エピローグ
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丘には水色や白といった落ち着いた配色の花が植わっていて、厳かに据わった石段を上る者の目を休ませ、鼻腔を甘くくすぐった。丘の周囲は部外者の視線を阻むかのように丈が高く葉の広い常緑樹が林立していた。
皇家とそれに連なる大貴族のみが弔われる墓所であり、丘上には技巧の凝らされた大小様々な墓石が整然と立ち並んでいた。一目見ただけで漂う霊気に当てられたか、フィニスは立ち眩みを覚えて頭を振った。
白衣姿のネメシスはすぐに見付かった。彼女の背後には護衛の騎士が三名張り付いていた。ネメシスは過剰な警護を嫌うものだが、ルカとフィニスが強引に迫ったことで実現を見ていた。
フィニスはこの地に眠る代々の英霊たちへ哀悼を捧げつつ、ネメシスの元へと足を運んだ。頭には慣れぬ銀の額冠を戴いており、それはフィニスが帝国宰相府の統括官に任じられた証であった。
先帝やエドワード・カナルの墓参りについては事前に知らされていたが、ネメシスがその場所に立っていることはフィニスにとって予想外であった。
(マリス侯爵家の墓を……)
「フィニスではないの。火急の用件かしら?」
「はっ。霊前を騒がせまして恐縮でございます。……それにしても、何故マリス侯家の墓に?」
「そう……変なことを言うようですけれど」
一陣の風がネメシスの黄金の髪をさらった。白い御手で髪を押さえ、ネメシスは憂いを帯びた碧眼で丘の下に広がる田園風景を一望した。
「フェイニール・マリスやアリス・マリスに個人的には悪感情を抱けないのです。勿論、大勢の同志を死地へ追いやったことは赦せません。しかし、それは彼らにとっても同様のこと。立場の違いがもたらした悲劇は鏡合わせなのです。そういった戦禍を抜きにしてみれば、あの兄妹の政治感覚や行動力、国内外への影響力も無視の出来るものではありません。何より社交の場で不快に思わされたこともないのです。親交を深めていたなら互いに切磋琢磨も出来たでしょうし、あの二人にも私の治世を補佐して欲しかったと切に思っています」
「無礼を承知で申しますと、マリス兄妹は陛下の所領を片田舎と見下しておりました。陛下には無くとも向こうには感情的なしこりがあったようにも見受けられますが……」
「それは当然でしょう。格式も身分も、バレンダウンよりマリスが数段上です。エドワード様の御寵愛をいただけていなければ、本来同じ土俵に上がれもしなかったでしょうから」
フィニスは主の寛容さに感じ入り、深々と頭を垂れた。倒した敵にも敬意を払い謙遜することを忘れぬネメシスの姿勢は、為政者にこそ必要な性分であると考えられた。
ネメシスがフェイニールやアリスの才を尊いものと主張したことに嘘偽りがないことをフィニスは百も承知していた。帝位に着いたネメシスを待っていたのは多くの諸侯に対する論功であり、報償を巡って既に諍いすら起こっていた。なまじ問題を起こす輩は客観的に見て重要な職位を得るに必要な資質を充たしておらず、人材登用の難しさをいやと言うほどネメシスに体感させた。
「それで、今度は誰です?」
ネメシスはフィニスの来訪から、またも諸侯がトラブルを起こしたものと見抜いていた。
「はっ。ミレー伯ランゲバルトと伯爵公子が兵を挙げ、サフィーク男爵領を強制接収したとのことです。伯は内務大臣の地位を無心してきたことから、新都防衛副本部長の職に不満があったものと推察されます。他方、サフィーク男爵は内務省次官に内定しているので、嫉妬から男爵を標的とした線が濃厚かと」
「……粗暴で視野狭窄な伯爵と、その威を借る公子ですか。私に味方してくれていたのでなければ、決して副本部長の職をも与えられていなかったでしょうに。サフィーク男爵は無事なのですか?」
ネメシスの問いにフィニスは用意していた答えを述べた。
「不明です。詳細は巡察官の報告を待たねばなりません。なお、白騎士団の情報網によれば、ミレー伯の私兵は二百に近い見込みです。白騎士団でなくともある程度まとまった部隊を編成して対処する必要に迫られそうです」
「そのようなことに力を傾けている場合ではないというに……。フィニス。戻ってルカ将軍やアルテ・ミーメ将軍、ベンらと謀りましょうか」
ネメシスはほぅと小さく息を吐いた。それを見ていたフィニスは、クルスであればその所作を可愛いとでも褒めちぎるのではないかと不謹慎な考えを回らせた。
幸いにもネメシスの側近たちの結束は堅く、新都バレンダウンを中心とした中核戦力に綻びは見られなかった。しかし、そこにはネメシスが望んだ勇者たちの姿が欠けていた。
クルス・クライストは一向に片付かぬ賢者の石の奪還と四柱の封印護持を目的とし、再度の旅路を選んだ。ベルゲルミルとの再戦も近かろうと重臣連中がその選択の撤回を目指して動き回る中、ネメシスだけは彼を快く送り出してやるべく城内の魔法結晶をかき集めて贈与した。そして旅立つ仲間たちの為に、新帝として<巡察騎士>の称号を授与することと決めた。
出発の日の朝、ネメシスは人払いをしてクルスとの別れを惜しんだ。ノエルとダイノンの同行は誰の計算の内にもあったが、クルスの出立に遅れること三日、アムネリアまでもカナルからの離脱を表明したことに皆が衝撃を受けた。
マリス侯爵の打倒以来カナル復興に知恵を絞り尽力していたアムネリアが急遽意を翻したことにカナル政府の高官たちは一様に驚き、そして大いに嘆いた。フィニスはその展開をある程度見越していたのでそれほど慌てはしなかった。ただ、クルスやアムネリアに決してついては行けぬ主の胸中を思うと辛かった。
(アムネリア殿はクルス殿らと合流出来たのであろうか。遺跡より帰参されたベン殿は、一行が北へと旅立ったと言っていた。大森林を西回りにベルゲルミル入りするのか、それともアケナス北域を目指しているのか……)
「フィニス?どうかしましたか?」
どこか上の空に見えた頼れる右腕に、ネメシスは優しい笑みを浮かべて訊ねた。
「いえ……その。クルス殿は息災かと思いまして」
「フフ。貴女もクルスに当てられた口ですね」
「……そのような。邪な感情はありませぬ」
「否定しなくても良いではありませんか。私も貴女も……いいえ。世の女性はああいう冷めた男に弱いということです」
「冷めた、ですか?クルス殿は十分に情熱的かと思われますが……」
「それは違います。クルスが女性を口説くのは、一夜の恋も含めてポーズなのです。彼の本心は心の奥底で、分厚い氷に阻まれたまま眠っています。そうさせたのは行方不明になったサラスヴァティと半神と化したラクシュミの、レイン姉妹です。かの女神たちに囚われた彼の心は生半可な熱では解凍されないことでしょう。そう……何もかもを投げ捨てて寄り添わない限りは」
ネメシスは眉尻を下げ、寂しげな瞳で虚空を見上げた。フィニスにはネメシスの慟哭が余すところなく伝わった。己が主が年相応に恋愛にうつつを抜かすことなく、国家運営に責任のある立場を貫き通す覚悟であると知り、それは貴くも悲しい決意だと涙した。
ネメシスはそれ以上語らずに、近衛の騎士を引き連れてマリス家の墓前から引き上げた。フェイニールやアリスに匹敵する人材の登用は急務であり、ネメシスの祈りが英霊へと昇華した兄妹に通じ、新たなカナルの執政に加護を与えんことをフィニスは期待して止まなかった。
(クルス・クライストよ。ネメシス様は私が守って見せます。賢者の石と四柱の封印は貴方に託しましたからね。どうか、いつまでも御壮健で……)
第二章 カナル承継 完