動乱-3
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ネメシスの諸侯軍と<リーグ>の傭兵隊が白騎士団を撃破したとの報は、瞬く間にカナル中を駆け巡った。態度を決めかねていた、或いはチャーチドベルン防衛にと準備を進めていた地方領主たちは、戦況を知らされたことで当惑した。
帝国最強の白騎士団が敗北を喫した。そのことが意味するものは大きく、少なくとも国内においては、ネメシスの勢力を撃退することのできる戦力が存在しないと証明されたのであった。
こうして、早期の内よりネメシスの下へと参じた諸侯以外は黙りを余儀無くされた。
ネメシスは時間が惜しいと全軍をそのままチャーチドベルンに向かわせたが、残る悪魔の王との戦いに展望があるわけではなかった。アムネリアに説明されるまでもなく、かつての魔境大戦において人間側が被った実害に関して、ネメシスも知識としては有していた。
滅亡したニナ・ヴィーキナ。ニナ・ヴィーキナへ援軍を送ったことで聡明な王太子を失ったミスティン王国。ズタズタにされた対魔防衛ラインの諸国。
その時悪魔の王がもたらした惨事は、伝え聞くだけでも幾多に上った。此度ネメシスと諸侯軍が挑むにあたり、どれだけの犠牲を必要とするものか甚だ不明であるが、中立を掲げるエルフの長ですら、その巨悪を放置出来ずに人間社会への干渉を決断する程の事態であった。ネメシスは考えるだに恐怖を覚え、迫る決戦への重圧から喉はからからに渇いていた。
遂に、帝都チャーチドベルンまで僅かの距離を残すのみとなった。
「ネメシス様。敵は高い確率で下位の悪魔をぶつけてくることでしょう。ここからは集団戦ではなく、抜けられた者が直接帝宮を目指す方針となさいませ」
馬を寄せ、クルスはそう釘を刺した。
「上位悪魔が下位悪魔を召喚すると言うのですか?」
「はい。馬鹿でなければ、数百にも及ぶ兵士を単独で相手にしようとは思いますまい。チャーチドベルンの外と内に、必ずや手下を放ってくるかと」
「成る程……悪魔の群を相手に戦術を競うのというのもナンセンスですね。分かりました。フィニス!」
ネメシスは腹心のフィニスを呼び寄せると、軍中の各指揮官に裁量権を与えた上で、個別に帝宮へと進軍するよう命じさせた。その指示が行き渡ったか渡らないかの内に、全軍の進路上に異形の集団が確認された。
「悪魔だ!」
クルスは予めラーサー・ホマーに前方を警戒するよう念を押していた為、敵の早期発見が為された。<リーグ>の傭兵隊は数を大きく減らしたとは言え対悪魔戦力として貴重であり、それは彼等が帝国領内で悪魔討伐の経験を持つことに因った。
クルスは傭兵たちを先行して展開するよう要請し、ネメシスは即座にその意見を受け入れた。
偵察に出ていた傭兵が発見したところによると、<人喰い>や<山羊面>のような剛力にものを言わせる連中から、機敏さと獰猛さで知られた四足獣型の<黒犬>、翼を持ち鋭い爪と嘴で襲い掛かる半人半獣型の<鳥人>といった悪魔まで、雑多な種がチャーチドベルンを取り囲んでいた。クルスの予想が当たったことで、ネメシスの彼への心理的傾注は強まった。
「クルス。私の護衛をお願い出来ますか?何としても、帝宮まで辿り着きたいのです」
ネメシスに頭を下げられては無下にも出来ず、クルスはアムネリアやノエルと共に諸侯軍の中央に布陣した。
(単独で行動した方が効率は良さそうだがな。……まあ、おれ個人の力で奴を倒せるわけでもないか)
ノエルはクルスの隣に陣取り、刻一刻と近付く悪魔との戦いを前に、彼に気構えを訊ねた。
「あれだけの数の悪魔を目の前にして、あまり緊張している様子もないようだけれど」
「そう見えるなら成功だ。男は常日頃から堂々としていなければ、女から頼られることもない。おれが動じるのは美女の憂い顔と涙にだけさ」
「……勝てるかしら?」
ノエルは幾ばくかの不安を感じているようで、クルスに向けられた表情からはいつもの自信や傲慢さが窺えなかった。
「ノエルは風の精霊の召喚を得意とするだろう?」
「ええ」
クルスは口の端を小さく曲げて悪戯っぽく笑った。
「なら<鳥人間>を散々に落としてやればいい。いい的だぞ。あとの犬っころや木偶は、おれとアムで斬り崩す」
「百匹はいるって聞いたけど?」
「こっちは五百以上の戦力を残しているのだから、どうという数ではないさ。フィニスにイグニソス、それにノエルと一流のマジックマスターも揃った。負けるいわれはないし、おれたちは悪魔の群を突っ切って帝宮へと向かう」
「……大丈夫、よね?」
「ああ。これまで悪魔を何百匹と退治してきたおれが言うのだから、間違いはない。信じろ」
クルスの力強い口振りに安堵したのか、ノエルは少しだけ長く息を吐いた。そしてにっこりと微笑みを浮かべた。
少し離れたところから二人のやりとりを眺めていたアムネリアは小さく鼻を鳴らしたが、口に出しては何も言わなかった。代わりにネメシスがアムネリアへと語りかけた。
「クルス・クライスト……不思議な男です。普段は調子の外れた軟派な言動が目につきますが、大事には人の変わったような凄みを見せる。有言実行、頼りにしたくもなります」
「あの男は、そこまで絶対的な強さを有しているわけではありませんが……」
アムネリアの指摘に頷くも、ネメシスはクルスにウェリントンの如き無敵の剣腕を求めて信頼を寄せているのではなかった。クルスは傭兵に有りがちな不遜さや粗野な空気とは無縁であり、上流階級に属するネメシスと比肩した知識や礼節を持ち合わせているという確信が彼女にはあった。
彼と知り合って興味を抱いて以来、ネメシスは裏でクルスの<リーグ>バレンダウン支部所属以来の経歴を洗わせていた。彼が<疫病神>などという不名誉な通り名を与えられる経緯を含め、全てを調べて浮かんできたのは、クルスが悪魔を憎み、悪魔の関わる依頼から決して逃げることなく高難度の任務にも率先して参加してきた事実。結果的に、彼以外のメンバーが全滅しても仕方のない事案にばかり首を突っ込んできたという背景が判明した。
周囲に抗議をするでもなく、<疫病神>と罵られながらも着実に任務をこなす傭兵。女遊びは多少目に余るが、それすらも強要や詐欺紛いの行為とは一線を画した自由恋愛の範疇で、ネメシスの目にはクルスが「能ある鷹」の最たる存在と映った。
対して、アムネリアのクルスへの評価は定まっていなかった。
(ラクシと呼んでいる、あの<戦乙女>の召喚。あれは人の技ではあるまい。あの者がそれを自ら身に付けたのだとすれば、マジックマスターでない点が気に障る)
マジックマスターは体内の魔法力を物理現象に変換する、所謂魔法を扱う専門家だ。魔法力自体は元来ほとんどの人間が備え持って生まれてくるもので、それを魔法として活用できるかどうかは個人の才覚や遺伝に因った。
中でも生まれつき魔法力が多いとか、変換効率に優れた異能を持つ者が専用の育成機関で学び、数ある魔法と世の理を修得するとその者をしてマジックマスターと呼んだ。国家の武の象徴として語られる騎士に対して、マジックマスターは武の補佐や智の代表として見られることが多かった。
クーオウルの神官であり、マジックマスターとしての資格も有するアムネリアから見て、例えばノエルはマジックマスターの中でも特級品であった。イグニソスやフィニスは自分と同等に多彩な魔法を使いこなし、魔法に限定されぬ広範な知識を会得している一級品。ネメシスとても、マジックマスター程ではないにせよ、初級の魔法は高い精度で身に付けているように思われた。
しかし、クルスは違った。彼からは魔法力そのものが微塵も感じられず、当然魔法を行使することはなかった。それでも魔法への理解は相当に深く、これがアムネリアに疑念を抱かせた。
(魔法力が元からないのではなく、何らかの事情で根刮ぎ失ったのではないか?そんな事象が存在するとは聞いたこともないが……)
「アムネリアさん。この戦いに勝利した後に、私はクルスを登用したいと思っています」
「護衛か何かに、ですか?……いえ、そうではありませんね。姫様のことです。あの者を騎士にでも推しかねません」
「その通りです。バレンダウン騎士隊なり新設の傭兵隊なりで総帥に迎えたい。出陣の前に話したところでは、クルスは軍略にも明るい。今回の帝都進撃作戦を実行するにあたり、進入経路から補給計画まで、彼に忠告を貰って何点も修正致しました。ルカ隊長も感嘆する程に、その指摘はもっともな内容だったのです」
アムネリアは文字通り絶句した。ネメシスがそこまでクルスという人物のことを買っていたのかと。
(カナル帝国の……副都の騎士を統べる身分だと?一介の、女たらしの傭兵風情が?……とても信じられん)
言葉を紡ぎ出せないアムネリアを尻目に、ネメシスはノエルと会話しているクルスの背を愛しそうに眺めて言った。
「事態がこうなってしまった以上、私は皆に望まれた役割を果たす覚悟を決めました。クルスには……私がカナルを再建する手助けをして欲しい。それだけの力が彼には有ると、確信しております」
***
帝宮内。皇殿の玉座に至る道筋は幾通りもあった。にも関わらず、目映い白色の甲冑を着込んだ騎士のその場に居合わせたことが果たして偶然であったのか、侵入してきた者たちには判断がつきかねた。
金糸で刺繍の施された上等そうなローブに身を包んだ女と、草色の粗末な貫頭衣姿というエルフの男。その二者を先頭にし、屈強な五人の戦士が従った一団。帝宮に招かれざる七人組は、回廊の柱の陰から現れた一人の騎士に怯むことなく、足を前へと進めた。
「止まれ。それ以上進むと命の保障はしてやれん」
武装を白一色で染め上げた騎士が、重々しい声音で告げた。七人は足を止め、紫色のローブを纏った女が代表して手短に応答した。
「悪魔の手から賢者の石を取り返しに来た。分かるわね?時間が惜しいから、邪魔をするようなら排除してでも押し通るわ」
「ならば何も言うまい。このウェリントンが相手をしてやろう」
白の騎士が腰から剣を引き抜いたことで、戦闘は速やかに開始された。紫のローブの女は当然ウェリントンの名に心当たりがあり、彼がカナルどころかアケナス屈指の剣士であることも承知していた。それでも誰一人として引き下がらなかった。
(義はこちらにある。それに、騎士一人が幾ら強かろうと所詮は個よ。私たちは負けない)
ウェリントンが床を蹴り、駆け抜け様に剣を払った。女とエルフを守るようにして前に出た三人の戦士の内、恰幅の良い長身の男がウェリントンと斬り合った。二振り目の剣はその場にいた誰の目にも捉えられぬ刹那の間に繰り出され、相対していた戦士が首筋から血流を迸らせて倒れた。
「……ッ!」
次のウェリントンの襲撃は静かなる刺突であった。浅黒い肌をした戦士が瞬発力を発揮し、大剣を滑らせてそれを防いだのも束の間、ウェリントンの鋭い体当たりを喰らって揉み合いとなり、その流れでこれまた首を掻き斬られた。
「ぐッ……うおおお……ッ!」
エルフの放った風の魔法がウェリントンの全身を縛り、ほぼ同時に紫のローブの女が猛毒の霧を具現化した。ウェリントンは並外れた精神力を発揮し、近くにいた戦士の袖を掴んで自らの下に引き寄せた。たちまちに魔法の霧に捕らわれ、戦士の息の根は止められた。
ウェリントンは鬼気を宿した形相でなおも次の敵を求めたが、抵抗力の限界を超えたのか吐血してその場で果てた。剣が床を跳ね、甲高い音が回廊にこだました。
決着を見届けたエルフは憂いを含んだ息を吐き、傍らの仲間を振り返った。紫のローブの女は目を吊り上げ、倒れた三人の戦士の亡骸を凝視していた。その表情からは切迫感が窺え、エルフは声を掛けることを躊躇った。
(無理もない。レイ・フェニックスで目利きをして雇い、儀式魔法を用いてまで連れてきた猛者たちだ。何れもスコア900を超える練達の傭兵と聞いた。それが五人の内三人までも、奴と会する前に失われてしまったのだからな……)
***
悪魔の群を斬り抜けた時、ネメシスの周囲を固める者はクルスら以外に五人となかった。だが、それは諸侯軍が悪魔に討ち取られたという意味ではなく、むしろ互角以上のペースで交戦している中を、八人が強引に突破してきただけのことであった。
ネメシスのカリスマ性は兵に勢いを与え、悪魔と衝突したとて士気が低下することはなかった。そうして始まった斬り合い・撃ち合いの中を、クルスの剣やノエルの魔法で早々に抉じ開け、一行は見事チャーチドベルンへと到達した。
市内に配された敵騎士はもはやネメシスらと戦う意思を示さず、散発的に現れる悪魔も脅威とは言えなかった。クルスは味方の中でも、取り分けフィニスの魔法の腕に注目していた。
(若いというのに彼女の巧さは尋常じゃない。特殊な訓練でも積まないと、こうはいかないだろう)
ネメシスの的確な案内で、クルスらはチャーチドベルンを馬で走り抜けた。非常事態と知ってか帝都の人通りは少なく、全速で行く彼らの進路を阻む者はなかった。
「クルスよ!悪魔の王・アスタロテをどうするのだ?事と次第ではあのウェリントンも敵に回るのだぞ。まさか、無策では闘えまい」
アムネリアが声を上げると、ネメシスやノエルも聴覚を鋭敏にしてクルスの答えを待った。
クルスは少しの間黙って手綱を操り、何事か考えるようにして前方を睨みつけていた。やがて並走するアムネリアを横目に見据え、重々しく口を開いた。
「悪魔の王が如何に強力でも、剣や魔法が通じないわけじゃない。好き勝手暴れられると手はつけられないだろうが、魔法力さえ抑え込めたなら帝宮内で事は収まる」
「どうやって抑え込むというのだ?ノエルとフィニスだけで対抗出来ると?あとはそなたの<戦乙女>だが……」
「ラクシには前衛を務めて貰う。悪魔の王が持つ神剣・ダーインスレイヴと生身の人間が斬り合うのは危険だ。グングニルで神剣を封じなば、開戦早々血の海が出現する羽目になる」
「……神剣ダーインスレイヴだと?」
アムネリアが眉をひそめた。彼女は歴とした神官であり、神話・伝承の類いには明るかった。
「ああ。何より厄介なのが神剣だ。一度抜かれると、一定以上の血を吸わねば鞘に戻らない魔性の剣。……従って、この闘いで犠牲が出ないことはもう有り得ない」
「神々の所有物たる宝剣を、何故悪魔の王が手にしているのだ?」
「さあな。案外、上位の悪魔というのは神に近いのかもしれない。圧倒的な身体能力と、人間と変わらぬ知性。膨大な魔法力に有限とは思われぬ長い寿命。条件は揃っている。まあ、他にクラウ・ソラスの例もあるから何とも言えないが」
最後の一節にはアムネリアやネメシスも同意できた。
神剣クラウ・ソラス。豊穣と大地の神が護身に携えたと伝わるその一振りはアケナス北部のミスティン王国にあり、代々の王位継承者が所有権を継いでいた。
今日この時ばかりは、アムネリアの追及はそれで終らなかった。
「ダーインスレイヴ対策は分かった。で、敵の魔法力をどう封じるのだ?この面子でそれが叶うと思うか?」
「……どの道やつとの対決は避けられない。戦術で十割勝利する見込みがなくとも闘うこと自体は確定事項だろう?もしやつが単体狙いの魔法攻撃に及んだなら、対象となった一人を犠牲にして総攻撃を仕掛ける。これで十中八九、手傷は負わせられる。後は更なる退場者を出す前に、速攻で片を付けるだけさ」
広範囲を標的とした魔法攻撃に踏み切られた場合、皇殿が崩れて全滅の憂き目に遭う可能性だってあると、クルスは付け加えた。魔法対魔法の勝負においては単純にマジックマスターの質と量が勝敗を左右するため、彼にも手の打ちようがないというのが本音であった。
帝宮を視界に捉え、ネメシスの指示で皆が馬から下りた。マジックマスターながらに剣を抜いたフィニスを先頭に、八人は警護の姿の見えない門を潜った。
「これは……」
広がる光景は、庁舎や尖塔が規則正しく、そして無数に林立したカナル政府の中枢であり、ここをはじめて訪れたノエルなどは、人工建築物が圧迫感を伴って整然と居並ぶ様に大いに悪感情を刺激された。帝宮と呼ばれる政府機能及び貴族の生活区画は計画的に建設されたが為に無機的な印象が強く、木々のざわめきや小川のせせらぎを愛するエルフの見地とは、まさしく対極的な代物であった。
(人間は……どうしても自然と距離を置きたいの?ここでは緑の息吹が感じられない。動物たちの営みとも無縁。こんなのって……ここが魔境と言われても、私は信じてしまいそうだわ)
フィニスとネメシスは迷いなく皇帝の御所たる皇殿へと向かった。残りの面子も静かにそれに倣った。
アムネリアは話し足りないとばかりに、走りながらクルスへとすり寄った。
「アム。よりによってこんな時に、おれへの愛に目覚めたとでもいうのか?……まあ、難事に挑むにあたって異性をより強く求めるというのは、人間の本能に則った話かもしれないが」
「思考回路が相変わらずお花畑よな。だがお互いここで死ぬかもしれん以上、敢えて妄想と現実の差を諭す必要性は感じぬ。特にそなたは戦死が危ぶまれる故」
「……優しいのか酷薄なのか、よく分からない答えだな」
クルスは特に気にした様子もなく平然とした調子で返した。アムネリアはすかさずクルスの胸元にまで接近すると、声を潜めて言った。
「クルス。悪魔の王を知っているのだな?別に何も答えなくて良いが、気負ってはならぬぞ。そなた程度の腕前では、怒りに我を忘れるようなことがあれば容易に死を招く」
クルスは目を見開いたが、何事か返事をする前にアムネリアが離れていったせいでこの話はそれで終わりとなった。アムネリアは一言だけ添えるべきか迷ったものだが、それがどんな心境の変化を表すものか考えることを止め、ただ胸中に留め置いた。
(そなたに死なれると、私も少しだけ寂しいでな……)