、地上より声が張り上げられた。建物の三階とそれに相当する中空に位置した二人の鼓膜は大いに震わされた。エレノアの待っていた援軍であった。
「将軍!御無事ですか?」
野太い、獣の咆哮かと誤解しそうな声音は力強さと勇敢さを包含していた。ウェリントンは足下に集い始めた人影へと片時注意を向けたが、直ぐに視線を切ってエレノアへと落胆の表情を見せた。
「全員斬って捨てても良いのだがな」
「バイ・ラバイは半分獣人の血を継いでいます。あれは、いくら貴方であっても御しやすい相手ではありません。当然、私も闘わせていただく」
エレノアの微笑に影が差した。<北将>と名高い彼女が、珍しく気合いを入れた証左であった。
ウェリントンは少しの間エレノアを凝視していた。やがて階下からバイ・ラバイの駆け上がってくる足音が聞こえ、ウェリントンは無言の内に上昇していった。エレノア邸の屋根の上に回り込んだようで、窓外に顔を出して見上げたエレノアの視界には何者も映らなかった。
(<フォルトリウ>は如何なる種族の滅びも甘受しない。人為的に延命を処置することの歪みを受け入れ、文明の停滞をも厭わない。翻って、四柱の封印が解かれればアケナスには大乱が勃発し、魔境大戦とは比べ物にならぬ危機が訪れる。両者の主張は相容れず、遠からずぶつかることは目に見えている。……だが、アケナスの命運をその二勢力だけが握っているというのでは、あまりに悲愴ではないか。緩慢なる死か、神の裁きか。そのどちらであっても決してアケナスに光明をもたらすものではないのだから)
***
まさに珍道中と言えた。クルスとノエルは何の因果か、群狼騎士団アストレイ小隊の残存四騎と一緒に行動していた。これはアストレイの下した結論で、二騎の犠牲を出した以上イオニウムの不可解なる好戦姿勢を調査しなければ、彼とて素手ではビスコンシンに帰れなかった。
ノエルはオズメイの男衆が同行するのを嫌ったが、クルスの半ば強引な説得に圧されて最後には了承した。クルスは慈善でアストレイの申し出を入れた訳ではなかった。
(危険が迫った時に、こいつらを囮にすることが出来るかもしれない。未開の地を走破するために使い途は幾らでもある。向こうもおれたちの力だけを当てにしているのだから、良心が痛むこともない)
そうしてイオニウムの支配領域に入り込んだクルスらは、街並みを一望出来る小高い丘の上で一旦歩を休めた。ノエルと、オズメイのマジックマスター・ジトーの協業によりイオニウム近隣に張られた魔法探知は撹乱していたので、肉眼を除いて一行の動きが見付かることはないと言えた。
イオニウム市街の中央には四方に尖塔を配したスペクトル城が鎮座しており、獣人らしく飾り気のない荒々しい石積みが目立った。スペクトル城を長距離から魔法で偵察することは流石に魔法結界に阻まれ、侵入経路の目処は立たなかった。
「どうするの?変装でもする?」
「獣人の目に人間がどう映っているのかは分からないが、多分嗅覚で感付かれる。魔法で視覚と嗅覚を遮断しないと、潜入は難しいだろうな」
クルスの答えにノエルは思考を回らせた。彼女の見る限りイオニウムの魔法探知の精度は高く、城と言わず街中を闊歩するだけでも正体の露呈が懸念された。
自前の双眼鏡を用いて物理的に偵察しているアストレイが無愛想な口振りで意見を挟んだ。
「この戦力で正面突破は無理だ。イオニウム公にさえ会えれば、獣人たちが何を考えているものか問えよう。堂々交渉を持ち掛けてはどうだ?」
「どうぞやってくれ。いきなり串刺しにされても、恨むなら自分を恨めよ。忘れていないといいが、自衛の為とはいえおれたちは獣人を殺しているんだ。そしてその仲間を取り逃がしている」
「こちらも犠牲者は出ている」
「だから勝手にどうぞと言っている。オズメイとイオニウムがどんな緊張状態に陥ったとして、おれとノエルには関係ない」
口論になりかけた二人の間に一石を投じたのはジトーで、フードの下の落ち窪んだ目をぎょろりと光らせて語った。
「地中を魔法走査して分かったのだが、街の周辺には地下水路が巡らされているようだ。魔法で掘削すれば潜れんことはない」
ノエルが人差し指を顎に当てて考え、疑問を呈した。
「音は風の精霊に頼んで消せると思うけど……水はどうかしら?水路の形態や水量によっては歩けないかもしれない。何より水の流れに不自然さが現れたら、街の管理者が気付く恐れもあるわ」
「その通りだ。地下に水の通り道しかないのなら、魔法で空気を確保して最小人数で泳いでいくしかない。街や城まではまだ距離があるから、途方もない作業になる。……だが、イオニウムは作られて歴史が浅い。水源調査や水路補修用の舗道が設置されている可能性は十分にあろう」
クルスは即決し、ノエルとジトーの魔法に加えて残りの面子を土木工作に従事させた。そして二日を費やし、狙い通り地下水路に徒歩行軍の出来る空間を発見した。一同は、侵入地点の擬装を入念に済ませて地中へと足を踏み入れた。
地下水路は上下水の区別がなされ、ジトーの予見のままに技術の粋を尽くされた出来栄えであった。魔法の光球だけが暗黒を穿ち、侵入者たちの足下と近い範囲を有視界とした。澱んだ空気がまとわりつくのを嫌ったノエルは、盛んにマントで周囲を扇いだ。
水の流れる方向からクルスが見当を付け、地下水路をひたすら歩いた。途中、警備の魔法生物あたりと遭遇しないものかと誰もが警戒していたが、それらしき気配はなかった。
時間の経過は不明であったが一夜を地下で過ごし、続けて進むと配管の数が目に見えて増えてきた。梯子や出入りの扉も視認出来たため、クルスは慎重に現在地の確認に動いた。数度にわたって位置を変え、扉を押し開けて外に出ることで、スペクトル城との距離や時間を測った。
クルスは全員をさらに先へと導き、目ぼしい脱出経路を探ると、夜まで時間を潰すよう提案した。その間もマジックマスターの二人は、敵の探知にかからぬよう魔法で細工を施していた。
「ノエル、疲れただろう?無理をさせていて、すまない」
クルスとノエルの二人は群狼騎士団の小隊からは少し離れたところで、壁を背にして並んで身体を休めていた。己が魔法を使えぬ身で相棒を酷使していることに、クルスは心苦しさを感じていた。
ノエルの見せた返答は、燐光に浮かぶ輝かんばかりの笑顔であった。
「私、クルスの役に立ってる?」
「勿論だ。おれだけだったら、ここに到達することはおろか先程の悪魔を撃退することすら叶わなかった。全て、ノエルのお陰さ」
「そう言ってくれるなら、頑張れる。幸いここには水が通っているから、精霊たちが私に力を貸してくれる。まだまだ張り切って行くわよ」
「ありがとう。……思えばおれは、絶えず誰かに助けられてここまで来られたんだな。ヴァティ、ラクシ、ノエルにアム。ネメシス様やフィニスもそうだ。なんと有能な相棒に恵まれた旅路であったか……」
「女ばかり……」
そうは突っ込んだが、ノエルの機嫌は悪くなかった。クルスの肩に頭を預け、時間の許す限りはこうして二人きりの時間を大事にしようと努めた。
しばし落ち着いて過ごした二人の下へ、律儀にも咳払いなどしてアストレイが近寄ってきた。彼はスペクトル城に突入して後の作戦を打ち合わせようと提示し、群狼騎士団の立ち位置を明確にしたがった。
「おれたちの目的がクラウ・ソラスだということくらい分かっているのだろう?ならその責までお前たちが負う必要はない」
「そのような事は貴様に言われるまでもない。神剣を巡る人間と獣人の争いなど、戦の火種も同然。本来なら身体を張ってでも止めたいところだ」
アストレイの渋面にクルスが茶々を入れた。
「好きにするといい。しかしだな、ここでの仲間割れは全員の生存確率を低下させるのと違うか?」
「……それが分かっているから、こうして腹を割りに来た。イオニウム公の真意を質すまで、我等は決して獣人を傷付けない。だが貴様らの邪魔もせん。獣人と対するに、手を取り合う以外選択の余地はもはやない」
「了解だ。それなら良い。ならば話すが、おれの奥の手は<戦乙女>の召喚だ。時間の制限があり、魔法を遮断する環境では当然呼び出せない。威力は先の悪魔戦で見せた通り。余程の窮地になれば、迷わず投入して獣人どもを蹴散らす」
「……承知した。あのように高度な技を、一介の傭兵が使いこなせるとは信じられんが、この目に見せられたのだ。飲み込む他はあるまい」
堅物宜しく二言三言を溢して、アストレイは不承不承といった体で頷いた。彼としては、任務を無事に遂行して帰還することが最善であり、ここを死地とすることなど到底受け入れられなかった。