1 マリス一門
クルス・クライストの四女神とカナル帝国記
第二章 カナル承継
1 マリス一門
屋内だというのに空気はひんやりとしており、木製のテーブルの表面に手をついたクルスはその冷たさに顔をしかめた。店の女主人がトレイに載せた温かいスープとパンを運んでくると、クルスは待ってましたとばかりにスープ皿を手に取った。それを見た女主人が申し訳なさそうに頭を下げた。
「これ、クルス。意地汚いぞ。神への感謝が先だ」
クルスの作法を叱ると、アムネリアは顔の前で手を合わせ、豊穣と大地の女神ディアネへと祈りを捧げた。クルスも渋々とそれに倣い、半端に口上を呟いてスープを口にした。
「主人よ、すまぬな。礼儀を知らぬ野人を客とさせてしまった」
「いいえ。こちらこそ、寒々しい場所に御迎えしてしまい申し訳ありません」
スープが喉を通る度に身体の内側から温度の上昇する様が感じ取れ、クルスは生き返ったかのような満心地を覚えた。アムネリアもほっとした様子で、二人の食は進んだ。
「スープのお代わりはいかがですか?」
「お願いしよう。時に主人。この辺りは定期的に寒波に襲われるのか?」
「いいええ。うちもここに店を開いて十年になりますが、こんな気象は始めてです。何せカナルは温暖な土地ですから。ご覧の通り暖炉の一つもございませんし……」
「成る程のう。……クルス、これはただ事ではなさそうだぞ」
アムネリアの指摘にクルスは全面的に同意した。彼らが訪れているのはカナル帝国でも北東に位置する小村で、帝国自体がアケナスでは西南部にあたる為、平野においてはどの地方であろうとも寒さに悩まされることはなかった。夜半や朝方に空気が冷えることはあっても、火熱に頼る程の猛威ではなく、せいぜいが外套を持ち出せば事足りた。
(これまでは……だ)
クリスはこの異常気象の原因に仮説を持っており、宿に部屋を取ってからアムネリアと検討をしようと考えていた。だが腹が満ちて好奇心が優先されたのか、アムネリアはクルスの目を見て回答を促した。
黒髪黒瞳のこの麗人と一年近く旅をしてきたクルスであったが、未だに彼女の美貌には慣れず、その濡れた大きな瞳に射かけられると抵抗しようという気はまるで失せた。アムネリアは六歳程年少であったのだが、首尾一貫クルスに対しては容赦がなかった。それでも脛に傷を持つ身である彼は、その態度に助けられていた。
「魔法の類いが関係しているのは間違いない」
「ほう。だが気象を操るような、広範囲に持続的に効力を及ぼし続ける技となると、儀式魔法であっても空前の規模が必要となろう?噂くらいは聞こえてきてもよさそうなものだが……」
カナル入りするにあたり、二人は周辺情勢を綿密に取材していた。軍事のみならず経済を踏まえた内戦の状況、近隣諸国の動静、悪魔に関する噂。
その中で、戦場に悪魔が出没するとの情報が見受けられた。クルスが注目したのはその点であった。
「上位悪魔であれば、膨大な魔法力を展開し続けてもおかしくはない。ましてや、これはおれの当てずっぽうに過ぎないが、無限の魔法力を誇るマジックアイテムを有する奴だっている」
アムネリアは雷でも落とされたかのように、全身をびくっと震わせた。
「……ウェリントンが関係しているとでも言うのか?」
「不思議ではないだろう?カナルの内戦。その発端に奴は関わっていた。そして人外の仕業と見られる特異な事象に、悪魔の干渉。逆に条件が揃い過ぎているとは思えないか?」
「ふむ。確かにな。早々に結論付けるのは危険だが、少なくとも確かめる余地はありそうだ」
図らずも追い続けていた敵が近くに現れたかのような展開に、普段冷静なアムネリアといえど心中熱を帯びることは抑えられなかった。
ナプキンで口を拭うと、アムネリアは首を傾げてクルスに迫った。
「そうと決まれば話は早い。明朝から馬を飛ばすぞ。一刻も早くバレンダウン入りせねばな」
「了解だ」
「……何をぐずぐずしている。今宵は早寝をせねばならん。直ぐに宿を取ってこい」
クルスはパンを齧りながらに了承の意を示した。狭い店内でその様子を見守っていた女主人がにこりと笑みを浮かべて言った。
「二人旅ですか?仲がよろしいようで何よりです」
「いやあ。それほどでも」
クルスが頭を掻いた。
「本当に、それほどでもない話だ。さっさと行け。まさか私を、厩舎に寝かす気ではあるまいな?」
寒空の下で藁にくるまり震えている境遇を一瞬だけ想像し、クルスは急ぎ店を出て表通りへと駆け出した。
***
夜は更け、館に詰めていた使用人たちも寝静まった頃、応接間には二人の男が悠然と座して何事かを待ちわびていた。見るからに貴族然とした金髪碧眼の痩身の青年と、骨太で逞しい巨躯の男性。外見上対照的な二人は言葉を交わすことなく長い時間を沈黙と共に過ごしていた。
広い間取りに華美な装飾のなされた空間でただ動くものは愛玩用に飼われた九官鳥のみで、大きな釣り鐘型の籠の内で忙しなく足場を変えていた。夜勤の侍女がテーブルに置かれた杯の交換に訪れ、深く頭を垂れてその場から逃げるようにして退出した。
いつまで続くとも知れない張り詰めた空気はしかし、数刻の後に登場した新たな人物により解消された。
「侯爵閣下!アリス・マリス、ただいま帰着致しました」
金髪碧眼、金色の甲冑を着込み袖無しの外套を肩に掛けた華麗な女性が、入室するなり大股に歩み寄った。その背後には目付きの悪い軍服姿の壮年男性が付き従っていた。
侯爵と呼ばれた痩身の青年、フェイニール・マリスは腰を浮かせて待ち人を歓迎した。
「御苦労であった、アリス。それで首尾は?」
「フローレンの街を占拠しました。ジットリス卿の策により、マクベス子爵の寄越した私兵も撃破。バレンダウンの敵本隊は未だ出てきておりません。フローレンにはポーネリア将軍と三個中隊を守備に残してあります」
アリス・マリスの報告に満足気に頷くと、フェイニールは彼女の背後に控えるジットリスに対しても労りの声を掛けた。
「流石だな、ジットリス卿。御協力に感謝する。貴公の頭脳は間違いなく我々を勝利へと導くであろう」
「畏れ多き御言葉。なれど、此度の快勝は妹君のカリスマと統率力の賜物かと存じます。妹君はマジックマスターとしての資質もさることながら、兵たちの心を掴む才に恵まれております」
「……うむ。両名の働きには満足である。それこそここで退屈を忍んでいた意味があろうというもの。のう、ガフロン卿」
水を向けられた大柄の男は立ち上がることもなく、顎髭を擦りながら不平を漏らした。
「侯爵閣下。次は私も実戦へ投入していただきたい。他人の勝ち戦ほど聞いていてつまらんものはありませんから。ジットリス!早く次の行軍計画を定めろ」
「……ディロン・ガフロン、自重しろ。侯爵閣下の御前であるぞ」
「戦争屋であるところの貴様が役に立つなど、絶え間無く作戦を立てることくらいだろうが。武人たる俺のここにいる意味があるとすれば、それは戦場で槍を振るうことのみよ!」
処置なしとばかりに諦め顔で首を横に振るジットリスに対し、アリスが「まあまあ」と仲裁の手を入れた。フェイニールは一通り戦果を賛美した後、ジットリスへと次の一手を訊ねた。ディロンも肩を揉みながらにその答えに注目した。
「フローレンを押さえたことで、東西南北の何れにも絶やすことなく補給を届けることが可能となりました。チャーチドベルン近郊の北部はもとより、侯爵閣下への支持が盤石な西部一帯も現状維持の方向で宜しいかと。とは言え、いきなり副都バレンダウンを突くのではリスクが高いですから……」
「では狙いは東部方面か?」
「はい。敵方は連日の敗戦で、人的損害以上に連携にヒビも入っておりましょう。離間策と陽動作戦を組み合わせ、東部諸侯を各個撃破していくのが常道です」
ジットリスの献策に気分を良くしたフェイニールであったが、手放しには喜んだりせず腹心の意見を仰いだ。問われたアリスに異論はなく、その旨をマリス家の当主たる双子の兄へと告げた。
フェイニールが今後の方針をそれと決しようとした矢先、ジットリスが水を差すようにして言葉を紡いだ。
「……ただし、一つだけ懸念材料がございます。ヴィトウスに駐留する白騎士団の存在です」
白騎士団の名を聞いたフェイニールは、苦虫を噛み潰したような不快な表情を浮かべた。カナル帝国の正騎士団にして、統率者不在の武力集団。ウェリントンの出奔後、彼等は東部の街ヴィトウスに立て籠り、貴族たちの繰り広げる内戦に関して黙りを決め込んでいた。
アリスはその行為に対して堂々不実を憤っているのだが、フェイニールの胸中はいま少し複雑であった。彼は、内戦下にあるカナルへと近隣諸国が手出しをしてこない理由の内、数こそ減らしたものの白騎士団がいつでも動ける状態にある点が第一だと分析していた。
目下白騎士団はフェイニールの呼び掛けに反応しなければ、バレンダウン陣営に与した様子もなかった。ヴィトウス勢がその中立ぶりをどこまで保ち続けるか、フェイニールやアリスにとって最大級の関心事と言えた。
フェイニールはジットリスとディロン・ガフロンを帰すと、ソファに深く身を埋めた。そして場に残った実妹と情報の共有を図った。
マリス侯爵家は名門で、現当主フェイニールの亡父の妹は皇妃であった。母は伯爵家の公女であり、血族の権勢はカナルでも屈指と持て囃されていた。政治や軍事の中枢でマリス家の息が掛かっていない処などなく、フェイニールもいずれは帝国宰相や大臣といった天上の職に就任する身空と見られていた。
そんなマリス家が、フェイニールの父親が急逝するという悲劇に見舞われた。のみならず、二十歳を過ぎた頃よりフェイニールが血液の病を発症し、続く心労から彼の母親も床に臥せった。
他方、フェイニールの双子の妹アリス・マリスだけは壮健で、バレンダウンの中央魔法学校でマジックマスターとしての頭角を現し、宮廷に帰参した後は兄や母を助けてマリス一門をよく守り立てた。フェイニールとアリスは兄妹揃って非凡な政治センスを有していて、租税や官僚制度、果ては農地の改革まで幅広い分野で実績を残していた。
皇帝と皇太子が相次いで悪魔に侵されたことこそ見抜けなかったものの、マリス兄妹が昨今のカナルの屋台骨を支えていたことに変わりはなかった。それを自負しているが故に、バレンダウン伯爵と伯爵公女の急激な台頭は、兄妹にとって看過し得ない事変であった。
白騎士団とバレンダウン伯爵率いる諸侯軍がぶつかったあの時、病身にて兵を率いることの出来ないフェイニールに代わり、アリスは白騎士団に加勢をするつもりでマリス家の私兵を集結させていた。だが目算は崩れ、アリスの予想よりも大分早く白騎士団は敗れ去り、バレンダウン伯爵公女の一派がチャーチドベルンの悪魔打倒を公表するに至った。
今勃発している内戦の根本原因に、つまりマリス兄妹は何ら関われていなかった。その事実は二人の矜持をいたく傷付けていた。
「……フェイ、起きていて大丈夫なの?」
「ああ。お前の戦勝報告が良い気付けになったよ。アリス、よくぞ頑張ってくれた」
「ううん。悔しいけれど、あの軍師の功績よ。敵の布陣を看破して見せたことから兵の運用まで、的確に導いてくれたわ。それに、ネメシス・バレンダウンの本隊は出てきていない」
アリスは軽く息を吐くと、フェイニールの隣に腰を下ろした。兄妹二人きりの時は人目を憚らず、砕けた調子で兄へと接していた。
「ああ。それでも此度の勝利は大きい。ジットリスこそああは言っていたが、このまま勢いに乗ってバレンダウンで決戦に臨むというのも一つの手だ。いっそ一気に白黒を付けてしまった方が、カナル総体としては被害が少ないのだからな」
「理屈ね。今なら五分と五分。……ベルゲルミルの都合ではそうもいかないのでしょうけれど」
「そう。かの国は我らとバレンダウン伯爵勢が噛み合って共倒れになることを望んでいる。だからこそ、劣勢にあった我らにジットリスとディロン・ガフロンを派遣してきたわけだ」
戦術家として高い名声を確立しているジットリスと、槍を取らせては万夫不当の猛将ディロン・ガフロン。二人はベルゲルミル連合王国から遣わされた客員将校であった。
兵数や現場指揮官の能力は互角であっても、マリス一門の手勢は開戦当初からバレンダウン伯爵勢に押されていた。原因は悪魔退治を成し遂げたことによる敵の自信の表れと、そこに携わることが叶わなかった自陣営の卑屈さという意識的な差異にあると、フェイニールは自己分析していた。
ベルゲルミル連合王国から援助を打診された折、フェイニールは相手の企みに敢えて目を瞑り、実を取った。すなわち、如何なる手段を用いてもバレンダウン伯爵勢を排斥して直ちにカナルの国勢を回復し、ベルゲルミルに付け入る隙を与えなければよいとの考えであった。
アリスは急戦に関しては回答を留保し、それ以外の状況について兄に訊ねた。
「マイルズ神殿の司祭との交渉は進展あった?マジックマスターを一人でも多く従えられれば、戦場でこれほど優位なことはない」
「上手くいった。と言うより、そう御膳立てがされていた」
フェイニールの答えに、アリスの目付きが険しくなった。碧眼の奥にちらちらと炎が揺らめいた。
「フェイ……まさか、ベルゲルミルがそこまで?」
「おそらくはな。これも結果論だが、戦神マイルズの神官たちを駆り出せるなら、誰の作意が働いていようと構わない。マイルズ神殿にはドワーフの神官戦士が無数に在籍している。これを取り込むことが出来たなら、主要都市の防備や戦場での工作手段には事欠かないだろう」
でも、と反論をしかけてアリスは口をつぐんだ。
(こちらの内部事情さえ知られなければ、これでいいのよね……。対ベルゲルミルのことなんて、ネメシス・バレンダウンに勝ってから考えても遅くはない。フェイが万事上手く指揮してくれる!)
翌日、別の戦地で不意に発生したマリス一門とバレンダウン勢の遭遇戦は、両軍共に被害を出して痛み分けに終わった。その報に接したフェイニールは、大事の前の小事と関心を示さず、ジットリスと協議の上次なる攻撃目標を模索した。