マリス一門-3
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フォーディラントより引き上げたネメシスの軍勢は、本拠地であるバレンダウンへは帰還せずに、前線基地として物資を集積したガゼルに留まった。そこで戦力の再編を図り、カナル中部の各地に睨みをきかせた。
先に剣を交えた部隊に加えて、マリス侯爵家はアリスの率いる主力がチャーチドベルンを進発したとの報告もあり、ガゼルはにわかに色めき立った。
その渦中、旧友の再会を祝した宴が質素に執り行われていた。仮設の指揮所は折り畳み式の巨大なテントで作られており、ベニヤで仕切りがされただけの安普請であった。奥に設けられたネメシスの私的スペースにおいて、クルスらは薄い果実酒に満たされた杯を傾けていた。
「これだけ待たせるとは、正直想定外でした」
ネメシスは憮然とした様子を隠さずに言った。それを見た傍らのフィニスが目を丸くした。
クルスの眉が申し訳なさそうに下がり、口からはもっともらしい理由が並べ立てられた。曰く、帝都チャーチドベルンに潜む四柱の封印に関する手掛かりを追い、アケナスを東西に奔走していたこと。曰く、その途上で<リーグ>の特命を受けざるを得なくなり、古代の遺跡や魔境周辺を探索したこと。
「それで便りの一つも寄越さなかったのですね?<リーグ>の支部伝いに連絡をくれてよかったものを」
「いえ……情報の内容が内容です。どこから悪魔の手先に漏れるとも分からなかったので、そこは敢えて自粛しました」
「別に秘密情報を送れとは言っていません。近況を綴るだけでも良いのに、一年もの間音沙汰無しでいるとは信義の程度が知れるというもの」
にべもなく、ネメシスは言い切った。彼女は次々に杯を空けていき、困り顔をしたフィニスの制止を振り切ってクルスへの糾弾を続けた。クルスは平身低頭謝り倒し、その姿勢は流石にアムネリアの同情を誘った。
「ネメシス様。聞こえてくる噂話によると、戦況は膠着状態にあるのだとか。悪魔の王を討ち果たした当初の勢いは如何なされたのですか?」
「アムネリアさん。これは不思議な話なのです。マリス侯爵家は帝国屈指の名門と言えど、武家ではありません。それ故、士気の高いこちらに敗着の気配などなかったのです。……当初は」
ネメシスの持って回った物言いにアムネリアは首を傾げた。助け船を出された形のクルスも、これは大事と真面目に聞く姿勢を見せた。
「いつからか、彼等の軍は強勢に生まれ変りました。そうですね……大局観をもって兵を動かすようになったというか。戦略的にも戦術的にも。そして、マリス侯家の象徴であるアリス・マリス以外にも凄腕の戦士が投入され出したのです。私は今日はじめて相対しましたが、敵は強力な槍使いでした」
「アリス・マリスというのは、マリス侯爵の双子の妹の……マジックマスターですね?」
「そうです。侮れない使い手です」
「槍使いの素性は?」
「分かりません。ですが魔獣相手にも怯まないあれほど戦士、カナルの者であれば私が素性を知らないというのはおかしい。……そう、先端部に斧と鉤爪の付いた槍を用いていました。あれはカナルの制式武器ではないように思えます」
アムネリアの目が見開かれ、ネメシスを凝視した。
「……ハルバード。突く・斬る・引っ掛けるの三点攻撃を実現した騎兵用の矛槍。これを制式採用している騎士団は、ベルゲルミル連合王国が旗頭・ベルゲルミル公国」
アムネリアの発言にすかさずフィニスが声を上げた。
「何ですと?ではアムネリア様は、マリス侯がベルゲルミルに通じているとお考えなのですか?」
「いや。そう結論付けるのは早計だ。ハルバードの使い手が傭兵だという線もあろう。騎士崩れで流れの傭兵をやっている者など今時少なくはない。それにアケナスは広い。ベルゲルミル公国以外にも、軍にハルバードを卸している国家はまだあるやも知れぬ」
そう言うなり、アムネリアは口を閉ざした。彼女の中に一つの疑念が生じてはいたのだが、確証のない中でそれを口外する気にはなれなかった。
ネメシスは杯を置き、自軍の置かれた現状を次のように説明した。カナル南部から中東部にかけての諸侯は皆バレンダウン伯爵に膝を折り、北部においてもネメシスの調略で虫食いのように勢力図は塗り替えられていた。
西部と帝都近隣でマリス侯爵家が弱々しくも抵抗を続けていたが、バレンダウン派には勢いがあり、ネメシスによるカナルの統一は遠からず達成されるものと思われた。それがここ半年、局地戦でバレンダウン勢の敗れる事態が頻発し、ネメシスに力を貸す諸侯の足並みが乱れ始めた。
追い打ちをかけるように魔獣が戦場へと出没し、両軍どちらとも構わず襲い掛かった。双方の陣営はこれにより都度戦略の再考を余儀なくされた。
進軍速度が鈍ったのみならず後退を迫られたバレンダウン勢はつい先日も要衝フローレンを奪われるという失態を演じ、事ここに至り諸侯の中からマリス陣営に寝返る者まで現れた。
勝ち切れなかったネメシスが、今ではじわじわと押し込まれていた。そこで現状を打開する為、士気の向上を目論んで此度自らが出陣することに決めたのであった。
ネメシスの話を聞き、クルスは「あの魔獣ですが」と切り出した。クルスに同調し、アムネリアも頷いて先を促した。
「……闘ってみて分かりました。やつがカナルに寒冷現象をもたらしている元凶に間違いありません。そして、私はあれを放った者がウェリントンなのではないかと睨んでいます」
ネメシスの目の色が変わった。
「何ですって……。どういうことですか?」
「魔獣がところ構わずカナル中に寒気を撒き散らしている点。バレンダウン・マリスと勢力を問わずに襲撃している点。この二点から、魔獣の意図がカナル帝国それ自体の弱体化にあるのは明白です。そして、魔獣は何者かに召喚されていた節がある」
「しかし、なぜ召喚者がウェリントンだと……」
「証拠はありません。が、悪魔の王がチャーチドベルンで邪悪なる四柱の封印を解こうとしていたことは事実。賢者の石を持ち去ったウェリントンがやつに感化されていたとしてもおかしくはありません。あのように強力な魔獣を従えていることに関しても、無限の魔法力を担保しているが故に筋は通ります」
ネメシスは細い顎に手をやり、クルスの言ったことを頭の中で反芻した。憂いを帯びた碧眼はいたく保護欲をそそり、クルスはアムネリアに気付かれぬよう唾を飲み下した。
凛としているネメシスも良いが、思考を巡らせている彼女の知性的な側面もまた好ましいとクルスは改めて感心した。
ネメシスは、ウェリントンがカナルの内戦に干渉しているかどうかを一先ず脇に置くとして、魔獣が気候に悪影響を与えている点の解消へは早期に手を打つべきと宣言した。フィニスをはじめとした部下たちは一礼してそれを受諾した。
「戦の神マイルズの神官がマリス侯に付いて参戦するという観測もあります。クルス、アムネリアさん。どうか御二人の力を私にお貸し下さい。カナルに速やかなる安定をもたらす為に。アケナスを魔境や悪魔の恐怖から解放する起点を作る為に」
***
「ネメシス様に付くので良いのだな?
夜半、篝火の焚かれた見張り櫓の下で寛いでいたクルスを、アムネリアがふらりと訪ねた。二人とも装甲を外して身軽な格好をしており、そうするとアムネリアなどは良家の子女か貴婦人にしか見えなかった。
(これで神官で凄腕の武将なんだから、世の中は不思議なことが多い)
白の短衣や腰布から伸びるアムネリアの手足はすらりと長く、夜の闇にぼうっと浮かぶ肌は火の赤光に照されてもすべやかな様が伝わった。長い黒髪は今宵は後ろで括られていて、年齢相応の溌剌とした生命力を発散させていた。それら完成された美に当てられたクルスは目眩すら覚えた。
「何を見惚れている。毎日一緒におるというに」
「美女と三日寝食を共にすれば飽きると言うのは迷信だ。おれはアムを見ていて些かも感動が薄れることはない」
防御柵に背を預けて座り込んでいるクルスと並ぶようにして、アムネリアは立ったままで横に付いた。
「ネメシス様を見れば恍惚とし、フィニスにも流し目をくれるそなたが年中発情期なだけではないのか?」
「それだけおれの周りにいい女が集まっているということだろう。これも日々の善行の賜物か。愛の女神クーオウルに感謝を」
「止めよ。罰当たりな」
たしなめるように言うが、アムネリアも本気で怒ってはいなかった。彼女はクルスの心がかつて同志であり恋人でもあったラクシュミ・レインの下にしかないことを承知していて、敢えて軽口に付き合っていた。ここ一年の旅を経て、その掛け合いは最早様式美と呼ぶに相応しいレベルに達していた。
クルスはアムネリアから視線を外すと、不意に真面目な顔付きに変わって最初の問いに答えた。
「カナルなりベルゲルミルなり、軍事力と発言力を兼ね備えた大国が率先して魔境に対抗する軸を打ち出すのは効果的だ。マリス侯の主張にはそれがない。むしろ自国の安寧に拘る傾向があり、それは結果的にアケナス全土の為にはならない」
「方便……でもないか。どちらが悪魔を滅ぼすに近いか。比べるべくもないな」
「……まあ、統治の主義主張に一方的な正しさなんてものはない。ネメシス様とは親しくさせて貰っている。それが第一の理由であっても、おれは何も困らん」
「そなた、<リーグ>との向き合いはどうするのだ?傭兵総連盟は関せずを方針としていたろうに」
クルスは現在も<リーグ>に所属する身で、道中の路銀稼ぎや情報収集において多々恩恵に預かっていた。表立って<リーグ>本部の意向に反して活動することは構成員である以上許されず、それが為にクルスはここまでカナルの内戦において己が立場を明確にすることは避けてきた。
しかし、ここに来てクルスの腹は決まった。
「積み上げたスコアは勿体無いが、ネメシス様の苦況を見て見ぬふりは出来ん。魔獣だけ狩ってはいさようならというのでは、寝覚めも悪いというものだ」
「そなたの安眠などどうでもいい。私は悪魔と対決する気概を持つ国家の樹立を望む者。ネメシス様が対魔防衛ラインを援護する立場をとられるとあらば、この身を御使いいただくに不都合はない」
「おれにもその身を使わせて欲しいものだが……」
アムネリアは氷結樹から下がる氷柱の如く透明で凍てついた瞳をクルスへと向けた。怯んだクルスは白々しくも鼻唄などを奏で、星空を仰ぎ見た。
予想に反してアムネリアは立ち去らず、やおら鞘に収まったままの剣を腰から外すと、クルスの隣に腰掛けた。じっくり話し込むつもりのようだと感じたクルスは冗談めかした態度を一時封じた。
「どうした?」
「前にも言ったが。私はソフィア女王国で君主の意志に叛いて戦った。確かな政治信条に基づいて行動したつもりでいたが、結果的に多くの血を流させただけであった。そなたは先程主義主張に一方的な正しさなどないと言ったが、まさにその通りだと思う。剣をとってまで白黒付ける筋合いの話ではなかったのだと、還らぬ日々を悔やむばかりに過ごしてきた」
クルスは相槌も打たず黙って耳を傾けていた。
「ネメシス様の選ぶは世にも険しい獣道。例え権力を手にすることになろうと、カナルの民に出血を強いる覇道を行くことに他ならない。既に戦の口火は切られて久しく、決戦を待たずして両軍ともに引くことはない。……あの御方をこのような修羅の世界に引き入れたのは、間違いなく私たちだ。私たちには道義的にネメシス様を助ける責任がある。それはまだ良い。いみじくも私もそなたも武人である故、流血沙汰は馴れたもの」
「……ネメシス様は違う、か?」
「そうだ。聡明な御方だ。カナルの兵士なり貴族なりが潰し合い必要以上に犠牲が出ることに心を痛められている筈。御父君が退かれ、伯爵位をお継ぎになって日も浅い。マリス侯爵の一党を九族滅ぼした後には、人が変わらざるを得ないだろうよ……」
遠い目をして言うアムネリアの横顔には寂寥が浮かび、反論が差し控えられたことでクルスの肯定の意は証明された。
二人はネメシスの持つ勇気や正義感を得難いものと信じ、また彼女が良く仁政を敷いてきたことを当然に把握していた。そして国家を統一する過程や他国との軋轢により生じる戦乱が、なまじ人間同士の争いが為に悪魔との生存競争とは趣を異として、時に凄惨な色合いを帯びるのだということも理解していた。そこに身を置きつつあるネメシスの人格に、この先どのような化学変化が起きようものか、アムネリアは決して他人事としてではなく心配を募らせていた。
(だが、それも勝ってこその心配か。魔獣に軍師に槍使い。こちらが駆逐されて、全てが杞憂に終わる可能性とて五分はあるのだからな)
考え込むアムネリアの心中を慮ってか、クルスは話題をより実戦的な方向へとすり替えた。
「アム。あの魔獣、そう簡単に倒せるとも思えん。いっそ使役している敵を攻めた方が早いのではないか?」
「見晴らしの良い戦場で当たったとしても、多勢の中に召喚魔法の発動主を求めるなど物理的に不可能だ。まして敵がウェリントンであるとしたら、それこそ魔獣よりたちが悪いと言えよう」
「如何せん、おれとアムの火力だけでは心許ないな……。役目があるフィニスも早々引っ張り回せるわけではないだろうし。戦力の調達が急務になる」
言いながらクルスの脳裏に閃いたのはやはり<リーグ>の存在で、何かしらの理由を付けて彼らを味方に出来ないものかとあれこれ夢想した。そうして無言で思索に耽っている内に時間は流れ、空が幾分白み始めた。
二人はネメシスの客人扱いということで、陣営の中にも相応の寝所が用意されていた。野宿を苦にしないとは言え、寝床がきちんとあるのはやはり有り難かった。どちらからともなく腰を上げ、少しの眠りを貪らんとその場を後にした。