クルス・クライストの四女神-2
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ネメシスは、台座から己に語りかけてくる光がアムネリアやノエル、そしてフィニスなのだと感じた。そうして自分の直感を信じてみると、直接頭の中に落ちてくる声にも力がこもった。
『ネメシス様。我等が魔神を払います。三者であれば、力の散逸も寄生への対抗も問題ありません故。それでは、これにて失礼』
「アムネリア?待ちなさい!」
『役目を終えたら天使たちを解放して、クラナドは放棄するわ。ネメシス様も皆も、無事に地上へ帰しますから御心配なく。クルスと森の皆のこと、どうか頼みますね』
「ノエル!話を・・・・・・」
『ゼロの魂は私たちが一緒に連れて行きます。陛下。末永くカナルとアケナスを安んじられますよう。我が心は、いつでも御身の側に』
「フィニス!・・・・・・今まで、ありがとう・・・・・・」
光はそのままゆっくりと空間に溶け込んで、ゼロの遺体と共にその場から完全に消失した。話したいことは山程あったものだが、今の言葉が彼女たちにとり精一杯の別れの挨拶であったのだろうと、ネメシスは叫び出したい心境を抑止した。
光が去ったのと同時に、ラファエルはクラナドに滞留していた神秘的とでも言うべき魔法力の気配が失われたことに感付いた。それはこの天上世界の成り立ちに深く関わっているものとも思われ、ラファエルは三女神との邂逅も無しにクラナドの終焉を予期した。
「陛下。ここは間も無く崩れ去りましょう。脱出行程を探るべく、クライストとの合流を果たすべきかと」
「・・・・・・貴方にも伝わりましたか。ラグナロック卿、アヴェンシス卿。大丈夫です。三女神が魔神を打倒し、私たちを地上に導いてくれます。もはや勝利は疑いありません」
ネメシスの淀みない発言に、イシュタルが疑問を唱えた。
「陛下。それは先程の怪現象と、ゼロの遺体が無くなったことと関係がおありですか?あれはもしや、アムネリアやノエルさんの・・・・・・」
「そうです。クルスが望んだ形でこそありませんが、新しき神の誕生を知らされたのです」
「ああ、アムネリア・・・・・・!」
かつての同僚が神に化身する道を選び、そしてそれを実現したことにイシュタルは嘆息した。それは別れに他ならず、魔に連なる勢力を敵として同じ旗を仰いだアムネリアやノエルが永遠に失われたことは、無念千万と言うべき事件であった。
ネメシスはイシュタルが衝撃を受けている様をまじまじと見つめ、幾ばくか溜飲を下げた。仲間と信じた者達が、身分や所属を越えて実力者に惜しまれるというのは、ある意味報いの一つの形であろうと信じた。
イシュタルの細い肩に手を添えて、ラファエルが誰にともなく呟いた。
「結局アケナスを正道へと導いたのは、サラスヴァティ・レインの一味でもワーズワースの一党でもなかったわけだ。クルス・クライストと、彼に付き従った女神たち。皮肉なものだが、世界を管理するのに最も遠い存在と思われた面々が結果を出したのだな。・・・・・・脱帽だ」
「・・・・・・ラファエル様。これで良かったのですか?私には分かります。アムネリアは神になど成りたいわけではなかったのだと。本音では、クライストと共に人の生を全うしたかった筈です。なのに・・・・・・」
「それは忖度というものだ。自己犠牲の精神は好きではないが、心情なら理解できる。他人がそれに文句を付けたところで、単に価値観や信念を否定するに過ぎない」
「でも・・・・・・」
イシュタルは事態を告げて去ったクルスの背中を思い返した。あれほどの自信家が、まるで萎んでしまったかのように肩を落として縮こまっていた。
(別の手立てはなかったの?魔神を打ち倒した先にニナ・ヴィーキナの悲劇が再来したのでは、彼があまりに可哀想だわ!)
はじめはかたかたと細かい石粒が震え出し、それは直ぐに地鳴りを伴った横揺れへと姿を変えた。地震はクラナド全域に及んでいるようで、ラファエルは二人を促して半壊状態の城跡からの脱出を急いだ。いくら女神が脱出を約したとはいえ、建材の下敷きになっては物理的被害を受ける恐れがあった。
三人が目にしたのは、灰色をした天に断裂の証とも思える線が浮かび上がるという、世界の終わりを表したかの如き光景であった。
「クラナドが・・・・・・割れている?」
「イシュタル。クライストの気配を探れないか?」
神具を使い続けてきたラファエルの肉体は既に限界を迎えており、この場で魔法を行使することすら憚られた。イシュタルとて疲労の極致にあったのだが、クルスを捜索するという理由であれば底力が発揮された。
イシュタルが目に見えぬ魔法の網を全方位に広げる間、クラナドは有り様を著しく変貌させていった。天のみならず地割れが頻発し、辛うじて残っていたエウレカ周りの建造物も軒並み崩壊した。騒々しく響く衝撃音の連鎖は、ネメシスの耳に破滅の足音と聞こえた。
やがてイシュタルが捕まえた反応は、天使種族やそれに類するイビナ・シュタイナーの血族たちで、その者らは何某かの役割を担っているのか、各自が動かずじっとその場に留まっていた。次いでイーノ・ドルチェやエデンらの影が感知され、最後に独りで彷徨うクルスと思しき対象を割り出した。
イシュタルが駆け出すに合わせて、ネメシスとラファエルも後に続いた。揺れる地面に足を取られながらも、三者は岩場を上って目的の場所へと達した。
殺風景な景色にぽつねんと浮いた木造の小屋は、度重なる地震にみしみしと悲鳴を上げていた。小屋の壁に、クルスは何をしているでもなく背を預けていた。
「クルス!」
ネメシスとイシュタルが率先して近寄ると、クルスは生気に乏しい顔をしてぽつりと語った。
「かつてルガードと闘い、ビフレストを経てここに来た。アムは・・・・・・天上に完璧な統治システムがあるのなら見てみたいと言っていた。そして、天使からクーオウル神が不在と聞いて、いたく衝撃を受けていた」
「クルス・・・・・・」
ネメシスは否応なしに、己が目に涙が盛り上がる様を感じた。
「あの時、おれが統治システムの更新なぞ話題にしなければ良かったんだ。たとえこの先に文明の刷新が起こるにせよ、それを運命だと割り切って考えていれば、こんな別れ方はせずに済んだ・・・・・・」
ラファエルをはじめ、誰も反証を試みることはなかった。事が起こってしまった以上、クルスの気持ちには彼自身がけりをつけるしかなく、問答に意味はないと皆が承知していた。
クラナドの崩落は間近であると思われたが、遠くで鳴る轟音にもネメシスが繰り返し「大丈夫です」と皆を鼓舞するので、一同は小屋の前に留まった。揺れは収まることなく、その勢力は増すばかりであった。
そして唐突に、ひび割れた天より稲妻に似た眩い光が降り注いだ。
***
レイの血に染まった視界の内で、奇蹟は起こった。全身を青銀色の光で包み込んだアムネリアとノエル、それにフィニスの三者が、武器を手にしてラーマ・フライマへと殺到した。
ただの一瞬で闘いは終わりを告げ、後には何者も残らなかった。大竜はいつの間にか姿を消し、騎士団を相手に暴れていた残る竜も皆、我に返ったかのように瞳に知性の光を取り戻すと、慌てて何処かへと飛び去って行った。
戦闘の終了。辺りを覆っていた霧が一斉に晴れたことで、生存した騎士らはそのことを次第に実感し始めた。
「・・・・・・あれは・・・・・・」
「そうなっちまった、ってことなんだろうな」
地面に尻餅をついたまま疑問を声に出したレイへと、寄ってきたサルマンが言葉を返した。サルマンの手にした剣は先端が折れており、全身の装甲は至るところが砕け、露出した肌は裂傷と打撲痕とに埋め尽くされていた。
額からの流血で顔面を濡らし、左手に凍傷を負っていたレイも同じようななりではあったか、二人は存外元気な様子で意見を交わした。
「あの御三方が・・・・・・!アムネリア様が!ノエルさんが!それに、まさかフィニス様が!あれは・・・・・・」
「クルスの計画を彼女たちが達成した。つまり、クラナドで神に転身したということなのだろうよ」
「皆さん、帰ってきますよね?」
「さてな・・・・・・」
サルマンが言い淀んだことに納得が行かず、レイは魔神の消滅した辺りをじっと睨んだ。だが、どれだけ待ってもアムネリアらが帰還する兆しは窺えなかった。
まるでそこが司令部でもあるかのように、レイの周囲に各部隊の隊長級が集まり始めた。ライカーンやアストレイは、負傷こそあれども比較的元気な部類で、むしろ実力からして上位のボードレールは、弁解の余地がない程にへばっていた。
「・・・・・・イグニソス。手当てをしてくれ。もう手足の感覚がない」
ボードレールに要請されたイグニソスは、実は離れた位置で気絶していた。ぎりぎりまで竜王や魔神に抵抗を続け、防ぎきれぬ衝撃波を浴びて昏倒させられた結果であった。
イオス・グラサールは気力を奮い立たせ、粛々と残存兵の整理に当たった。開戦からこちら気を張り続けてきたアンナは流石に不調を発し、勝利の確定と共に大地に寝転んだ。
近くにスペクトル城の控えていることから、ミスティン騎士団などは特に獣人の出撃を警戒した。しかしそれも杞憂に終わり、全軍の撤退時においてもイオニウム側に動きは見られなかった。
「フラン。よく生き残りました」
血の気が極度に薄い白んだ面相をして、数の減少から貴重となった馬に騎乗するアンナが、フラニル・フランへと声掛けをした。〈脱兎〉が行方不明となった為に、今や〈リーグ〉勢力を率いるのはフラニルとサルマン両人の役目と化していた。
全軍は取り急ぎミスティン王都へと入る算段で、一塊になって行軍していた。
「殿下も御無事で何よりです。ここまで霧が晴れたのですから、もう完全に終わったと考えて良いのでしょうね」
「クルスたちがやってくれたのです。・・・・・・顛末は聞きましたか?」
「ええ。レイから。でも肝心のクルスさんは、どこでどうしているのやら」
「天上の楽園クラナド。魔神を倒してくれたアムネリア・ファラウェイたちが本当に神へと化身したのなら、かの地にいるであろうクルスも無事に決まっています」
「そうですよね。信じて待ちますよ。何せネメシス陛下からは、たんまり報酬をいただかなきゃ割に合いませんし」
「報酬なら私からも出します。言い値で支払うから、遠慮せずに申告なさい」
アンナが真面目な顔をして言うものだから、軽口を叩いた側のフラニルは慌てて取り繕った。彼をはじめとしたクルスの理解者たちは皆、金銭への執着が極度に少なく、常日頃権力者の近くにあっても見返りなどは求めなかった。
(それに・・・・・・エレノア・ヴァンシュテルンは、もういないんだ)
フラニルの思考が、この場に辿り着くことの叶わなかった麗人へと及んだ。エレノア亡き後のミスティン王国がどう運営されるものか、そこにアンナがどのように関わるものかは、フラニルの知るところではなかった。だが、先に茨の道が続くことを思えば、おいそれと報酬などは要求できなかった。
アケナスの諸勢力が的と決めた魔神は滅びたわけで、偶発的に集合を見た連合軍の解散は間近に迫っていた。ただの傭兵と呼ぶには過大な働きを見せたフラニルにとって、新たな世界の幕開けは非常に不安定なものと捉えられた。
「フラン。新生ミスティンには、ヴァンシュテルン将軍に変わる新星が必要です。どうかあなたをスカウトさせて下さい」
「えっ?」
「〈リーグ〉やクルスの手前もあるでしょうから、直ぐの返事は求めません。ですが、私とミスティン王国は、歴戦のマジックマスターであるあなたにいつでも門戸を開いています」
アンナからの突然の勧誘はフラニルを酷く混乱させた。丁度イオスが隊列を離れて近付いて来たので、話はそれで仕舞いとなった。
ベルゲルミル連合王国が連帯を解いた今、戦後アケナスを先導するのは間違いなくカナル帝国であるとアンナは睨んでいた。純軍事的にはセントハイムやオズメイも比肩しようが、如何せん魔神征伐の英雄はカナルの縁者が多数を占めており、例えアムネリアらが帰らずとも人材の質という観点からカナルの隆盛は明らかと思えた。
旧連合王国で言えば、ファーロイ湖王国やサイ・アデル皇国。それに加えて妖精、エルフ、ドワーフの諸勢力までもがクルスとネメシスに与しているのだから、アンナやイオスの懸念はあながち的外れではなかった。二人はカナル帝国一強の時代を強く憂慮しており、帝国と同盟関係にありながらも独立性を維持する為の手段は率先して採用すると決めていた。
(・・・・・・新たな神の誕生により、信仰の土台も揺らぐかもしれない。ディアネ神殿とは綿密に打ち合わせないと。傷んだミスティンの復興と強靭化を考えたなら、今日からは夜眠る暇もないわ)
アンナは、祖国の政治を熱心に考えるように努めた。そうしていないと、未だ帰らぬ勇者たち、特にクルス・クライストへの心配が募るばかりと分かっていた。
フラニルはフラニルで、アンナの申し出を受けてワルド・セルッティのことを思い起こしていた。手綱を握る手付きはしっかりしていたが、頭の中はあの口が悪い皮肉屋の冷笑に占められた。
(パーティーを抜け、サイ・アデルに士官する道を選んだ。ワルドさんは戦後の生き方を考えていたのだろうか・・・・・・。〈白虎〉も魔神も討ち果たし、〈フォルトリウ〉の役割が失われたのなら、後はもう魔境くらいしか身近な脅威はない?それなら〈リーグ〉は・・・・・・国家間紛争への介入に活路を見出だす他ないのか?)
フラニルは、これから花開く新しい時代において自分がどう生きていくものか、真剣に考えを巡らせた。これまでは絶えず目の前の凶事に追われ、はたまたクルスやアムネリアが進路を定めてくれたので、特に疑問を抱くことなく過ごしてきた。
こうしていざアムネリアらが側からいなくなって、フラニルは言い様のない困惑に囚われ始めた。マジックマスターとして、魔神に絡んだ事件を追い続けてきた当事者として、フラニル・フランという人間に果たして何が出来るのか。クルスやアムネリアの庇護なくして、ただの傭兵たる自分を必要としてくれる環境などどこかにあるのか。
悩みの種は幾らでもあるように思われた。しかし、フラニルには頼れる仲間の姿が目に浮かび、そこは夜営の折りにでもレイやサルマンに相談してみようと心した。
連合軍は数日を要して一先ずアグスティの内外に駐留した。帰参したミスティン騎士団やアグスティの官民総出による歓待は、諸国の戦士たちを分け隔てなく良く慰労した。そして部隊の補給や傷病人の手当てが一通り済むと、首脳たちの間で、改めて戦後処理を議論する為の場を設けることが約された。
解散にあたり、はじめにセントハイム騎士団と〈リーグ〉シスカバリ支部の傭兵たち、それにアルヴヘイムの妖精勢が東へ向けて出立した。続けてオズメイの群狼騎士団が南へ、レイバートンの銀翼騎士団は西へと軍列を返した。
カナル帝国の主戦力は、ファーロイ騎士団まで含めて殆ど全滅に近かったので、僅かな生存者だけが徒党を組むことにした。念入りに旅支度を整えると、行商の一団さながら馬や荷車に相乗りし、最後にアグスティを発った。その一党を率いるはレイとフラニルであり、あまりに減った自軍の威勢に自然と言葉が少なくなった。
ボードレールとイグニソスの姿はそこに無く、二人は賢者の石を用いて独自にクラナドの行方を追った。諸国の軍がミスティンを出て十数日の経過を見たが、依然としてクルス一行の帰参報告は上がって来なかった。
さらに二十日が過ぎた頃、人知れず魔境の中央部から白煙が立ち上った。魔境に潜む人々が目撃したところによると、天より何やら質量を伴った巨大な物体が落下して来ており、着地の強烈な衝撃や轟音が確認されていた。
時を同じくして、賢者の石はようやく魔境の方角に求める相手の存在を感知した。




