エンディング
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クリス・アディリス・レインを名乗る男の朝は早かった。職務柄同じ床に寝起きをすることは少なかったが、この日は帝都バレンダウンの安宿で目覚めた。外で朝の空気を吸いながら剣の素振りなどし、宿の朝食を平らげてからゆっくり城へと足を運んだ。
フルカウル城への出入りは頻度に恵まれず、守衛に名を告げねば正門を潜ることは出来なかった。畏まる騎士を宥め、クリスは城内へと立ち入った。そうして足早に内庭を横切った。
「お待ちください。何故に逃げるようにして先へ行かれるのです?お戻りになると聞いて、こうしてお待ちしておりましたのに」
庭内で声が掛かり、クリスは恐る恐るといった体で相手を目で追った。そこで警らしていたのは彼の想像した通りの人物であった。
整えられた流れるような髪は艶やかな灰色で、長く腰まで垂らされていた。額には銀の額冠が凛々しく飾られており、はっきりして秀麗な眉は気の強さと清らかさをこれでもかと主張していた。
紛れもない美少女が、腰に剣を帯びた騎士の装いでクリスを待ち構えていた。
「やあ、レイ。暫く見ない間に、一段と綺麗になった。あちらこちらで、カナルの宮中に傾国の美姫がいるらしいと噂になっているぞ」
「それを聞いて、クリス様は何とお答えになっているのです?」
「いや、おれはそれ、男装の君と出会ったものだから。美貌の女男爵とは接する機会が乏しくてな」
「御望みとあらばいくらでも。クリス様ったら、全然構って下さらないんですから」
いつの間にか間近にまですり寄って来ていたレイが、クリスの腕を取り艶かしい流し目をくれた。クリスが聞いたところでは、流石に彼女も年頃を迎えて男では通せず、ネメシスの推挙もあって女性として生家を継いだとのことであった。
元々卓越した剣技を有しており、魔神を巡る一連の騒動で活躍もしたことから、レイの家督継承や爵位の付与に障害は少なかった。もしあったとしてもネメシスがそれに耳を貸すべき理由はなく、晴れてレイは女貴族としてカナルの社交界に飛び入りした。
隠していた煌びやかな容姿が衆目に公開されるや、レイにはカナルのみならず諸国の貴族や騎士から縁談が相次いで申し込まれた。それは勢力絶頂なカナルにおいて皇帝と親い家門に接近したいという意図から、美しい少女を娶りたいという欲求まで様々で、引く手はまさに数多と言えた。
レイはそれらの全てを良しとせず、たとえネメシスの推薦があっても徹底して固辞を貫いていた。
「涙が出そうな程に嬉しい申し出だがな。レイは男爵閣下で、おれは流れのいち騎士。釣り合いがとれないこと甚だしい」
「・・・・・・全く。それはクリス様が陛下のご寵愛をいつまでも拒絶なさっているからです。爵位も将軍位も、栄誉は思いのままでしょうに」
「そんな身分になったら、城下で満足に夜遊びもできない」
「いい加減にしないと、そろそろ陛下の逆鱗に触れますよ?私などがいくら言っても、どうせ貴方は聞いて下さらないのでしょうけれど」
「あの方々のお叱りでなければ」という文節を、レイは口にする寸前に理性で抑え込んだ。アムネリア・ファラウェイやノエル、フィニス・ジブリールらの話は、今もってクリスの前では口に出すことが憚られた。
レイは程好いところでクリスを解放し、予定していた通りにネメシスの居場所へと案内した。公式予定を見れば、ネメシスはバレンダウンのカナン聖神殿で終日祭祀に携わっている筈で、それらの情報操作はレイとアイザックという女帝の最側近が汗をかくことで実現していた。
フルカウル城の奥には元より広めの中庭が配されており、それは代々のバレンダウン総督が静養に活用していたものであった。ちょっとした茶室を備えた小さな庵も建てられていて、人目に付かぬ会合にはうってつけと言えた。
中庭の周辺はアイザックが人払いを命じてあったので、日が差した庵の縁側に座るネメシスの他には、何者の気配も感じられなかった。寂しげな笑顔を見せるレイに優しく背を押されて送り出され、クリスはしっかりした足取りでネメシスの下へと参じた。
「巡察騎士クリス・アディリス・レイン、戻りましてございます。ネメシス様」
「半年ぶりになりますか。御苦労様でした。クルス・クライスト」
ネメシスは碧眼に慈しみの色を湛え、絶世の笑顔でクリスを迎えた。そして自らの腰掛ける隣をぽんぽんと叩いて隣へ来るよう促した。
少しの距離を置いてクリスが腰を下ろすと、ネメシスから尻をずらせて間を縮めてきた。クリスの鼻に懐かしいネメシスの体臭が匂った。
「その名は、過去の遺物です。〈疫病神〉クルス・クライストはクラナドから戻らなかった。ネメシス様の隣にあるは、クリスという出自の卑しい騎士。カナルに拾われた、亡国の騎士に過ぎません」
中庭の空を遠い目をして眺めるクリスの横顔は精悍で、ネメシスは久しく目にしていなかった彼の様子をじっと窺った。
クラナドが崩落したあの日、クリスは地上へ落下する前にイーノ・ドルチェを捕まえて、エウレカへの再同調を試みた。イーノはサラスヴァティ・レインやイビナ・シュタイナー繋がりで古代の魔法儀式に通じており、一時は水の枯れた器に仄かな銀光が灯された。
だが、周辺を偵察していたエデンによれば、突然に天使や天使資格者たちの姿がかき消え、それと共にクラナドは一切を消失した。イーノの見立てでは、魔神を討ち果たしたアムネリアらが、クラナドのアケナス統治システムそれ自体を抹消したのではないかということであった。地上に降り立った後、エウレカなどの設備は影も形も無くなっていた。イーノが連れてきたイビナ・シュタイナーの末裔たちだけが、全員五体満足のままに寝かされていた。
自分が為そうとした目的を、アムネリアらが完璧に遂行してくれた。当時のクリスはそのことに感謝こそすれ、三人やゼロが戻らないことをすんなり受け入れるわけにはいかなかった。
北の岬の石塔に始まり、マジックアカデミーやアルヴヘイムを回って、クリスはクラナドと神の伝承を調べ尽くした。しかし、アムネリアたちを取り戻すことに繋がる有力な情報は得られず、全てが徒労に終わった。何故か同行して調査を手伝っていたエデンが、「だから、僕を神に指名していれば良かったのに」と盛んに嘯いたものだが、クリスはそれを無視し続けた。
ようやくネメシスに連絡をつけ、クリスがカナル政府の末端職位に就いたことには理由があった。
「それで、目的は果たせたのですか?」
「ええ。南部諸国の政治家にも話せる人間が幾らかいました。鐵宰相のレベルは望むべくもありませんがね。外交部から人を出していただければ、カナルの協調介入はそう難しくないでしょう」
「その話ではありません」
「・・・・・・足跡は無しでした。元は神ですから、それほど迂闊ではないのかも知れません。まあ、気長に捜しますよ」
「商売と海洋の神リヴァイプ。死と夜を司りしシュラクから枝分かれた竜王。管理者権限を失った身で、一体どこに潜んでいるのやら」
クリスが望みを残したのは、曲がりなりにも神であったリヴァイプや竜王で、凍結湖から隠れた二者を追うために、ネメシスから諸国の遊説が可能な身分を授けられていた。気楽な一人旅になるかと思いきや、これも如何なる理由か、巡察騎士の側役としてエデンがクリスに同行していた。
それに関しては後に、ミスティンのマジックマスターであるフラニル・フランが、傭兵総長サルマン・ジーノに宛てた手紙の中で次のような私見を述べていた。曰く、「イーノ・ドルチェという人は、エデンには私心がないと言い切ったとか。つまり、彼はエデンを人形のように育成したと豪語したわけです。サラスヴァティ・レインの運命が天使種族の掌の上にあったと知って、イーノ氏は絶望した。だからこそ、自らが過酷な人生を押し付けてしまった弟子に対して、ある種の罪悪感が芽生えたのではないか。それでクリス・アディリス氏に彼を預け、人間性を養わせようとしたのではないか。クリス氏やラグナロック卿から伺った話を総合すると、そのように考えられて仕方がないのです」ということであった。
「ラーマ・フライマのように、飛び抜けて魔法素養が高い聖人でもいれば捜索も捗るのでしょうがね。栓無き話です」
「クルス。今日は大切な話があります」
名前を訂正することは諦め、クリスは何を叱られるものかと身構えた。気楽に旅しているようであって、実際はネメシスの名代でもあるので、クリスはクリスなりに風紀に気を付けてはいた。
ネメシスはいったん姿勢を正すと、至近距離からさらに顔を近付け、クリスの耳元で静かに囁いた。
「私、子を宿しました」
「は?」
「侍医が言うには、半年前の子で間違いないそうです」
「・・・・・・」
「あなたの子です」
「・・・・・・」
「大陸秩序を整備する為カナルの専制政治をいま少し続けるのであれば、この子が次代の皇帝となりましょう。私としては、一人で育てるのにやぶさかではありません」
クリスことクルス・クライストの頭の中が真っ白に染まった。魔神ベルゲルミル打倒の為身を犠牲にした女たちを取り戻すこと。彼はこれまで恩讐にのみ拘って周りが見えていなかった。
ネメシスと愛を育むことにも少なくない後ろめたさを覚えていたが故に、クルスは公職においては極度に中枢から遠ざかった。レイなどから指摘された内容はまさに正鵠を射ており、クルスとてよくネメシスが我慢しているものだと心の底では申し訳無く思っていた。
ネメシスの告白により、クルスの心の芯を取り巻く凍り付いた殻にひびが入った。そうして生の感情が溢れ出してきた。
(俺だけが、囚われすぎていたんだろうな。これではニナ・ヴィーキナの時から成長がない。女にどやされないとどうにかならないのは、おれの宿命なのか)
『その通りだ。情けない限りよな』
『そうよ。あなたは女に導かれる運命なの』
『同意します。陛下の御前で、甘えた根性を叩き直して差し上げましょうか?』
『はい。・・・・・・それでも構いませんが』
クルスは懐かしい四人の声が聞こえたかと錯覚した。それに続けてダイノンが太い首を上下させる光景や、マルチナやアルテ・ミーメの肩をすくめる仕草が思い起こされた。エレノアとワルドは皮肉気な目線を寄越してきた。
クルスは心の内に失われた仲間たちの姿を求めた。最後に、二人の女勇者の残像がクルスの瞼の奥をちりちりと焼いた。
元来女沙汰には定評があるだけに、思い切ったクルスの反応は明瞭であった。
「皇帝の旦那になるというのは、どんな手続きがいるものですかね?何分、経験がないもので」
クルスは片目を瞑り、微笑と共にそう応じた。ネメシスは一瞬だけ目を見開いてクルスを凝視したが、すぐに元の凛とした素振りを取り戻した。
「・・・・・・歴史に学んでも、経験者は片手の指を出ないでしょう。あなたさえ宜しければ、段取りを学者たちに検討させます」
「よしなに。これで誰に触れ回らなくとも、自ずと慶事を知らせることができます」
「きっと、街々の姫が苦情を申し立てに参内するのでしょうね。私はそれを一々聞いてやらねばならない、と」
「いや・・・・・・ネメシス様は私の人となりを誤解しておられる。アムが常々誇張して告げ口をするものだから・・・・・・」
「フィニスも言っていましたがね。こうなれば本懐です。全ての被害者の話を等分に聞きます。それが皇帝であり、あなたの妻にもなる私の務めでしょうから」
皇帝位は関係なかろうと思ったものだが、ばつの悪いクルスは指摘を慎んだ。ネメシスに対してしっかりと約した以上、クルスは彼女とその子、そしてカナルの繁栄に責任を持たねばならないと堅く心に誓った。
(みんな。鬼ごっこはいったん仕舞いにする。折角延ばして貰った命数だ。後で責められないよう、せいぜい有効に活用するよ)
聖神の信仰が広く浸透している現実と秤にかけられたことで、決して公に祀られることはなかったが、クルスとネメシスが生涯信じたのは四人の女神であった。生前の彼女たちは何れも美しく、そして雄々しかった。
アケナスを近い未来の破滅から救い、そこに住まう人々に運命を委ねた女神たちは、クルスが事前に取り決めた約束の通り二度と姿を現すことをしなかった。クラナドや天使の不在により、管理者という概念自体が失われて神は消えたのだと主張する輩もいたが、クルスやネメシスは生涯問答を避けた。
四女神の祝福の下に、アケナスはこれより平和期に突入した。カナル帝国は間も無く全盛を迎え、ネメシス帝の威名は大陸の隅々にまで行き渡った。
ネメシス帝は各地を行幸し、人々の前に勇姿を見せては力強い激励を残していった。晩年まで、その隣には多少威厳の不足した赤茶色の髪の偉丈夫が寄り添っていた。
クルス・クライストの四女神とカナル帝国記 ~完~




